馬鹿ばっか


 29


「ん、ぅ゛……っ、ふ、……っ」

 キスが、なんだ。こんなの大したことない。怯むな。やつの胸を押し返し、引き離そうとするが、おかしい。気付けば壁際まで追い込まれてて、より深く唇を塞がれるのだ。侵入してくる熱い舌に口の中を掻き回される。大したことない。別に今更キスがなんだ、死ぬわけではない。そう思いながらもやつの脛を思いっきり蹴るがこの男、全く怯まない。食い込む指先から伝わる絶対離してやるものかという強い意思。柔らかく啄まれ、噛まれ、舌で舐られ、ねっとりと絡みつく舌先に頭の奥、忘れかけていた熱が溢れ出す。

「ふ、ん、ぅ……っ」

 長い、長い。絶対長い。唇べろべろにふやけてるんじゃないかと思うほどの長いキスに思いっきり能義を突き飛ばそうとするが、びくともしない。それどころか、舌の根、その裏側の筋を舌先で擦られればそれだけで咥内に唾液がじわりと滲み出すのだ。

「ん、……っ、ぅ……っふ、……ぅう……っ!」

 獣じみた激しいキスではない。寧ろ、どこか慈しむような、しつこいキスはメンタルに堪えた。能義の腹を殴ろうとした手首を捕まれ、引っ張られる。ちゅ、ぢゅる、と濡れた音が響く室内。やつの目は俺から逸らされない。自分がどんな顔をしてるのかもわからない。それでも、呼吸が浅くなり、生理的現象により全身の体温が上昇していくのがわかった。
 いい加減にしろ。そう言いたいのに、唇を塞がれてはその言葉すら吐けない。必死に能義の舌を押し出そうとするが、それごと絡み取られてしまえばどうすることもできなくて。

「……どうしたんですか?尾張さん、そんなに腰を引いて」

 長時間のディープキスの末、唾液で濡れた唇を舐め取った能義は俺を見下ろして笑うのだ。

「ど、うも……してねえよ……っ」

 今だ。逃げろ。そう思うのに、腰が甘く痺れて動けない。壁に預けた体はずるずると落ちそうになり、心臓の音が近くなる。
 伸びてきた指先に耳を撫でられるだけで体がびくりと反応してしまうのだ。

「尾張さん。貴方は自分の感情に無頓着……いえ、鈍感のようですね」
「……っ、何が言いたいんだよ」
「恋愛アドバイザーの私が思うには、そんな貴方は全員と寝てみて一番体の相性が良かった人物と付き合ってみてはいかがでしょうか?そうすれば極めて公平な判断ができると思いますよ」
「……………は?」

 デジャヴ。それも、嫌なタイプの。

「寝るって、お前」
「この間は途中で邪魔が入りましたからね、今回は戸締まりもしたので大丈夫でしょう」
「待て、なに勝手に……そんなことするわけないだろ!」
「うちの会長とは寝たんですか?」

 突然問い掛けられ、体が固くなる。
 思い出したくない、いいとは言えない記憶だ。
 本の一瞬、押し黙る俺に何かを察したのだろう。目を丸くした能義だったがすぐに笑みを浮かべた。

「なるほど、寝たんですね?それも、相当酷い抱かれ方をしたと」
「っ、勝手に決めんじゃねえよ」
「否定はしない、と。本当、貴方は嘘が下手ですね。いけませんよ、目が泳いでる。私に信じてほしければちゃんと目を見なければ」

 ほら、こうして。と顎を掴み上げられ、唇を舐められる。腰が震える。記憶でいくら忘れようとしても体が覚えてるのだ。こいつの触れ方を。

「や、め」

 やばい、まじで。咄嗟に、俺は背後の壁に目を向けた。一か八かの賭けだった。思いっきり俺は背後の壁をぶん殴る。ボロい建物だ、壁なんて衝立みたいな役割でしかないはずだ。とにかく誰でもいい、この状況を助けてくれ。その思いでもう一度壁を殴ったとき。
 コンコン、と小さくノックが返ってきた。
 隣の部屋は誰なのか、俺は知ってる。だから、もう一度壁を殴ろうとして、能義が気付いたようだ。

「……なるほど、あの男に助けでも求めるつもりですか?」
「っ、たり前だろ……」
「相変わらずお転婆な方ですね。……まあそれくらい威勢があった方がいいものですが」

 そう、能義が言いかけたとき。

『元くーん?どうしたの〜?なんかすごい音聞こえたけど……』
「っ、神楽……助け、んんっ!』

 顎を掴まれ、舌を咥えさせられる。粘膜同士を摩擦され、唾液が混ざり合う咥内。能義の目の色が変わる。

「ん゛、ぅ……っ!」
『……おーい?元くーん?』
「っ、ぅ、ん゛、んん……っ」

 やばい、息が苦しい。壁を殴ろうとする拳まで握り締められてしまえばなにもできない。くそ、この野郎。せめて、鍵さえ開けることができれば。そう思うのに、絡み付いた能義の指は離れないのだ。引き摺る背中。かくなる上は、と思いっきり蹴り上げようかとしたところを伸びてきた手に腿ごと掴まれる。

「っ、ぅ、んんぅ……?!」
「……っは、お転婆な貴方の考えることなんてお見通しですよ。その手にはもう乗りませんので」

 大きく片足を持ち上げられ、膝の裏側を這う能義の手のひらに撫でられる。足を開かされるという情けない格好にもだが、裾で隠していた下腹部が嫌でも能義の眼下に晒されること体勢は酷く羞恥心を煽られる。

「は、なせ……っ」
「おや、尾張さん……貴方、キスだけで気持ちよくなったんですか?」
「ちが……っ」
「そう恥ずかしがることはありません。貴方も私も同じ男、なにがいいのかくらいわかりますよ」

 細い指でつぅっと下腹部、その膨らみをなぞられるだけで喉がひりつくように乾く。振り払いたいのに、なんつー力だ。外から聞こえてくる神楽の呼ぶ声が遠くなる。助け、早くしないと、神楽が戻ってしまう。

「っ、神楽……っ!助けてくれ、頼む、ドアを……んぅ……っ!!」
『え?元君?……元君、どうしたの?』
「……ッ、ぅ……!ふ……ッぅ、ん……ぅう……っ!」

 ネクタイを引き抜いた能義はそれを俺の口に噛ませるように頭部を縛ってくるのだ。慣れてやがる、こいつ。人を縛ることに。なんて感心してる場合ではない。衣服の上から膨らんだ性器を揉まれる。指先に力を込めて、それでも柔らかく刺激されるだけで正直かなりやばい。

「手荒な真似はあまりしたくないんですよ、私としては。……ですが、そこまで尾張さんが素直になれないと言うなら仕方がありませんね」
「っふ……っ!」

 臀部を鷲掴みされ、そのままぐり、と割れ目の奥を指先で押された瞬間腰がびくりと震えた。やめろ、と声を上げようとするがくぐもったうめき声が漏れるだけだ。

「たまには前戯なしもいいかもしれませんね」 

 そう、笑う能義に背筋が凍る。
 やめろ、と必死にやつの腕の中で藻掻いたときだった。

『おい、そこで何やってんだ神楽!』

 政岡の声だ。
 政岡が戻ってきたのだと理解したとき、目の前の能義の顔色が確かに変わった。

『あ、かいちょー……なんか元君が助けてって……』
『あ……?!おい、そこ退け!』
『え、ちょ、かいちょ……』

 政岡、と声を上げようとしたとき。能義の舌打ちが聞こえた。そして間髪入れずに扉を蹴破ろうとする音が聞こえてくる。

「……どうも私と貴方の間には邪魔が入る。残念ですが、また今度のようですね」

 手が離れた瞬間、腰が抜ける。座り込む俺を置いて部屋の奥へと向かった能義はそのまま窓を開き、ベランダから部屋を出たのだ。
 能義を追いかける気力もなかった。気付けば扉が開かれ、開いた扉の向こうには青褪めた政岡と、何事かと目を丸くした神楽。そして猿轡を外し忘れていた俺。

「お、わり……」
「わ、元君どうしたのそれ……っ!」

 慌てて口に詰められたネクタイを外そうとして、政岡に抱き締められる。突然の政岡の行動にぎょっとする俺と神楽。人目も気にせず俺を強く抱きしめたまま、政岡は息を吐き出すように低く唸るのだ。

「……誰だ?」
「っ、そ、れは」
「有人か?」

 噛まされたネクタイ、そこにつけられたネクタイピンを見て政岡の顔が更に険しくなる。

「え、でもふくかいちょーって入院してたんじゃ……」
「さっき病院から脱走したって連絡きた」
「え、じゃあガチじゃん」
「………………」

 言葉が出なかった。正直、まだ混乱してたのだと思う。いきなりだったし、政岡がいなければまじでやばかったのだと思ったら、手が震えた。
 立ち上がる政岡が開いた窓の方へと向かおうとしてるのを見て、咄嗟に俺は政岡の腕を掴んだ。
 怒った顔の政岡がこちらを振り返り、俺の背後にいた神楽が「ひっ」と息を呑む。

「ま、さおか……」
「尾張、離してくれ。あいつ、追わねえと」
「俺は、大丈夫だから」

 自分でも、何を言ってるのか。何をしているのかよくわからなかった。多分、動揺のせいだろうがそれでも政岡を行かせたくなかった。……一緒にいてほしい、というと語弊がある。けど。

「……っ、……大丈夫、だけど、ほら……扉……このままじゃ危ねえし……」
「……」
「……その……」
「もういい」
「……っ」

 邪魔をするなと言われるかもしれない。そう、目を瞑ったとき、抱き締められる。今度は正面から抱き締められたのだ。心臓の音がすぐ側から聞こえてきた。そして。

「もういい、喋るな」

 トクントクンと流れ込んでくる鼓動に、次第に緊張していた体が落ち着いていくのがわかった。最初はあんなに不快だったのに、怖かったのに、今は、むしろ。そう、恐る恐るその背中に手を回そうとしたとき。

「あのぉー、一応俺いるんですけどー?」
「「っ!!」」

 聞こえてきた間延びした声に俺と政岡は凍り付く。髪をイジっていた神楽はつまらなさそうに唇を尖らせた。

「なにその反応、もしかして本当に俺のこと忘れてたわけ?信じらんない〜!俺もー怒るよ!」
「い……いたんならいるって言え!つうか見世物じゃねえんだぞ!」
「あー!何その言い方!俺だって元君のこと心配で助けに来たってのに!もー知らない、俺も元君にぎゅーってしちゃお……」
「それは許さねえ死んでも許さねえからなまじで!!」
「………………」

 一気に騒がしくなる部屋の中。先程よりかは落ち着いたが、今は不安よりも別の予感がしていた。
 俺は今、何をしようとした?神楽がいなかったら、俺はこいつになにをするつもりだったのか。
 自問自答しても答えはでない。
 能義は自分に素直になれと言った。素直ってなんだ。いつもの俺は素直ではないというのか。
 自分の本心がどこにあるかなんて、俺は知らない。けれど、あいつは知ってるのか。
 他人の不安を煽って付け入ろうとするのはあいつの常套句だとわかっててもだ。
 本心など考えたことがなかった。考えなくて済むように、全部あいつに任せていたからだ。
 ……岩片。あいつは、俺の本心とやらを知っていたのか。気付いていたのか。だから、捨てたのか。

「……尾張?」
「っ、ま、さおか……」
「立てるか?こんなところにいたらキツイだろ」
「ぁ……あぁ……神楽は?」
「あいつなら部屋に戻した。……てか、気づいてなかったのかよ。……本当に大丈夫か?」

「怪我とか……」と、そっと腰に触れてきた政岡の手に体が跳ね上がりそうになる。体の中で燻っていたその熱が再び焚き付けられるのを感じ、汗が滲んだ。

「っ、わ、悪い……」
「……いや」

 大丈夫だ、と言いかけて、息を呑む。裾の下、中途半端にイジられた下腹部が主張したままだということに気付いたのだ。やつの目も、俺の目も、そこに向けられたまま固まっていた。

「っ、あ、ああ、そうだ、俺、ちょっと用事が……」

 俺に気を遣ったのか、外へ逃げようとする政岡の腕を掴む。瞬間、袖の下、政岡の筋肉がびくりと反応するのが分かった。ゆっくりと、汗でぐっしょり濡れた政岡がこちらを振り返る。赤くなったり青くなったり、凄まじい勢いで表情がコロコロ変わる政岡を前に俺は深呼吸をした。

「政岡……」
「な、な、……ど、どうした、尾張……」
「お前は、俺のこと好き……なのか、まだ」
「……っ!!」

 俺は、俺は……酷いことをしようとしてる。
 目の前の政岡が耳まで真っ赤になった。見開かれる目、困ったように寄せられる眉だったがそれも一瞬。ぐ、と唇を噛むように顔を強張らせた政岡は「ああ」と絞り出すように低く頷いた。

「……俺は、ずっとお前のことが好きだ」
「なあ、好きってなんだ?」
「……へ?」
「お前が言う好きって、どういう好きなんだ?……俺にはよくわからない」
「い、いや……それは……」

 困らせてる。当たり前だ。こんな子供じみた疑問をぶち撒けられて困惑しない方がおかしい。
 だって俺自身困惑してるのだ。俺は、政岡が好きなのか。わからない。けれど、さっき政岡に抱きしめられてわかった。能義に抱きしめられた時にはなかった安心感が確かに存在していたのだ。

「……なあ、政岡。もう一回、俺のこと抱き締めてくれないか」

 他意は、ない。ないのが駄目なのだろう。きっと、政岡からしてみればいい迷惑なはずだ。散々好き勝手利用したくせに、挙げ句の果に自分を使って確かめようとしてくる俺のことが。
 それでも、政岡はノーとは言わないのだ。

「いいのか?俺で」
「お前じゃないと駄目だって言ってるんだよ。……あ、でも、その……お前が嫌だっていうなら……」

 しかも、状況が状況だ。政岡だって気を遣うはずだ。『無理しなくてもいい』と続けるよりも先に、伸びてきた腕に抱き締められるのだ。
 先程よりも優しく、俺の体に負担にならないように回された腕だが俺を離そうとしない。……温かい。

「……好きな子に頼られて、嫌なやついるわけねえだろ」

 耳元、吐き出される言葉に、心臓から流れる血熱くなる。加速する鼓動。政岡の香水と、微かに香る消毒液の匂い。
 ……嫌悪感はない。心地よさすら感じるくらいだ。

「……なあ政岡、俺のこと、腹立たないのか?」
「は?な、なんだよいきなり……っ!」
「都合のいいときばっか擦り寄ってきやがってって思わねえの、俺のこと」
「思わねえよ」
「……」
「むしろ、ずっと最初から俺のことを頼れって思ってる。……今もな」

 目に入れても苦にならない、むしろ、必要とされることが嬉しい。そう言うのか。それが、好きということなのか。瞬間、脳裏に浮かぶ横顔に息を呑む。俺は、政岡の胸をやんわりと押し返した。
 ……そんなはずがない。そう思いたいのに。

「……尾張?」
「……っ、悪い、ありがとう……もう、大丈夫だ」

 気付いてはいけない。
 これ以上は、触れてはいけない。理解してはならない。危険信号。頭の中に警報が鳴り響いてる。
 政岡はなにか言おうとして、言葉を飲んだ。そして「そうか」と笑ったのだ。
 身を焦がすほどの恋情も、熱も、感じたことがないと思っていた。現状、ないだろう。けれど、それに似た感情は……あった。一度だけ。

 ――お前、もう親衛隊長辞めろ。
 音も、色も消えたあの瞬間が、今でも昨日のことのように思い出すのだ。岩片に捨てられたあの瞬間、確かに、俺の何もかもが狂いだしたのだ。
 愛でも恋でもない、けれど、あれ程荒れ狂った感情の波を感じたのは後にも先にもあの瞬間だけだった。

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