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家督を引き継ぎ本格的に牧家の当主となった頃、私の頭は随分とスッキリしていたのだ。長らく私の脳内を支配していたなまえさんがどうこうというわけではない。自分自身、やること、やらなければいけないこと、ならなければいけない理想像、そんなものがたくさんありすぎて、なまえさんを想う時間が無くなっていったのだった。趣味であった能にも最近は手を出せていない。牧家の「当主」という重圧は時に私を苦しめるが、偉大な父に一歩でも近づこうと必死で...。こんなにもたくさんの人の命を預かっていると思うと悩んでいる暇はなかった。
信長は瞬く間に力を上げていき、父である天下人、牧紳一に負けず劣らずの勢いで牧家当主として成長していった。その実力は牧紳一も認めるほどで、初めの頃こそ、まだまだ頼りない信長を叱ることも多かったのだが、その冷静沈着な戦いぶりに「お前なら大丈夫だ」と当主の座を譲ったのだった。
紳一による信長への信頼はとても厚く、当主を引き継いだ際には本拠であった城に加え、牧家の家宝や太刀まで信長に譲渡しており、まだまだ「牧紳一」の名は強く、事実上権力を握っていることは確かではあったが、天下人である牧紳一は信長を絶対的に信頼しているのだと人々に知らしめた。
「信長様、娘の鈴でございます。」
「信長様、鈴と申します.......」
牧家の当主とならば、「正室」を狙う者も多く、我が娘を信長様の元へ嫁がせたく...と申し出を受けることも多かった。「正室」。その言葉は私の胸にやけに響く。考えないよう努力していたのに。最近は忙しくてそれどころではなかったのに。
ふとした瞬間に蘇る、まだ幼かった頃の恋心。淡く不確かなものなのに、とても綺麗で輝いていた。
「鈴、こちらへ参れ。」
「はい、信長様......」
隣に座る。女子がいる。日頃戦ばかりで、そこら辺に死体が転がり血の海ができている。斬られた首や腕なんかはボロボロとそこら中に落ちており、そんなのが私の日常であり、私の住む世界なのだ。しかし今はどうだろう。私と鈴以外存在しないこの静かな広い部屋。私が呼べば隣に座る控えめで美しい鈴。ゆっくりと視線を向ければ目があった途端優しく微笑んでくれるのだ。
鈴を迎え入れたのは「側室」としてだった。正室を望まれて、牧家の当主ともなる男が正室は愚か側室までも作らないとなったら、それはそれで問題なのである。私の心がどうこうという以前に、子孫を残さなければならない。私の血を引き、牧家の血を受け継ぐ、嫡男は必ず必要なのだ。その子を産むのが「なまえさん」ではなかったとしても、だ。実際に私自身も父上と側室の間から産まれたのだ。正室である帰蝶様との子ではない。でもそこは関係ないのだ。
父親が誰なのか、誰の血を引いたどこの家の「男」なのか。問題はそこである。
「信長様はどうして正室を迎え入れないのですか。」
鈴は問う。真っ直ぐ私を見たままそう問う。何も言わない私の肩に頭を預けてもたれかかると「寂しゅうございます」と呟いた。
「願っても、信長様の一番にはなれないのですね。」
「鈴......すまぬ。」
「いえ、たとえ側室でも側にいられるのなら満足です。」
正室や側室、こんなものがあるせいで、誰が一番だの、側室の中でも順位があるだの、皆同じ扱いなのに一人だけ特別大事にされてるだの、誰が昨晩共に過ごしたのかだの、女子の中で不満が出るのだ。父上を始めこのような厄介ごとに巻き込まれる君主を何度か目にしてきて思う。女子はひとりいればよい、と。
そんなこと言いながらも、なまえさんを忘れられない頭で鈴を迎え入れたのだけれど。それでもやっぱりひとりを大切に想い続けどんなことからも守り抜き、生涯を共に過ごしたいと思うのだ。鈴には申し訳ないが側室を迎え入れたのは本能だ。子孫を残さねばならない、それが叶いそうもない、だからこその判断だ。
「鈴......私にはかつて正室がいたのだ。」
「信長様にですか......?正室........」
「顔さえ見たことない正室が.....な。」
恥ずかしい話だがいつかその女子に会えるのではないかと、空けてあるのだ。
鈴の真っ直ぐな想いにそう打ち明けた私と「そうですか」と優しく呟いた鈴。
「そのお方は幸せ者ですね。」
「何故そう思うのだ。」
「信長様に大切に想われているからです。」
会えずとも、顔を見ずとも、こんなにも想われて、愛されておられるからです。
鈴は涙目だった。私の肩に頭を乗せたまま「このまま眠らせてください」と言った。
鈴の顔を覗き込めば「見ないでください」と顔を逸らす。この女子の想いがひしひしと伝わり、私の胸は熱くなった。
「鈴......泣かないでくれ.......」
「...羨ましいのです。私も信長様に...そのように愛されたかったです...」
私がなまえさんを想うと同じように、鈴もまた私を想い、このやるせない気持ちを抱えながら生きているのかと思うと、鈴が愛おしく、そして可愛く思えて仕方なかった。
「鈴...私を見てくれないか...。」
「信長様......」
その晩私は鈴を抱いた。側室として迎え入れながらもまだ数え切れる程しか体を重ねていなかった。今までの義務的なものとは違う。私自身の悲しみを、鈴の切ない想いを、互いの虚しさを全て出し切り打ち付けるようにして、狂ったように鈴を愛した。私に抱かれている間、鈴は泣いていた。「信長様、幸せです...」そう言って終始泣いていた。その涙の意味をわかっていながら、鈴を鈴だと思いながらも、頭のどこかで鈴になまえさんを重ねていた自分をどうか許してほしい。
この想いが報われる日は来ないのだろうか