暫く続いた緊迫は取り払われ、静寂が訪れた。
俺の下では唯が悔しそうな顔をしている。勝負は俺の勝ち。ま、斬り込み隊長であるこの蛇骨様なら当然だ。と言いたいところだが、唯が武器を上空に放った時は一瞬、負けを覚悟した。
全く予測のつかない行動。失敗の許されない危険な賭け。それを迷わず実行する唯はやはりただモンじゃねぇ。初めて会った時、大兄貴は既にこいつの素質を見抜いてたんだろうか。俺よりも早く唯のことを…。もしもそうだとしたら少し――…
『…悔しいよ』
「えっ?」
『まさか剣術で蛇骨に負けるなんて。蛇骨なんかに…』
…蛇骨なんかにって何だ。二回も言う必要があったのか。やっぱりこの女、ムカつく。
ついいつもの癖で反論しようと口を開く。だが刹那に唯が見せた悲しげな顔に思わず固まってしまった。
『もっと強くならなきゃ、このままじゃ足手まといだね』
震える唇を噛み締める、その表情は不安に満ちていて。無意識に手が伸び、唯の頬に触れる。
「あんま頑張り過ぎんなよ」
『でも…』
「分かってる。お前が俺らと対等な立場でいたいと思ってることは」
“守られるだけじゃ駄目。みんなの後ろについていくんじゃない。並んで歩いていきたいの”
以前向こうで式神と戦った時、唯はそう言ったらしい。それを聞いて、あいつらしいと思った。でも、
「お前を守るって決めたんだ。勘違いすんなよ。弱いから守るんじゃねぇ、大切だから守るんだ」
『蛇骨…』
「……あ」
まさか自分の口からそんな言葉が出るなんて夢にも思わなかった。今になって自分の言動が恥ずかしくなる。穴があったら入りたい。
「あ…今のはだな」
『ありがとう』
「そんな深い意味はなく……は?」
まさかの一言に再び硬直。見れば唯はふんわり微笑み、その瞳には溢れんばかりの涙が貯まっている。
「なっ…!」
『馬鹿…あんたが柄にもないこと言うから』
ほんのり赤く染まった顔を手で隠しながらそんなことを言う唯を見て、思わず息をのんだ。普段憎らしい言葉ばかり吐くくせに、ふと女になりやがる。そんなこいつに俺はどんどんハマってく。
ヤバい。触れたい。自分だけのモノにしたい。煩悩は次から次へと膨れ上がる。
太い綱だって長い間力を与え続ければ脆くなり、ふとした衝撃で簡単に切れてしまうだろ?今の俺の理性はまさにそんな状態で、その顔を見ただけでブチリと切れてしまったんだ。
ごめんな、大兄貴。やっぱり抜け駆け、させてもらうぜ。
目上であり恋敵でもある大兄貴に心中で謝罪を述べると、頬に触れていた手をゆっくり下唇へ移動させてゆく。一度触れようとした。でも叶わなかった、その部位に指が触れるまであと僅か。
「フゴッ!??」
…何が起こったのか一瞬理解出来なかった。想定外の衝撃に堪らず腹部を確認すれば、そこには小さな拳がめり込んでいる。勿論その拳は唯のもの。
『なんつって…勝負はまだ終わってないよ』
「な…?」
つい先程の、涙に濡れた顔は一体どこにいってしまったというのか。欲情を煽る表情とは打って変わり、今の唯には黒い笑顔が浮かんでいた。
『明日の朝ご飯はあたしのモンさ』
「……」
…おかえり理性。
一度失った理性はもう元には戻らないと思っていたが、案外そうでもなかった。
「……ふ、ふっ…てめぇは本当にムカつく女だなァ」
『…ん?』
「俺をおちょくってさぞかし楽しんだろうな」
『ちょ…ほんの冗談じゃない!』
唯は若干怯えた顔で冗談だ何だと喚いているが、今の俺にそんな言い訳は通用しない。取り敢えず暴れる唯の両手を地面に縫い付けて、どうしてやろうかと思考を愉しむ。
…いや別に厭らしいことを考えてる訳じゃない。断じて考えてないからな。などと、必死に自分に言い聞かせていたその時だった。
ガサガサ
すぐ傍で草が揺れる。妖怪かもしれないと警戒を高めるものの、未だ両手は唯の手首。(もう嫌だ、何なの俺)
しかし警戒は案外早く解かれることとなった。草原から姿を現したのはウチの毒使いだった。
「……」
「『……』」
両者、固まる。
寝ぼけたまま、何も言わずに戻って寝てくれ。そんな願いも虚しく霧骨は段々と正気を取り戻していき、ついには目をカッと見開いた。
「う…うわあぁぁっ!唯が蛇骨に襲われてるーっ!」「馬鹿、声がでけぇ…!」
『キャー!蛇骨に襲われるーっ!』「棒読みすんな、腹立つ!」
ただでさえ声が通りやすいこの空間でぎゃあぎゃあと騒ぐ二人。
これはヤバい。早く逃げないと騒ぎ声を聞き付けて「アイツ」が来てしまう。――なんて、考えてる時点でもう遅かった。
「じゃぁぁこぉぉつぅぅ!!」闇夜に浮かぶ殺気だった二つの目玉。それを見た瞬間悟ったんだ。
どうやら朝日を拝むことは出来そうにない、と。
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