名前も知らないお客さん
一目惚れ。そうだったのかもしれない。
名前も知らない人をすきになるだなんて馬鹿げてると思う。だけど、これを恋じゃないと言うのならなんて言ったらいいのでしょうか。
―――カランカランッ
扉が開くとベルがなる。
それはお客さんがやってきた合図の音だ。
『いらっしゃいませ。お好きな席…こんにちは。いつもの席空いてますよ』
ベルの音を聞くと反射条件のように挨拶と席への誘導の言葉を口にしてしまう。だけど、お客さんの顔を見た瞬間に私の心臓はとび跳ねて、思わず笑顔になってしまう。
席についたお客さんにメニューを渡す。
「すまない」
『お決まりになりましたらどうぞお申しつけください』
「…紅茶、と何かオススメのものを。」
『かしこまりました』
にっこりと微笑むとその人は窓の外を眺め始めた。
いつも通りのいつものやりとり。
無愛想で冷たい人なのかなって思った。だけど、外を眺めるその瞳は優しくてただこの人は寡黙なだけなのかなって。
もう二度とこないんだろうなって思ってた。
だけど、まさかの二度めの来店の時に心臓が跳び跳ねて、
あ、私この人に会えて嬉しいんだ
って思ってそれ以来頭の隅にずっとこのお客さんがいる。
『紅茶、とこちらオススメのパウンドケーキです。上質なバターが手に入ったのでシンプルに。そして甘さ控え目なので紅茶にも合うと思います。』
軽く会釈をして、お客さんは食べ始めた。
ゆっくりと味わうように紅茶を飲み、そしてパウンドケーキを食べる。一口、そして二口と食べ進めてくれて、口にあっているかな?なんて思いながら他のお客さんの相手もする。
お客さんは食べ終えると本を取り出し、読み始める。何の本を読んでいるかは分からない、カバーがついていて。でもその厚みからして難しい本なのかなとか考えてしまう。
しばらく本を読んでいたお客さんが席を立ち、お会計をする。
パウンドケーキの味はどうしでした?美味しかったですか?なんて聞きたいけれど、そんな勇気もなくて。だから名前も聞けない。
「…パウンドケーキうまかった」
『あ、ありがとうございます…!』
お客さんがくれたその一言が嬉しくて嬉しくてにやけそうになる顔を必死におさえた。
また当分頑張れる。
名前も知らないお客さん。
だけど、私はこの人に恋をしている。
勇気のない私は見ているだけで充分
だから、またお客さんが美味しいと言ってくれる物を作りたい。
美味しかった。その一言をもらう為に。