水無月の夢

ふわりと鼻腔を擽った華やかな香りで、長次は伏せていた瞳を開く。
気付かないうちにうたた寝でもしてしまったのだろうか、ぼんやりと霞む思考でそんなことを考えれば、すぐ傍から聞こえたのは上品な笑い声。

「昨夜は、あまり眠れませんでしたか?」

「………ええ、まあ…」

咄嗟に返事をしてしまったが、聞き覚えのあるようでない声に彼ははて、と首を傾げた。
自分は今、何をしているのだったろうか?
心の奥底に浮かぶ疑問。しかしそれを考えようとしても、どうもうまいこと頭が働かない。なんだか真綿で体を絡めとられ、自由を奪われてしまっているような…なんとも表現しがたい感覚を自覚した長次は、そこでやっと視界を占める白に気がついた。

「とてもよくお似合いですよ」

耳を擽る上品な声に促されたわけではないが、長次はゆっくりと顔をあげ、周囲を見回した。
彼の目に映るのは、白で統一された6畳ほどの小さな部屋。
その隅っこに置かれた1人掛けのソファに腰を下ろしていた彼は、見覚えがないはずのその部屋を感慨深い思いで眺める。
そして、部屋の奥に位置する壁全体を覆うくらい大きな鏡に映った自分自身を見て、息を呑んだ。
見慣れた深緑でもない、好んだ青色とも違う、目が眩むような白いタキシード。
それを身に纏った鏡の中の長次は、目にかかりそうな長さの前髪をざっくりと後ろに流しながら、緊張した面持ちで佇んでいた。
鏡に映る人物は自分のはずなのに、どこか他人を見ているような感覚に目を瞬かせてしまったが、その考えは一瞬にして彼方へ吹き飛ぶ。

「長次ったら、自分に見惚れているの?」

鈴を転がしたような声、重たい衣擦れの音…先程から聞いていた上品な声がお待たせいたしましたと告げ、部屋の半分を覆っていたカーテンが開いた。

「とっても美しい花嫁様ですよ」

恐らく上品な声の主だろう。グレーのスーツを纏った女性が晴れ晴れとした笑顔でカーテンから姿を現し、長次に微笑みかける。
しかし彼が目を奪われたのは、彼女にではない。
グレーのスーツに手を借りて、カーテンから出てきた、眩いばかりに煌く澄姫。
華奢なデコルテに輝く粉をはたき、目眩がするほど魅惑的なボディラインを覆うのは、優雅に海を舞うマーメイドホワイト。
長く伸びるトレーンをふわりと下ろした彼女は、チークで彩った頬をさらに鮮やかに染め、恥ずかしそうに俯いて上目遣いに彼を見た。

「な、何か言って…?」

蚊の鳴くような声を奏でた桜色の唇は普段の何倍も艶やかで、長次は言葉を失う。
どんな褒め言葉も陳腐に感じてしまう程の澄姫の美しさに、呼吸すら忘れて立ち尽くす。
長いこと真っ赤な顔で見詰め合っている2人の空気を絆したのは、スーツの女性の笑い声だった。

「新婦様があまりにも綺麗だから、新郎様固まっちゃってますね」

その一言で、長次の頬にかっと朱が走る。
同じく真っ赤になった澄姫の肩にそっと触れたスーツの女性は、彼女を鏡の前の椅子にゆっくりと座らせ、赤くなった耳たぶにドロップパールのイヤリング、細い首にイヤリングと揃いのデザインのネックレスを慣れた手つきで飾っていく。

「さあ、そろそろお時間ですよ」

静かに時間を告げながら、スーツの女性は丁寧に纏め上げられた澄姫の絹のような髪に、ふんわりとマリアヴェールを乗せた。
女神といっても過言ではない姿の澄姫をゆっくり立たせ、長次に手袋を持たせたスーツの女性は優しく微笑み、おめでとうございます、と頭を下げてから小部屋の扉を開く。部屋の外で待機していたのだろう、数人のスーツの女性が甲斐甲斐しく2人の身の回りの準備をしながら先導したのは、厳かな雰囲気漂う大きな扉の前。
言われるままに開かれた扉を進み、穏やかに微笑む初老の男性の前まで1人歩いてきた長次は、疑問すら感じないまま祭壇に上がり、ゆったりとした動作で扉を振り向く。
どくどくと自身の心臓がはち切れそうに鳴る音を聞きながら静かに深呼吸をした時、再度大きな扉は開かれた。
大きな拍手の中、姿を現したのは、彼だけのマリア様。
ドレスのトレーンとヴェールを引きながら、目を引く真っ赤なバラのブーケを持ち、柔らかく光るヴァージンロードをゆっくり進む澄姫の姿に、長次の視界が揺れる。
長いこと彼女を守り続けていた大きな手から彼の手へと引き渡された宝物を、二度と離さないとばかりにしっかりと握り、ヴェール越しに潤んだ瞳を見つめながらそっと囁いた。

「…澄姫……とても、綺麗だ…」

「長次…、っ私、幸せで、死んでしまいそうだわ…っ」

感極まったのか、ボロボロと大粒の涙を零しながらも心底嬉しそうに笑う麗しの澄姫に、胸が張り裂けそうなほどの幸福を感じた長次は、私もだと呟いて








飛び起きた。

ぽかんとしたまま見回せば、そこは見慣れた長屋の自室。
寝起きの頬を撫でた生ぬるい風は梅雨特有の纏わりつくような湿気を孕んでおり、寝苦しいのか同室の友人は布団を蹴っ飛ばしてがあがあといびきをかいている。
そのまま枕元に視線を移せば、ぼんやりと視界に飛び込んだ一冊の本。
昨晩気紛れで借りた、南蛮の御伽草紙。
夢に恐らく…いや、確実に多大な影響を与えたそれを寝る前まで読んでいたことを思い出した長次は、夜明け前の薄暗い部屋の中、本を手にとり貢を捲っていく。

「……なるほどな…」

呟きと共に無骨な指がなぞった、夢に出てきた澄姫によく似た格好の女神の絵。
JUNO、と書かれたその貢に栞を挟んだ長次は、本を文机に置いて布団に潜り込む。
そして出来ることならもう一度、あの幸福な夢へ戻れることを願いながら、静かに目を閉じた。



麗しい、私だけの花嫁

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