その日の夕御飯は何だか味気なく感じた。
目前に並ぶお膳は普段より格段に豪華で、本当ならとても美味しいに違いない。
なのにそう思えなかったのは全員揃って食事がとれなかったからだろうか。蛮骨と女性の姿を目にして以降、心に残るこの靄のせいだろうか。
「おい、ウチの大兄貴を見なかったか?」
おもむろに立ち上がって襖を開けた煉骨は誰かに向かってそのような言葉を投げ掛ける。対して次に聞こえてきたのは聞き覚えのある青年の声。襖の向こうに北条くんがいることは容易く察しがついた。
「蛮骨様ですか?それならつい先程屋敷から出ていく姿をお見かけしましたが…」
「はァ!?こんな時間にか!?」
「方向からして恐らくは城下町へ向かったのだと…」
「……晩飯も食わずに今頃城下町だと?」
二人の会話が進むにつれ、手が震え出す。
最初こそいつまでも姿を現さない蛮骨の所在が分かって、安堵する気持ちが大きかった。だけど、その後すぐにモヤモヤとした黒い感情が心を覆っていく。
「何を考えてるんだか、あの人は…」
全く煉骨の言う通り、蛮骨の考えていることは分からない。屋敷の女性に簪を渡していたかと思えば、今度は一人町に遊びに出掛けたという。
…結局蛮骨は遊び人なのか。
酷く真っ黒な感情が心中を駆け巡る。
ああ、いやだいやだ。早くいつも通りのあたしに戻らなくちゃ。
相変わらず味気なく感じるその白米を頬一杯に詰め込み、更には隣の蛇骨の膳から魚の干物を失敬する。それに対して蛇骨は何も言わない。いつもなら青筋立てて必死に取り返そうとするくせに、何でこんな時に限って…。
気味が悪いくらい大人しい蛇骨を恨めしく思いながらも、あたしは食べ物を口に運び続けた。全ては気を紛らわしたいが一心だった。
*
その後、食事を終えると静かに大部屋を出た。
とにかく一人になりたい。与えられた自分の部屋の前に着くと、力なく柱に寄り掛かる。
「まーた泣いてんのか?」
ビクリ、体が震えた。
正直今は聞きたくなかった声だ。
振り返った先には案の定蛇骨の姿。泣き虫唯、などと意地の悪い笑みを浮かべて佇んでいる。
『……泣いてない』
「嘘つけ、俺の目は誤魔化せねーぞ」
『泣いてないって!ほら、涙だって出てないでしょ?アンタ目悪くなったんじゃないの?』
「…ホント、可愛くねー女だな」
『うぶっ…!』
ぎゅむ、と片手で頬を掴み上げられてしまえば当然上を向かざるをえない。オマケに両頬を圧迫されたせいで、ひょっとこみたいに口を尖らせるあたしを見て笑う蛇骨をキッと睨みつけてやった。それでも気は収まらず、何か言い返してやろうと口を開く。
――なのに。
「今にも泣き出しそうな顔してよく言うぜ。俺がいなきゃ今頃泣いてたくせによ」
『……』
「どんだけ長い時間一緒に過ごして来たと思ってんだよ。それくらい分かるっつーの」
優しい表情で、声色で、そのようなことを言うものだから口にしかけた反論の言葉は声にならずに消えてしまう。その代わりに零れ出たのは情けなくも涙ぐんだ声だ。
『なんで、そういうこと言うかなぁ…。泣きたくないから、我慢してたのに…』
「……いい加減言えよ、大兄貴と何があった。何か言われたのか?」
『蛮骨は何も悪くないよ。……ただ蛮骨が屋敷の女の人に簪を渡して、楽しそうに笑い合ってて。その場面を見ただけで、なんだか胸が苦しくなって…』
「……」
『ごめん、心配かけて。だけど今は一人にして』
少し頭を冷やさなければ…。
涙の溜まった目を袖で拭い、蛇骨から逃げるように顔を背ける。そのまま襖を開けて、自室の中に一歩足を踏み入れた。
「苦しいんなら忘れちまえばいいじゃねーか」
その言葉に足が止まる。
「ンな陰気な面して考えれば考えるほど辛くなんだろ?だったら…」
『そんなこと分かってるよ!あたしだっていつまでもウジウジ悩みたくない。……でも、言うほど簡単じゃないの』
蛇骨の言うように簡単に忘れられたらどんなに楽か。だけどやっぱり…――。
「簡単なことだと思うけどなァ」
『え…、』
「これから俺の傍にいて、俺のことだけ見てくれさえすればいいんだから」
『じゃこ…つ…?』
「もっと周りをよく見ろっつーの、この鈍感」
闇夜の中でもはっきりと確認できるくらい、彼の顔は真っ赤に染まっていた。
いつの間にか、蛇骨の手はあたしの背中へと添えられ。彼の手に力が篭った刹那、あたしの体は蛇骨の厚い胸板へと引き寄せられる。
「ひたすらおめぇのことだけを想ってる野郎がここにいるってのに…。
……いい加減気付けよ、馬鹿」
その瞬間、
思わず呼吸さえ忘れた。
prev next