08
日記を読んでから、少し時間が経っていた。
あれから、詳しいことに触れられずにいた。
「名前、近くの紅葉でも見に行こうか」
金曜の夜、カカシがそう言ったから次の日に都内の銀杏並木を見に行った。銀杏並木は人が多く、並木道の突き当たりの広場にはたくさんのキッチンカーが並んでいた。
「美しいものも良いけれどさ、食欲の秋も良いよね」
人が多く歩きづらい並木道で、銀杏を眺めるのもそこそこに2人はキッチンカーで肉やら魚やら美味しいそうなものを買い漁った。広場の真ん中は、食事ができるようにテーブルと椅子が並べられていた。空いている席を見つけ、2人は座る。
「たまには外で食べると美味しいよね」
「うん」
「この街はどこも洒落てて、俺にはね」
未晒のお洒落な器に入ったスパイシーな海外風の焼きそばを突っつきながらカカシは言った。お洒落は苦手だと言いたげな口調であったが、名前からすればその顔面やスタイルを持っておきながら……と感じていた。
「この後、どうしたい?」
カカシが名前に問う。
このまま家に帰っても良いが、何となく勿体無い。名前が悩んでいると、カカシが口を開いた。
「名前の服を買おうよ。可愛いやつ」
「わ、悪いよ」
カカシと同棲を始めてから、更にカカシの名前への出費は増えた。部屋を貸してくれている時点で、かなり経済的に楽になっているのだからせめて光熱費だけでも負担させてくれとお願いしたが、カカシは全てに首を横に振った。
名前の新しい服も殆どがカカシが買ってくれたものだった。何かプレゼントや施しを受ける度に、カカシの優しさや自分への想いを感じていたが、日記や神社で知ってしまったことを思うとカカシは消える前に、自分に与えられるだけのものを与えようとしているのではないかと感じてしまう。
「この10年間、俺がどれだけ名前を甘やかしたかったか。分かってくれるでしょ?」
カカシは、名前がカカシからの施しを受けて戸惑う度にこれを言った。
「逆の立場なら、名前もきっとそうするよ」
お腹が満たされて、2人はアパレルの店が立ち並ぶ通りに向かった。
どの服を見ても、名前は上の空でどんな可愛らしい柄も色も目の上を滑って行く。
「名前、帰る?」
「え、なんで?」
「疲れてるみたいだし、買い物する気ないでしょ」
「う、うん……」
じゃあ、帰ろうか。とカカシが優しく言うものだから、名前は大人しく頷いた。
沈黙の帰り道、手を繋いだまま2人はただ前を見て歩いていた。
自分のせいであるのは明白なのに、名前は居心地の悪さを感じていた。チラリと横目でカカシを見上げてみれば、気だるげな目蓋と透き通った睫毛が夕陽色に染まっていた。なんて愛おしいのだろう。心が震えそうだ。
昔も、こんな風に自分はカカシを見上げたことがあるのだろうか。記憶にも記録にも残らない自分とカカシの思い出。カカシが記憶喪失になったら、もう自分のことも忘れて、この時間のこともなかったことになるのだろうか。
楽しい思い出も、気まずい思い出も。
「ん?」
名前の視線に気付いたのか、カカシがこちらを見下ろす。目尻を下げて、口角がきゅっと上がった。名前は慌てて目を逸らすと、何でもないと首を横に振った。
「イケメンだから、見惚れてたんでしょ」
「ち、違うよ!……多分」
クスクスとカカシが笑う。違うと言えば違うし、そうだと言えばそうだ。
「お昼食べすぎて腹が空かないな」
「私も」
「軽くでいいね」
「うん」
手を繋いでいるはずなのに、指先は冷えていて、ああ冬は目と鼻の先だ。
名前は、胸のモヤモヤを吐き出すように深呼吸をした。
「名前」
カカシが突然立ち止まる。
見上げると、カカシは優しく眉を下げて名前を見つめる。
「俺に、消えて欲しくない?」
名前は、消えて欲しくないと大声を出そうとしたが上手く声が出てこなかった。喉がギュッと締め付けられて、出そうと思った言葉は舌の上にすら乗っかってくれない。
パクパクと唇が上下するだけで、自分の想いすらカカシに満足に伝えられないことに情けなくなる。
「ごめん、意地悪だったね」
カカシが人目も憚らず、名前を抱き締める。
カカシの指が名前の目尻に触れる。いつの間に泣いていたんだ。
「愛してるよ」
これは、一体どんな意味なのだろう。
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