悪魔に誑かされる戦士

 ライナーたちはウォールローゼの壁を越え――やっとの思いでウォールマリア領内に到達した。
 一昨日から予測不能な事態ばかり起きている。壁は破られるわけないのに巨人が発生した時、何が何だか分からなかった。マルセルを喰った巨人がユミルだと分かった時、息が詰まってしまうほど驚いた。
 始祖を奪還するため、遥々マーレ大陸から壁の中に潜入して五年。マーレ軍は待てども成果と報告のない状況に痺れを切らしたらしい。遂にパラディ悪魔の島へ乗り込み、威力偵察の一環でラガコ村の住民を巨人化させた。それが今回の騒動の真相だ。月夜に照らされた獣の巨人あれはジークだった。上官の姿を見間違えるはずない。マーレ軍の船が島の波止場に停まっている証拠だ。
 機は熟した。勝てると思ったからライナーは勝負に打って出た。白日の元で正体を明かし、エレン奪取に踏み切ったのだ。ユミルと長い間行方知れずだった進撃か始祖と共に――やっと故郷へ帰れる。
「ライナー!もう限界だろう。日没まであそこで休憩しよう!」
 肩に乗るベルトルトの指し示す先に小規模な巨大樹の森が見えた。背後から調査兵団が追って来る気配もない。ベルトルトの攻撃をまともに受ければ回復するまで時間を要する。だけど安心は出来ない。いずれ調査兵団はエレンたちを取り戻すため絶対に追って来る。
 今の内に出来るだけ距離を稼いでおきたいところだが、先ほどの交戦で体力を消耗してしまった。ここから波止場までかなり距離もあるし、今の状態で巨人に遭遇するのは避けたい。巨人化能力者にとっても巨人は脅威なのだ。まずは樹上で日没を待ちながら体力回復に努めるのが先決だ。

 巨人化を解いたライナーは、樹上へ身体を投げ出すように横たわった。心臓の鼓動が身体中に響く。乱れる呼吸を整えるため酸素を取り込むと肺が大袈裟に上下した。何度拭っても汗はだらだら滴り落ち、全身に鉛を巻かれたような重さを感じた。意外と限界だったらしい。
 向かい側の樹上に横たわたる三人を眺めた。まだ目覚める気配はない。
「調査兵団は僕たちの正体に勘づいたんだ」
「ああ……。壁外調査後すぐに隔離された理由がやっと分かった」
 兵団服を着るな。訓練もするな。何もしないで待機しろ。あの時から妙な違和感は覚えていたけれどその正体が何なのか分からなかった。どの時点で疑われていたのだろう。トロスト区攻防戦の時か。それとも二体の被検体を殺した時か。もしくは壁外調査の時か。案外、早い段階で気づかれていたのかもしれない。ずっとエルヴィンに泳がされていたのだろう。自ら正体を明かした今、そんなことを考えても意味ないのだが。
 マルセルが喰われからライナーたちの計画は大番狂わせになった。始祖奪還計画はあらかじめ四人で遂行することを念頭に練られていたからだ。四人揃っていれば五年も手こずることもなく、計画は効率良く進められたはずだった。始祖の巨人を手中に収め、今頃は故郷で英雄になっていただろう。
「ライナー、身体は大丈夫かい?」
「少し休憩すればじきに動ける」
 ベルトルトは、後ろ髪引かれるように逃げて来た方角を眺めている。堅牢な壁を二つ越えた先にウォールシーナがある。憲兵に紛れたアニの身を案じるのは、ライナーも同じだった。アニとは幼い頃から戦士候補生として共に切磋琢磨した間柄である。ライナーはベルトルトが気を揉む理由が分かっていた。アニに対して同胞以上の感情を向けていることも。
「アニも危ないかもしれない。でも置いて帰るなんて……」
「助けに行きたいが今は無理だ。まずはエレンとユミルをマーレ軍に預けてからだ」
「もちろん。分かっているよ、ライナー」
 聞き分け良い言葉だけど視線の先は壁の向こうだ。正体を明かした今、壁の中へ戻ったらどうなるか火を見るよりも明らかだ。ベルトルトも頭では理解しているけど、心中は穏やかでないはずだ。アニを連れ戻しに行くには、まだ問題が残っている。ライナーはエレンの立体機動装置を装着した。

 ユミルはマルセルを喰い、どこまで彼の記憶を見ただろう。そもそも見れたのだろうか。巨人化能力と一緒に前任者の記憶も継承されるが、見ようと思って見られる都合良い代物ではない。実際にライナーは前任者の記憶を見ることはあまりなかった。だからユミルがこちらの事情を全て理解しているとも限らない。そして一番気がかりなのは、巨人化能力者でもない彼女の存在だ。
「ベルトルト。何故ナマエまで連れて来たんだ!?」
 ベルトルトは頭の回転も早い。何の理由もなくナマエを攫うわけない。攫わなければならない理由が他にあるはずなのだ。
「多分、いや…… ナマエは巨人の正体に気づいた。ラガコ村に行った時、コニーの家で仰向けになった巨人を見た彼女は……目を輝かせていたんだ」
「ゲルガーの質問にナマエは、人間を喰べない奇行種がいるかもって――」
「真相を誤魔化すために僕が吐いた嘘だ。彼女はそんなこと信じてない」
 ライナーは黙ってしまった。あの時は真相に気づきそうなコニーを宥めるのに必死で、他の連中まで気を配れなかった。そんな中でもベルトルトは冷静に周囲を観察していたのだ。
 コニーの家で横たわったまま動けない巨人。それを前に目を輝かせた ナマエ悪魔の姿は、さぞ悪辣で悪趣味な光景だったろうとライナーは思った。エルディア人 ナマエ の正体も巨人化け物なのに。
「ライナーはナマエに何か感じたことはなかったかい?他の悪魔たちと違う……違和感みたいな……」
 違和感。心当たりは全くない、とは言い切れなかった。胸に忍び寄る厭な予感の正体は何だ。ライナーは続きを促すように目配せする。
「あの時、ナマエが……怖いと思った」
 ベルトルトは長身を折り曲げるように、両膝を抱えて座り込む。両目には不安そうな色を浮かべている。
「あの時っていつだ?」
「訓練場の裏手……見晴らしの良い場所で、僕はナマエと二人で話したことがあったんだ。君はエレンたちと町へ出かけていなかったんだけど」
 ベルトルトはぽつりぽつりと語り始める。
 その日は調整日だったらしい。一人で雑木林を進み、見晴らし良い場所からローゼの街並みを眺めていた。そこにナマエは一人でやって来たという。二人で話しても気まずさは感じなかったようだ。
「彼女は……海を見たことあると思う」
 五年前の襲撃で死んだ両親の仇を取るためじゃない。壁を越えて海を見るために訓練兵団に来たと、ナマエは明かした。
『……おかしいよね、私の居場所は壁の世界ここなのに、今更どこに帰るっていうの?』
 外の世界へ想いを寄せる姿は、まるで夢見心地の少女みたいで――明らかに壁の向こう側にある場所故郷へ帰りたがっていた。
ここにいれば・・・・・・平和に暮らせるなんて、まるで他の場所だと私たちが・・・・・・・・・・ 平和に暮らせない・・・・・・・・みたいじゃない?』
 恍惚の色に染まる頬は何を覆い隠しているのか。ベルトルトは純真無垢に微笑むナマエの正体を暴きたい衝動に駆られると同時に、酷い動揺と底なしの恐怖を覚えたという。
「ナマエの帰りたい場所って、僕たちと同じじゃないかって」
「は……?」
 ライナーはベルトルトの言葉に耳を疑ってしまった。驚くあまりただ呆然と幼馴染を凝視する。
「以前、アニが言ってだろう?王都に潜入した時に聞いた噂話を」
「あの噂話は調べても真偽不明だっただろ!ナマエがその家系だなんて……馬鹿げた話あるか!?」
「じゃあ何故ナマエは海を知っているんだ!?波の音も塩水の味も、灼けつく太陽の熱さも!島の悪魔なら知らないはずだろう?」
「そう、だが……」
 ベルトルトの言う通りだ。そもそも壁の中の悪魔は海なんて知らないし、見たこともない。ライナーはあり得ないと分かっても、僅かな可能性に邪魔されて否定出来ない。
 大陸から王と共に渡ったエルディア人の中に、マーレこちら側の人間も紛れていたという根も葉もない噂話だ。真偽を確かめるため王の周辺を探ったところ、他人種系エルディア人の存在まで分かったが姓名はおろか存在すら分からなかったのだ。仮にマーレ側に与する家系も紛れていたとして――三重の壁が築かれて百年余り経ち――今もその家系は遺っていると思えない。我々の同志だとしても、家系は絶えているだろうし、悪魔に同化されているかもしれない。
軽い目眩を覚えて頭を抱えた。戦士は悪魔に誑かされている。
軍の上層部彼らが僕たちに全てを伝えた試しはあったかい?いつも肝心なことは伏せて秘密裏に思想調査するのが定石だったじゃないか!」
「……っ、お前、マーレを侮辱するつもりか!?」
 ベルトルトはライナーの詰問に答えない。悪魔の甘言は戦士の忠誠心を試している。
『マーレ人に生まれていれば……』
 母は双眼に涙を潤ませ、震えるような声で呟いたことがあった。母の言葉の意味も涙の理由も分からなかったけど、長じた今なら分かる。あれは――マーレとエルディアに対する呪詛だった。
 幼い頃のライナーは、母とマーレ人になるために戦士を目指していた。島の悪魔を成敗し、皆を救う英雄になるために。
 名誉マーレ人になれば自由が手に入る。
 惨めな毎日から脱却出来るといえば聞こえは良いかもしれないけど、実際はマーレ軍の都合良い手駒に他ならない。厳しい訓練に耐え、やっとの思いで戦士に選ばれても発言の権限すら満足に与えられず、諾々とマーレ軍の命令に従うだけ。マーレに忠誠を誓い身を粉に働いても、エルディア人化け物である限り世界から恨まれ続けるのだ。結局、名誉マーレ人になっても何も変わらない。

 ウトガルド城にあった鰊の缶詰はジークが故郷から持ち込んだ物だと思う。ライナーは何故ナマエがそれを知っているのか説明出来なかった。そもそも海を知らない壁内の人間が海水魚である鰊を知っているはずないのだ。でもナマエは鰊の文字は読めなかったが――食べられることは知っていた。
『この文字、“にしん”って読むんだ。初めて知ったよ』
『だいぶ年季はいってるね。 まだ食べられる・・・・・・・かな?』
 壁内の保存食は酵母の力で作られているため密閉技術は発展していない。おまけにマーレ軍と違って長距離遠征もないので缶詰は存在しないのだ。
缶詰・・なんて久しぶり・・・・に見たよ、どこにあったの?』
 あの時、ナマエは戸惑うライナーとユミルを不思議そうに見つめていた。彼女はおかしなことを言った自覚すらしてなかったと思う。仮に壁内でも壁外人類でもない場合――いや、そんな馬鹿なことは絶対にあり得ない。この世は壁の外の広い世界と壁の中の狭い世界で成り立っており、どうやっても覆せない。天と地が逆さまにならないのと同じ理屈だ。
 異質な存在に気味悪さを覚えるベルトルトの気持ちがようやく分かった。ナマエが起きたら確認しなければならない。
「だからナマエも連れて来たのか」
 二人の混乱を分断するように突然ユミルが割って入ってきた。
「ユミル……!目が覚めたんだね」
「大きな声で話していたら、嫌でも起きるよ」
 驚くベルトルトをよそに、ユミルは隣で横たわるナマエを眺めていた。
「ライナーさんよ、私らをどうするつもりだ?」
「エレンが起きてから話す」
「……そうかい。話の邪魔して悪かったよ」
 ユミルは大人しく引き下がった。妙に勘どころが良いから、あれこれ質問されると思っていた。やけに従順な様子は却って怪しさを際立たせるものだ。何か企んでいるかもしれない。
「ユミル。何を考えている?」
「別に何も。大人しく待っている方が賢明だと思ったまでさ。ほら、こんな有り様じゃね……」
 値踏みするような視線とぶつかり合う。ユミルはエレンを利用してここから逃げる腹積りだろうが、ライナーにはとっておきの手札・・・・・・・・があるのだ。

 ちょうどその時、エレンが身じろぎする気配を感じた。
「おう、エレン。起きたか」
「う、腕が……!?」
「見ろよ。私もこの通りだ。お互い今日は辛い日だな」
 ユミルは自虐的だった。彼女の容態は巨人の治癒力でだいぶ修復されている。ただ、あれほど重傷を負ったのだから完全に治るまで時間かかるだろう。
「何で俺の腕がねぇんだ……?」
「すまん。俺がやったんだ。慌てて項に噛みついたら、お前の両腕を蔑ろにしちまった」
 ベルトルトの攻撃で一瞬の隙を突き、あの場から離脱するには致し方なかった。腕の一本や二本なんて巨人の治癒力でどうにでもなる。今エレンに巨人化されて再び戦闘になるのは避けたい。両腕の修復に専念してもらう方が、ライナーたちにとって都合良かった。
「そうか……。俺は負けたのか」
 エレンは溜息を吐くように独りごちる。四人の間に神経を逆撫でされる緊張感が走った。一触即発の睨み合いの末、エレンは思い切り腕に噛みつく。ベルトルトは吠えた。
「エレン!やめろ!」
「まあ待てよ、エレン。よく周りを見てみろ」
 太陽は真上から少しずれ、心地良い晴天が広がっていた。巨大樹の根本には人間の存在を感じ取った巨人たちが集う。大小様々な巨人たちはこちらに腕を伸ばしていた。寝そべりながら樹上をうかがっている巨人や、樹の影から顔を覗かせる巨人もいる。襲って来る気配はないが十分に脅威だ。
「巨人の領域内を生き抜くのは、巨人の力が持っていても困難だ。分かるだろ?暴れてる余裕はないんだって」
「そもそも今、お前らは巨人になれん。そんな都合の良い代物じゃねぇのさ。体力は限られている。今はお前らの身体を修復するので手一杯のようだ」
「馬鹿が。誰がてめぇの言葉なんか信用するか」
 エレンは憎しみを噛み締めて詰る。詰られようと責め立てられようとも、今更どうでも良かった。
「まぁ、巨人の力について私も詳しく知っているわけじゃないからな。そのへんの仕組みはあんたらと違ってよう知らん。さて……そろそろ起こすか。話が進まない」
「何でナマエがここに……」
「おい、ナマエ。いいかげん起きろっ!もう十分寝ただろ」
 ユミルはエレンの質問に答えず、ナマエの身体を乱雑に揺する。相変わらず粗野な女だと思う。

 やっと目が覚めたナマエは、身体の違和感を覚えたらしい。声を出そうにも口元の布が邪魔で喋れず、身動き取れないまましきりと周囲を見回していた。知らないうちに手足を縛られていたら、誰だって気が動転してもおかしくない。
 ユミルは顎でこちらを指し示す。ナマエの驚愕する瞳とぶつかった。彼女は何か言いたそうに表情を歪ませる。
「ナマエも起きたことだし、そろそろ教えてくれよ。あんたたちはこれから私らをどうするつもりだ?」
「俺たちの故郷に来てもらう。大人しくしろって言って従うわけないことは分かっている。だがユミルの言う通り、ここは巨人の巣窟だ。ここで今俺らが殺し合ったって、弱ったところを他の巨人に喰われるだけだ。つまり巨人が動かなくなる夜まで、俺たちはここにいるしかねぇのさ。お前らが俺らを出し抜くにしろ、俺らがお前らを連れ去るにしろ、夜まで待つしかない」
「鎧の巨人のまま走って故郷まで帰らず、こんな所に立ち寄った理由は何だ?疲れたから休憩してんのか?」
「お前の想像に任せる」
「単純に夜になるまで待っているってことか?」
「それもあるかもな」
「あの城の巨人は夜なのに平気で動いていたぞ。ここの巨人はどうだ?」
 昨晩の巨人はジークの脊髄液を摂取したから昼夜構わず動けたのだ。恐らく井戸水か、もしくはガスに混ぜたのだろう。マーレ軍の常套手段だ。
「ここの巨人は夜には動けない。そんなこと、お前なら分かってるんだろ。ユミル」
 一体ユミルは何を探ろうとしているのか。まるで誘導尋問みたいだとライナーは思った。下手に墓穴を掘れば、こちらが命取りになりかねない。無駄話はしまいだと意志を示すため口を噤んだ。日没も調査兵団も――まだ来ない。

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