馬鹿ばっか


 24

 岩片が居なくなって清々するどころか、一人の時間が多くなるに連れて余計なことばかり考えてしまうようだ。
 翌朝、目を覚ます。チュンチュンと窓の外では長閑な小鳥の声。カーテンを開き、窓を開ければ生暖かい風が流れ込んできた。
 今日は休日だ。授業はない。
 さあて、どうしたものか。基本岩片の気紛れに付き合っていたせいか、一人でいるときどう過ごしていたのかが思い出せない。……もう少し寝るか。そんなことをぼんやり考えながら、まだ覚醒しきっていない頭で窓の外を眺めていたとき、訪問者がやってきた。
 ……いい予感がしねえな。適当な服を着ながら、俺は玄関口へと向かう。「はーい」と扉を開けば、でかい影。

「お……っ、はよ……尾張」

 こんな朝っぱらから、というかまあ、九時は回っているが――そこには政岡零児がいた。なにやら緊張した面持ちで、こちらを見下ろすやつに内心俺はぎくりとした。もうこれは、条件反射のようなものだ。咄嗟に後退り、距離を取る。

「……なんだよ、こんな時間から」
「そ、そのだな……具合どうかと思って」

 言われて、昨夜のことを思い出した。痛みは大分引いていた。今の今まで忘れてたくらいだからもう完治したと見ていいだろう。

「お陰様でこの通り、ピンピンしてるぞ」
「……そうか」
「……」
「……」

 ……なんでそこで黙り込むんだ。俺よりもでかい図体してるくせに、まるで叱られる前の子供みたいに落ち着きない政岡を帰そうと思えば帰せたのだろう。
 ……けれど、それをしなかった。

「お前の方こそ、傷は大丈夫なのか?」
「俺はもう全然っ、ほら、お前のお陰で……」
「そりゃ良かったな」
「……っ、な、なあ……尾張」
「……ん?」
「飯……一緒に、どうだ」
「…………」

 政岡も、よくも懲りないやつだ。俺なんて構う必要なんてないと言ってるのに。そんなことしなくてもお前の言う通りにすると。
 ……まるで初デートにでも誘うかのようなその顔に、毒気すら抜かれる。本当に、勘弁してほしい。

「……アンタの顔見て飯食える気しねえけど」
「……っ、そ、だよな……悪い……」
「いや、俺も……どうせ、飯食いに行くつもりだったから」

「行くだけなら」なんて、口実。
 一人のがいいのはある。が、現状、一人で行動するよりもコイツがいた方が都合がいいのは事実だ。また神楽や能義、面倒なやつらに巻き込まれたとき色々助かる。……そんな風に考えられるくらいには、大分回復したのかもしれない。
 そんな俺の気持ちを知ってか知らずか、政岡はぱっと顔を上げ「本当かっ?!」と俺の手を握る。分厚い手のひらに強く握られ、思い出したくもないことまで頭を過り、思わず俺は政岡の手を振り払った。

「……ぁ、わ、悪ィ……」
「……いや、いい。それより、行くんだろ。すぐ用意してくるから待ってろ」
「お、おう!」

 政岡と別れ、再度扉を閉める。そして、俺はその場にずるずると座り込む。じんじんと痺れる手のひらは熱く、まだアイツに握り締められてるような感覚が残っていた。
 クソ、クソ。……なんであんな嬉しそうな顔してんだよ、わかってんだろ。俺がどんなやつってくらい。何回騙されんだよ、あいつ。いい加減にしろよ。煮え繰り返りそうになる腹を落ち着かせながら、俺は支度を済ませることにした。
 ……利用する。あいつも、全部。ゲームなんて俺には関係ないんだ。何度も言い聞かせることで落ち着かせる。

 支度を済ませ、部屋を出ればそこには扉の前で座り込む政岡がいた。

「尾張……」
「悪い、待たせたな。腹減っただろ」
「いや、これくらい全然平気だ。つか、お前待つくらい全然……」
「……そうかよ。じゃ、行くか」

 自分で自分に引く。ああ、案外笑えるもんだなと。
 少しだけ目を丸くしていた政岡だったが、すぐに「おうっ」と俺の後ろからついてくる。嬉しそうに、人に気も知らずにアホ面下げて。
 休みの日ってだけあって食堂の中はいつも以上にガランとしてる。まあ、休みなら外で食った方が美味いだろうしな。思いながらも俺は適当な定食を、政岡は朝っぱらから胃もたれしそうな油モノばっか選んでいた。
 それを少し離れた席で食う。食事中会話はない。けれど、時折政岡がこちらを見ていたのは視線で感じた。
 俺は敢えてそれに気付かないフリをして食事を平らげた。
 それから政岡も完食し、さあそろそろ帰るかと席を立とうとした時。
「なあ」と、政岡に呼び止められた。

「この後のことなんだが……その……」

「この後?」と聞き返そうとしたときだった。食堂の扉が開く。滅多に人が出入りしないそこに現れた人物に、俺は息を飲んだ。
 岩片と、その隣には岡部がいた。恐らく飯を食いに来ていたのだろう。岡部は俺たちにすぐに気づく、そして、「尾張君」と岡部が俺を呼んだ時、分厚いレンズ越し、あいつの目がこちらを向いた。

「……岩片」

 思わずその名前を口にしたとき、政岡は俺の視線の先、岩片へと目を向けた。ああ、最悪だ。最悪だ。よりによって今かよ。
 ――本当に、厄日だ。

 目を見るな。意識するな、平然を取り繕え。
 バクバクと響く脈を抑え、息を吐く。気付かなかったフリして食堂を出よう。それが最善だ。そう一人納得しながら立ち上がろうとした横、勢いよく椅子から立ち上がった政岡が岩片の方へと向かおうとしていたのを見て咄嗟に俺は政岡の腕を掴んだ。

「っ、おい、政岡……」
「尾張、離せよ。俺ぁアイツに言いてえことが山ほどあんだよ」
「……っ、いいから、帰るぞ。飯は食っただろ」

 掴んだ腕の下。流動する血管、その脈を感じ汗が滲んだ。このままじゃ面倒だ、半ば強引に政岡の肩に腕を回し、背中を押す。あいつに絡むな、そう睨めば政岡は不本意そうだが溜息を吐いた。
 けれど。

「まだそいつといんのか」

「ハジメ」と、あいつは政岡を見て笑った。その言葉に、焼けるように喉がひりついた。怒りとも、悔しさとも似た、よくわからないがこびりつくような不快感に言葉を一瞬忘れたとき。政岡が岩片に飛びかかろうとするのが分かり、咄嗟に俺は「政岡」とやつの腕を掴んだ。

「……っ、行くぞ、いちいち相手にすんなよ」
「尾張、お前は……」
「いいから」

 行くぞ、と政岡の背中を押し、半ば無理矢理食堂を出ていこうとしたとき、あいつとすれ違った瞬間確かに目が遭った。口元には薄い笑み。けれど、肌でわかった。あいつは笑っていない。こちらを追うその目に、粘り気のある絡みつく視線に、嫌な汗が滲む。けれど無視。俺はそれに気付かないフリをした。

 食堂を出ても暫く俺は政岡から手を離さなかった。
 手を離したら今度こそあいつを殴りに戻りそうだったからだ。ロビーへと続く人気のない通路まで戻ってきたとき、俺は手を離そうとして、政岡に手首を掴まれた。
 なに、と言い掛けて、視界は影で遮られる。唇に触れる熱、そこでようやく俺は自分がキスをされてると気付いた。こんな場所で、となんてそんなこと言ってる段ではない。手首を掴む肉厚な手のひらに、噛み付くように唇を貪られ、舌を絡め取られる。

「っ、ふ、……っ、ぅ……ッ」

 コイツ、油断した途端これか。怒りで頭に血が上る。咄嗟に政岡の胸を殴るが、鉄板でも入ってんのかってくらい硬い上半身はびくともしねえ。それどころか、後頭部が後方の壁にぶつかった。ぢゅ、ぢゅぷ、と濡れた音を立て絡められる太い舌に咥内を隈なく舐られ、味わい尽くされる。
 それだけで忘れたかった熱を無理矢理呼び起こされ、掻き乱される。咄嗟にその舌に歯を立てれば、鈍い感触とともに口の中の舌が跳ね、そして政岡は俺から唇を離した。

「っ、お、まえ……いい加減にしろよ……ッ!」
「……っ」
「っ、お……い……」

 何か言えよ、と睨むのも束の間、青筋が浮かんだやつの額に、据わったその目に息を飲んだ。硬い指先に顎を掴まれる、強引に顔を上げさせられれば、すぐ目の前には熱に濡れたやつの目があり、無意識に全身に力が入った。

「……お前は、俺と組むんだよな」

 地を這うような低い声。思い出したくもない、あのとき以来だ、政岡のこんな冷たい声。確認するように顎の下をなぞられ、体が反応しそうになる。「そう言っただろ」と言い返せば、やつの目が細められた。

「……じゃあ、証明しろよ。アイツじゃなくて俺を選ぶんだって、お前の口で」

「証明してくれ」そう、繰り返す政岡の言葉に、熱に、俺は一瞬言葉に詰まった。何を求められているのか、その目で、肌で理解してしまったからだ。冗談ではない、何故俺が証明しなきゃならないのか。寧ろ、信じさせるべきはお前の方だろう。そう言いたいのに、耳に触れる指に、ぞくりと肩が震えた。

「――証明しろ、尾張。俺のこと、好きだって言えよ」

 切羽詰まった声、隠そうともしない醜悪な嫉妬心。その牙を剥く政岡に、あいつと重なった。
 ――好きだって言えよ、ハジメ。
 強請るような目、言わせようとする。何を求めてるのか、求められてるのかわかった。
 結局、こいつも同じなのだ。アイツと。ああ、馬鹿馬鹿しい。言葉一つ、どうだっていいはずだ。けれど、俺はその一言が言えなかった。口にすることを憚れた。理由もわかっていた。とっくに破綻していた関係を、それでも頑なに保とうとして意地を張った。その結果がこれだ。
 プライドなんて無駄なものだ、痛いほど理解していたつもりだったのにそれを思い出させたのはこの男なのだから因果なものだと思う。ならば、また壊せばいい。

「……好きだよ、政岡」

 今更守るのものなどなにもない。平穏なんて元々求めていない。何もない、何も残らない。俺には最初から岩片しかなかった。

「……好きだ、お前が」

 あれだけ岩片に口にすることが憚れた言葉は、この男にはあっさりと口にすることができるのだからおかしな話だ。最初から、こうしていれば、答えていれば、何かがまた違ったのだろうか。そんなことを考えながら、俺は政岡から手を離した。けれど、すぐにその指先を絡め取られ、腕ごと抱き締められる。またキスされるのだろうかと身構えたが、あいつは何もしてこない。ただ、俺の肩口に顔を埋めるのだ。

「……っ、もう一回、言ってくれ」
「好きだよ。政岡」
「……ッ、尾張」
「…………」

 不毛だ。思いながら、俺は抱き締めてくる政岡の腕の中、自分の中のなにかがまた音を立てて壊れていくのを聞いていた。

 傷つけ合って、何も産まないと分かってても無い物ねだり。不毛だ。不毛。馬鹿みたいだと、あいつ自身もわかってるのだろう。好き、と口にすればするだけ、あいつは傷ついたような顔をするのだ。お前が言ったくせに。言えって。ならもっと嬉しそうな顔をしろよ。なんなんだよ、お前。

「……政岡」

 そう、無意識に俺はやつの名前を呼んでいた。何を言おうとしていたのか自分でもわからないが、それでも、呼ばずにはいられなかった。けれど、あいつは俺の方を見ない。ただ、項垂れるのだ。その赤い頭に手を触れようとしたときだった。

「おい、何をしてる」

 手が触れる直前、いつからそこにいたのか。五十嵐彩乃はそこに立っていた。咄嗟に政岡から手を引っ込めた時、政岡は五十嵐を睨む。

「テメェに関係ねえだろ」

 てっきりまた岩片のときのように噛み付くのかと思ったが、そういうわけではなさそうだ。それでも不機嫌さを隠そうともせず政岡は五十嵐を睨んだ。
 ……つくづく、ツイていない。「おい、政岡」とやつを宥めようとしたときだ。

「ある」

 あろうことか噛み付いてきたのは政岡ではなく、五十嵐の方だった。
「あ?」と、政岡の眉間のシワが深くなる。それは俺も同じだった。いきなりやってきた五十嵐に手首を掴まれたのだ。

「金輪際こいつに近付くなよ。……不愉快だ」
「……は?」

 人の肩を抱いて、そんなことを真顔で言い出す五十嵐に俺も政岡も凍り付いた。いやだってそうだろう、いや、本当に何言ってんだこいつ。

「お、お前……なに言って……」
「今まで黙っていたが、これ以上耐えられない。……尾張、お前が他の野郎に触られるのは」

 近い、とか、いやお前そんなキャラじゃねーだろ。というかそもそもお前なんなんだよ、何だお前。

「おい、彩乃……どういう……ッ」
「政岡、そういうわけだ。こいつは俺のものだ。こいつからは何も聞いてないだろうが、それは俺が黙らせていただけだ」

「俺たちの愛を見世物にしたくなかったからな」どの口でそんなことを言ってやがるのか、この男は。あまりの薄ら寒さに全身にサブイボが立つ。

「おい、おい……五十嵐……」
「……そういうわけだ、二度とこいつに近付くな」

 抵抗する暇もなかった。五十嵐に首根っこを掴まれた俺は半ば強引に政岡から引き離される。それはもう力技だった。ハッとした政岡が「おい待てよ」と追いかけてこようとすれば担がれ、全力疾走で連れて行かれる。よく担げたなという驚きはさておき、ようやく解放されたときには政岡の影はなかった。学生寮、生徒会専用フロア。
 ようやく降ろされた俺は酔いでふらつく体を無理矢理動かし、「おいっ、五十嵐!」とやつを捕まえた。
 すると、五十嵐は「なんだ」と鬱陶しそうな顔でこちらを睨むのだ。

「なんだじゃないだろ、なんであんなこと言ったんだ」

 なんだその目は、こっちのセリフだ。という怒りを必死に抑えながらあくまで冷静に五十嵐に詰め寄れば、五十嵐は呆れたようにこちらをじろりと睨んでくるのだ。

「それはこっちのセリフだ。通りかかったのが俺だったから良かったものの、もし他の連中だったらどうするつもりだ」
「別に……知らねえよ」
「いつまでもウジウジするな、ガキか」
「な……っ、俺は、俺で色々考えてんだよ。勝手なことばっか……」
「政岡を勝たせてゲームをさっさと終わらせる。それが一番楽だと言ってんだろ」

 なんだよ、ちゃんとわかってんじゃねえか。そう思わず笑えば、やつはぴくりとも笑わずにこちらをただ見下ろすのだ。ただでさえ威圧感しかねえのに、余計嫌な感じだった。それでも、やつは視線を逸らそうとしない。

「単刀直入に言う。あいつを勝たせるくらいなら俺にしろ」

 そして、そう一言。
 五十嵐はいつもの抑揚のない声で続ける。その言葉を理解するのには時間がかかった。それは、つまり。俺がコイツと?……そっちのが、おかしいだろ。

「……なんで……」
「お前のことが好きじゃないからだ」

 そりゃあ、そうだろうが。それでももう少し言い様があるだろう。別に俺だってお前のこと好きじゃねえよとカチンときたが、やつが言いたいのはそこではないのだろう。

「俺が勝ってこのゲームを終わらせる。……けど、あいつを勝たせたらどうなる?」
「知らねえよ……そんなこと」
「あいつは余程お前のことを気に入ってるだろうからな、なんとしてでも自分の手元に置くようにするだろう」

 お前はそれでいいのか、と真っ直ぐに見つめられ、思わず口籠る。ゲームの勝者はなんでも言うことを聞かせることができる。それは、俺に対しても例外ではない。俺が拒むことら無論できるだろうが、昨夜多数の生徒に囲まれたときのことを思い出せば背筋が薄ら寒くなる。
 また、昨夜のようにリンチでもされたら流石にたまったものではない。
 正直、考えていなかった。あいつの願いなんて、興味なかったからだ。このゲームが終わればいい、他の連中が俺に興味をなくせばいい。そう思っていたが、五十嵐の指摘は最もだ。

「あいつじゃ、誰も得しねえ。……それは、あいつ自身も含めてだ」
「……」
「言っとくが、別に本気で俺のことを好きになれと言ってるわけではない。……最終的に選ぶのはお前だ、けれど、もっとよく考えろ」

 五十嵐の言葉は、今の俺には耳の痛いものばかりだった。
 ガキだのなんだの言われて、ムカついていた。逆らうことしか頭になかった。けど、これじゃ本当に五十嵐の言う通りだ。……不本意だが、俺はちゃんと考えていなかった。目の前の問題から逃げることしか考えず、本質からは目を逸らそうとしていた。

「俺が言いたいのはそれだけだ。別にお前が誰と乳繰り合おうが俺には興味ない。けど、今のお前は見るに耐えれない」
「……っ、余計な……お世話だよ」
「……どいつもこいつも素直じゃないな」

 何も言い返せなくなる俺に五十嵐は小さく息を吐く。アンタの場合素直すぎるんだよ、という言葉は飲み込んだ。

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