■ 赤ずきんのパン、おおかみの気持ち

   ドーナツを店頭に並べているとふと幼少期を思い出すことがある。

   ――彼はわたしにとって随分年の離れた幼なじみ、そうでなければ近所の面倒みのいい“おにいちゃん”だった。万国を治める一家の次男と、ホールケーキアイランドの端に位置する吹けば飛ぶようなパン屋の娘。交わるはずのない線が交わったのは、単に両親の作る洋菓子や甘いパンの類がそこそこの評判を得ていたから。看板メニューはクイニーアマンとバタースコッチ、それからシブースト。中でもうちのシブーストは彼の母親のお気に入りだった。

   それはわたしが物心着いた頃にはもうトレードマークとなっていた彼の口元を覆うファーの秘密を知ってしまった日のこと。
   いつものように彼に構ってもらい追いかけっこをしていて、わたしが段差に躓き転びそうになった時。慌てて回り込んでくれた彼に抱き上げられ、思わずぎゅっと握りしめたファーがするりとほどけて床に落ちた。

「あ」
「っ!」

   初めて見た、彼の裂けた口と鋭い牙。動揺する彼にわたしは小さな口をめいいっぱい開く。

「......おおかみさん!」
「は?」

   我ながら図太い神経だとは思う。呆然とする彼の口元を追い打ちをかけるかのようにぺたぺた触り、楽しげに笑ったのだから。

「えほんでよんだよ。わるいおおかみさんが、あかずきんをたべちゃうの」
「あ、ああ......」
「おおかみさん、おおかみさんのおくちは、どうしてそんなにおおきいの?」

   絵本の通り訊ねたわたしに彼は難しい顔をして返事を考えてくれる。

「それは、そうだな......ナマエとうまい菓子を沢山食べるためだ。行くぞ、メリエンダだ」
「きゃー!」

   ただの抱っこからお姫様抱っこに変えられたわたしが嬉しそうに叫ぶ――

   まあそれがなにかと言えばなんでもない、ただの幸せな記憶の1つだけれど、わたしは確かにその時から彼のことが好きだった。何十年経った今でも。
   わたしも両親に教えを乞いパン職人になり、今でも交流のある彼が大臣を務めるコムギ島に店を開いた。看板メニューはドーナツ、ついでにシブースト。今日もわたしは彼への気持ちを形にするようにパンを捏ねて焼き上げる。叶わなくてもせめて、彼に彼の母が決めた婚約者が現れて諦めがつくまでは近くにいたいと願いながら。


   カラン、鈴が鳴って木製のドアが軽やかに開く。

「いつものドーナツを」
「カタクリさん! いらっしゃいませ。今用意しますね」
「そう畏まるな」
「だめですよ。カタクリさんは三将星のおひとり、それにこの島の大臣なんですから」
「昔とは違うと?」
「その通りです」
「......そうか。ナマエはおれのことを分かっていないようだな」
「なんですか?」

   そうか。と言った後のカタクリさんの言葉はドーナツを包む紙袋の音でかき消され、わたしの耳には届かなかった。ただ、向けられる柔らかな目線に今日もカタクリさんは素敵だな、なんて思うばかりで。

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