爪切りテンプテーション

蝉が鈴虫にバトンを渡したのどかな夕暮れ時。
名の通り鈴の音のような涼しげな鳴き声に、ゆったりとパチンパチンという音が混じる一室で、澄姫はぴすん、と甘えた声を漏らした栗の頭を優しく撫でた。

「うふふ。良かったわね栗、長次に爪を切ってもらえて」

まるで彼女に返事をするかのようにあおん、と鳴いた栗はつぶらな瞳を嬉しそうに細めて、彼女の腰に背中を寄せてその場に伏せた。
その間も部屋にはぱちん、ぱちんと山犬の硬い爪を切る音が響いている。
その音を発生させている長次は澄姫の隣で胡坐をかいて座り、その足の上に桃を仰向けの状態で寝かせ、小さな足の先の爪を注意深く確認しながらぱちぱちと爪切りで切っていた。
爪切りと水浴びが大嫌いな桃も、不服そうに鼻に皺を寄せているものの長次には逆らえないようで、時々低く唸りながら大人しくしていた。
その1人と1匹の真剣な表情を窺い見た澄姫はくすりと小さく笑い、そっと手を伸ばして皺のよった桃の鼻を細い指で撫でる。

「長次、どう?難しい?」

鈴虫の鳴き声のようなその声に、長次は手を止め頷いた。

「……本で読んだ時は、簡単そうだと思ったが…神経を使う…」

そう言った長次の穏やかな瞳を見て、澄姫はおかしそうにころころと笑った。

数刻前の昼休み。いつものように図書委員会の当番で図書室にいた長次は入ってきた新刊の確認と整頓をしている時に一冊の本を見つけた。
それは目の前にいる恋仲が以前図書室に入れてくれないかとねだってきた、犬についての本。
学園で飼育している獣の中でも1、2を争う賢さと強さを誇る狼や山犬は扱ってみたがる生徒も多く、また生物委員会としても万が一何かあったときに備えて参考文献が欲しかったのだろう。
知識の幅を広げるのはいいことだと思うし、需要があるならばと快諾した長次。
…決して可愛いおねだりに陥落した訳ではない。小首を傾げた遠慮がちの表情が可愛かったなど思っていない。擦り寄ってきた身体が柔らかかったなど思ってもいない!!
と、まあ余計なことまで脳内で呟いた彼は、可愛い恋仲が可愛がっている山犬2匹を思い出して、その本をぱらりと捲った。
犬の生態の他に種類や特徴、性格、躾の仕方や手入れの方法についてまでもがしっかりと書かれており、意外と夢中になってしまった彼は昼飯を食い損ねたのだが、その代わり仕入れた新しい知識を早速試してみたくて、午後の委員会活動が終わった後生物委員会を尋ね、委員長である彼女に栗と桃の爪切りをさせてくれと頼んだのである。
普段地面を駆け回っている栗と桃の爪を切るという発想すらなかった澄姫は大層驚いたものの、よくよく見てみれば確かに地面では削りきれない親指の爪は伸びているし、桃に至ってはそれが気になるのか所々齧った痕まであったので、2人は2匹を連れて忍たまの6年長屋に向かい、井戸で2匹の足を洗ってから爪切りを始めたというわけだ。

ぱちん、とまた桃の爪を切りながら、長次はもそりと口を開く。

「…爪の伸ばしすぎは…怪我の元、らしい…」

「人間もそうよね。この子達いつも走ったり岩を登ったりしてたけど、あれは爪とぎの代わりだったのかしら」

「…恐らく………それと、犬の爪には、血管が通っている…桃のように白いと、まだわかりやすいのだが…栗のように黒いと、少しずつ確認しながら切っていく…でなければ、痛い思いをさせてしまうから…」

本で読んだことをゆっくり話しながら桃の爪を切っていた長次がそこまで言うと、澄姫がぱちぱちと瞬きを繰り返して、こてりと首を傾げた。

「………痛いと、ダメなの?」

その一言で、今度は長次が瞬きを繰り返す。
生物委員会委員長といえども実戦では犬を扱い戦う彼女。
そのスタイルを3年生の頃から見ていたことを思い出した彼は痛みに慣れさせる特訓でもしているのかと思い、どこか物悲しい気持ちになる。
その気持ちのまま俯き、桃の肉球を押して指を広げてやりながら、ゆっくり頷いた。

「……痛みを覚えてしまえば、もう…やらせてくれなくなる、だろう?」

犬は賢い生き物だ。苦痛を与えればそれをすぐ覚え、その行為と与えた者を酷く嫌うようになる。
こんなふわふわでもこもこで愛らしい生き物に嫌われるのは悲しすぎると心の中で呟いた長次は、ヒアーとあくびを零した桃に優しい眼差しを向け、その瞳を愛しい恋仲に向け、絶句した。

「…………」

何故か真っ赤になってもじもじと寝ている栗の耳を弄っている彼女。

「……澄姫…?」

話の流れにそぐわないその態度にそっと名を呼んでみれば、彼女の艶やかな唇が震え、羞恥に染まった瞳が彼を射抜く。

「…わ、私………」

「?」

「…わ、私は…痛くても、我慢したわ」

「!!!!」

ぶし、と鮮血が迸り床に赤い華が咲く。
すんでのところで桃の爪から離した爪切りは見事に長次の指を切り裂き、彼の指(とあと鼻)からぼたぼたと血が滴った。
突然のことに驚いて悲鳴をあげる澄姫と、彼女の悲鳴に驚いて目をまん丸に見開く栗と桃。
しかしそんな彼女たちをよそに、長次の脳裏に“澄姫が珍しく下ネタを口にしたこと”と“やっぱりあの時(=初体験時)強がって我慢していたのか”と“それは今後もヤッて欲しいから痛いのを我慢したのか”という三つのことがくるくると巡る。
それらは何周か彼の頭を巡ったあと混ざり合い、ひとつの言葉へ変わった。

「……………誘って、いるのか…?」

確認をこめて問い掛けてみれば、青からまた赤へと変わった澄姫の顔色。
無言でそれに答えた彼女を見てごくりと生唾を飲み込んだ長次は桃と栗を抱えて押入れに放り込み、血塗れの指を薄く開かれた口にしゃぶらせるとそのままの勢いで柔らかな身体に圧し掛かった。





翌日の朝。やけにすっきりした顔の長次は食堂に居合わせた小平太に真顔で“昨日の夜なんかめっちゃ抜け毛がすごかったんだけど、私ハゲるのかな?”と相談されて、盛大にお茶を噴いた。
勿論それは犬の毛なのだが、小平太は気付かなかったようだ。


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