馬鹿ばっか


 07

「君はどうやら彼……岩片君と揉めてるらしいじゃないか」

 ティーカップを片手にそう静かに切り出す寒椿に内心ギクリとした。岩片のやつからなにかを聞いたのだろうか、そうでなくてもあいつのことだ。
 大々的に言い触らしてるだろうから秘密にすることなど今更無駄だとわかっていたが、寒椿にまでそのことを言われると言葉に詰まる。

「別に揉めてるわけじゃないですよ、あいつが勝手に騒いでるだけで……」
「それで、君は岩片君の熱烈なアプローチを受けるのかい?」
「ゴホッッ」

 突然変なことを言い出す寒椿に飲みかけていた紅茶が器官の変なところに入ってしまう。
 何を言い出すんだこの男は。というか、どうしてそうなるのか。

「いやいやいや……流石にそれはないだろ」
「何故だい?物事を片付けるには一番手っ取り早いだろう」
「……片付けるって」
「生徒会の皆がやってる遊戯のこと、君も知ってるんじゃないのか?」

 ニコニコと笑ったまま、優雅な動作で俺にハンカチを差し出してくる寒椿。
 予想してなかった寒椿の反応に思わず俺はハンカチを凝視したまま固まった。

「……アンタも、風紀委員も知ってるのか」
「そりゃあ勿論。生徒会の悪癖には僕たち風紀員も辟易させられてるからね。一応潰そうとはしてるんだけどこれがなかなか厄介でね。外部からいくら邪魔したところで遊戯が成立するか、それとも不成功か……そのどちらかでしか終わることができない」

 五十嵐も、同じことを言っていた。
 不成功、というのは俺と岩片が狙っていたものだ。
 俺が恋に落ちないこと。好きと口にしないこと。そうすれば勝者は出てこないと。

「君は岩片君のことが嫌いなのかい?」
「別に……というか、そんなこと聞いてどうするんだよ。もしかして、俺にあいつとくっつけとでも言うのか?」
「それも選択肢の一つではないかと思ってね」
「善処しとくよ」
「それがいい。逃げ道は残しておくべきだからね。……何やら生徒会長君が妙な動きをしてるようだから君も警戒するといい。勿論、一般生徒である君を守るのは僕たち風紀委員の役目でもあるが」
「……」

 ……政岡。
 思い出したくない男の顔が過り、紅茶が不味くなる。

「岩片に……あいつになにか言われたんすか」
「まあ、色々とね。彼も難儀な性格だからね、君も大変だろうがどうか付き合ってあげなよ」

 なんて、まるで長年の友人かのように岩片のことを語る寒椿に違和感を覚えた。胸の奥が燻るような、この感覚はなんだろうか。
 アンタがあいつの何を知ってるのか、なんて喉元まで出かかったが、寸でのところでなんとか飲み込んだ。

「……随分と、仲良いんだな」

 俺は自分が笑ってるのか呆れてるのか、どんな表情をしているのかわからなかった。
 ようやっと出た言葉は思った以上に冷たく響いて、寒椿は別に気にした風でもなくその美貌に変わらぬ笑顔を浮かべていた。

「仲良い、か。そんな風に言ってはきっと岩片君が怒るだろうね」
「そんなことないだろう、アンタみたいな綺麗な男、あいつなら大歓迎だろうさ」
「君……嫉妬してるのかい?……僕に?」
「は?嫉妬って、誰が……」

 そんなわけないだろ、と顔を上げたとき、生白い手が伸びてきて頬を撫でられる。

「……それは、可愛いな」

 柔らかな声で囁かれれば、背筋にぞくりと寒気のようなものが走る。咄嗟に反応に遅れたときだった。
 風紀室の扉が開いた。

「ッ!!」
「……やあ、ようやく戻ってきたのか、岩片君」

 背筋が凍る。咄嗟に寒椿の手を離したが、一足遅かった。風紀室に現れた岩片は、ソファーにいる俺を見て驚いたように目を丸くする。しかし、それも一瞬。

「……ハジメを探せとは言ったが、手を出していいなんて一言も言ってねえぞ。寒椿」
「嫌だな岩片君、いつも深雪と呼んでくれと言ってるじゃないか。……それに、僕はまだ何もしてないよ」

 岩片が戻ってきた。
 心の準備すらできてなくて、なんて言葉を掛けようか迷ってる内にやってきた岩片に肩を掴まれる。
 持っていたティーカップをこぼしそうになって、慌ててそれをテーブルに置いた俺は「おい」とやつを睨む。
 けど、分厚いレンズの向こうに伝わったのかはわからない。俺の睨みも無視して強引に立たせる岩片に、寒椿も困ったような顔をしてみせた。

「……岩片君、あまり乱暴な真似は」
「こいつが邪魔したな、深雪」
「っ、おい岩片、待てって。俺は寒椿と話してる途中で――って、おい!」

 無視、そりゃもう清々しいくらいの。
 必死にやつから逃げようとするが、掴んでくる腕はガッチリ俺を捕まえて離さない。
 そのままズルズルと引きずられるようにして、俺は風紀室をあとにした。

「おい、岩片……っ!」

 いきなり引っ張られ、連れ出される。
 人を解放したかと思った途端これだ。何が好きにしろ、だ。無茶苦茶なのも自分勝手なのもなんら変わらない。

「ッ、お……」

 おい、と岩片を止めようと思いっきり踏ん張ったときだった。こちら振り返る岩片と目が合い、一瞬、言葉を飲んだ。
 そして、伸びてきた手は俺の道を塞ぐように壁に叩きつけられる。ドン、と鈍い音が響き、反射で身構えた。
 すぐ目の前には岩片がいる。
 相変わらずの珍妙な格好だが、その口元にいつもの笑みはない。

「――首輪外してやりゃこれか。……お転婆にも程があるだろ。それとも、欲求不満だったか?」

「あれから構ってやれなかったもんな」と皮肉を込められ、顔が引き攣る。
 五十嵐、岡部、お前らは仲直りをしろなんて言っていたが……わかるか?こいつはこういうやつなんだ、仲直りもクソもない。
 ムカつきのあまり一発殴ってやりたかったが、ぐっと堪えた。この男を相手にするとき真に受けては相手のペースだ。必死に怒りを抑え、平常心を装う。

「勝手なことばっか言って……俺は、お前を探してたんだよ」
「ふうん、やっぱり一人は寂しかったか?俺がいないと、物足りないとか」

 いつもの軽口だと分かってるのに、なんでだ。
 普段なら流せるのに、今はその岩片の軽口すらも傷口を抉るように動揺してしまう。
 そんなわけがないと笑ってやれ、お前が居なくて清々すると。思うのに、上手く笑えない。
 人の気持ちも知らないで、この男は。

「……迷惑なんだよ、お前が余計なことするせいで他の連中からごちゃごちゃ言われるのは全部俺だし。……なんで俺がお前の尻拭いしなきゃなんねーんだよ。お前のせいだよ、全部」

 言い終わって、ああ、と思った。
 溢れ出す言葉を止めることも出来なくて、それでもあとになって血の気が引いた。
 こんな言い方するつもりじゃなかった。
 もっと、笑って流したかったのに、無理だ。

「……だから、もう放っておいてくれ」

 失望されるならそれでいい、今更こいつのご機嫌取りなんてしたくない。なんと言おうがこの気持ちはもうどうしょうもない。
 そう、思ってたのに。

「嘘だな」

 岩片渚沙は、恥を忍んだ俺の願いをそう、たった一言で切り捨てる。
「は?」と言う声も出なかった。いきなり伸びてきた手に顎を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。至近距離、分厚いレンズの向こう、細められたやつの目と視線がぶつかった瞬間鼓動が跳ね上がった。

「俺の性格分かってるんだろ、ハジメ。どうすれば俺が飽きるのか分かってるくせに、なあ、……なんでわざわざ煽りに来たんだ?」

「ただそれを言うためだけにきたのか、お前は。わざわざ色んな奴らから俺の居場所を聞いて」なあ、ハジメ。そう絡みつくような声で名前を呼ばれ、背筋がぞくりと震えた。
 今まではこんなことはなかったはずなのに。心の裏側まで見透かされるような視線に耐えられず、俺は岩片の手を振り払おうとする。

「っ、離せ……っ、おい」
「本当、脳味噌まで可愛いやつだな」
「……っ、な」

 にを、と言いかけた瞬間、視界が陰に覆われる。鼻先がぶつかりそうなほど近づく岩片の顔に全身が硬直し、思わずぎゅっと目を瞑ったとき。
 閉じた視界の向こうで、岩片が笑う気配がした。

「なあにかわいい顔してキス待ちしてんだ?本当に嫌なら唯一の取り柄のこの腕で自力で振り払えよ」
「っ、この……!!」

 鼻で笑う岩片に、頭に血が昇る。目を開き、ぶん殴ってやろうと固めて拳を抑え込まれた。相変わらず細っこい腕からは信じられないほどの馬鹿力。
 この野郎、と片方の手でやつの胸倉を掴むよりも先に、唇を重ねられる。
 柔らかく暖かいその唇の感触に、頭の中が真っ白になった。

「や、め……っ、ん、このっ、……ん、むぅ……っ!」

 唇から逃れようと顔を逸らそうとする都度、無理矢理重ねられる。眼鏡が当たるのも関係なしに、執拗にキスをしてくるこの男が恨めしくて、なけなしの力を振り絞って俺はやつの腹を蹴り上げる。しかし、当たるよりも先に避けられた。

「い、わかた……ッ」
「……ハジメ、お前が俺を探しに来てたのは寂しかったからだろ。構ってほしかったんだ、お前は。俺に」
「んなわけ……」
「ないわけねえよな。俺に本当に辞めさせたいんなら無視するだろ、手応えねえやつほどつまんねえものはねーんだから」

「知ってるだろ、俺は追われるのが好きだって。知ってて、わざとやってんだろ?お前」岩片は無茶苦茶なやつだって、とにかく威圧してペース乱して自分の言いように言い包めるのが得意なやつだ、ムキになったら終わりだとわかってるのに。
 その指摘に図星を指されたみたいにギクリとして、顔が、耳までもが熱くなる。

「自惚れんな、この……」
「……この、なんだ?」

 怒ったところでこいつは「ほら、やっぱりそうだろ」と手を叩いて喜ぶだけだ。
 それならば、とぐっと堪え、言葉を飲む。

「分かんねえか、ハジメには。……そういう反応が堪らなくなるんだよ」

 言葉に詰まる俺に、岩片は頭の湧いたようなことを言い出す。触れる指先を払い除け、俺は、岩片を睨みつけた。

「……岡部や、五十嵐にお前と仲直りするようにって言われたけど……やっぱ無理だな、離れて分かったけどお前は本当にろくでなしだ」
「どの辺りが?」
「散々言わせておいてまだ言わせようとするそういうところだよ」

 そう言い返してやれば、岩片は、ハッと鼻を鳴らして笑う。

「それはこっちのセリフだ、ハジメ。……目を離せばフラフラフラフラ、まともに大人しくも出来ねえ。オマケになんだ、俺が居なけりゃ自分の身も守れねえのか。……それとも、元々がソレか?俺が邪魔してたのか?」
「……どういう意味だよ」
「俺以外のやつに抱かれて気持ちよかったか、って聞いてんだよ」

 息を、飲んだ。一瞬、その言葉の意味を理解することを脳が拒否した。いつもと変わらない口調、いつもと変わらない笑み、それなのに、こちらを見るその目には得体の知れないドス黒いものが滲んでいた。
 岩片に、知られていた。
 その事実を頭が理解した瞬間、足場が崩れていくような錯覚に、目眩を覚える。いっそ、ここで意識を飛ばしていた方がましだとすら思えた。
 平常心。顔に出すな。悟られるな。しらばっくれろ。そんなわけないと、堂々としてろ。
 焼けるように顔が、喉が熱くなる。
 笑って誤魔化そうとするのに、表情筋は石になったみたいに固まって動こうとしない。
 こいつは知ってて、俺のことを滑稽なやつだとわかってて何も言わなかったのか。

「……っ、離せ……岩片……っ」
「質問に答えろ、ハジメ」

 名前を呼ばれると身体が反応する。
 勝手に動きなりそうになる唇を噛み、俺は岩片を睨んだ。

「あぁ……そうだよ、お前の言う通りだよ。全部」

「お前に抱かれるよりも何千倍も最ッ高だったわ」口にしてから自分はなぜこんな子供じみた意地を張ってるのかと呆れた。けれど、死んでもこいつには言いたくなかった。
 お前に抱かれた方がマシだったとか、本当は助けに来てくれると思ってたとか、そんなことだけは絶対に。
 岩片の目が細められる、ああ、今度こそ怒っただろうか。
 見限られるかもしれない。それでいい、もうこれ以上掻き乱されるくらいならいっそのこと放ってほしかった。
 なのに、こいつは。

「……なら、なんでもっと嬉しそうな面できねえんだよ。良かったんだろ?俺よりも、何千倍も」

 自分が口に出した言葉を岩片になぞられるとそれだけで胸に突き刺さる。苦しくて、恥ずかしくて、今自分がどんな顔をしてるのかなんて考えたくもなかった。
 なのに、岩片は俺から目を逸らさない。俺が目を逸らすことも許さない。
 喉がひりつく。胸がジリジリと焼かれるような感覚が気持ち悪くて、嫌だった。

 嬉しそうな顔なんてできるわけないだろ。
 そんくらい俺の性格わかってるくせに、なんでそんなことばかり言うんだ。
 悔しいし腹立つけど、言葉が出なかった。罵倒してやりたいのに、口を開けば開くほど、虚勢張れば張るほど岩片に剥がされていくようで、怖かった。
 本心を悟られたくない。気付かれたくない。
 それなのに、こいつは黙る俺を責めるわけでもなく、抱き締めてくるのだ。

「……っ!」

 一瞬、何が起こったのかわからなかった。
 岩片の熱が、焼けるほど熱い掌が背中に回されて、上半身の隙間なく抱き寄せられて……身体が強張った。流れ込んでくる岩片の体温と心臓の音が広がる。岩片の鼓動が早い。やつがどんな顔をしてるのかもわからなくて、俺はどんな顔をしたらいいのかわからなくて、迷子の子供みてーに視線を彷徨わせる。

「な、にするんだよ……っ離し……」
「……」
「っ、おい、岩片……」

 なんなんだ、なんなんだこいつは。
 怒りたいのに、突き飛ばしたいのに、何も言わない岩片に、焼けるほどの熱量に気圧され、何も考えられなかった。恥ずかしくて堪らなかったのに、パニックになっていた頭がすっと冷めていく。
 心地良い、なんて認めたくなかった。けど、見えなかったはずの岩片の存在が急に浮き彫りになったみたいで、困惑する。
 俺みたいに鼓動が早くなって、ムカついたら熱くなって、それも、こうしてると落ち着いていく。
 こんな事してる場合じゃないとわかってたのに、離れようとしない岩片を無理矢理引き剥がすことができなかったのは岩片が一瞬、俺と同じような迷子に見えたからだ。

「なんなんだ、お前。……なんで……俺を頼らねえんだよ、全部一人で終わらせようとしてんだよ」
「……っ、そんなの、俺の勝手だろ」
「勝手じゃねえよ。……お前は俺のものだろ」
「…………言ってること、無茶苦茶だよお前まじで」

 本当になんなんだこいつは。
 俺も俺だ、岩片の言葉を聞いて散々苦しかった胸の奥がすっと軽くなったのを感じた瞬間、自分で呆れた。
 無茶苦茶で自分勝手で横暴、不遜で揺るがない自己中野郎な岩片にこんな顔をさせたやつがいただろうか。
 顔を上げた岩片と、その分厚いレンズ越しに目があった。覗き込まれ、頬を撫でられる。

「俺のこと好きだっていい加減認めろよ」
「……っ、何、言ってんだよ……」
「好きなんだろ」
「好きじゃねえ」
「……じゃあなんで俺から逃げないんだよ」

 そんなこと言われて、言葉に詰まる。
 お前が最初逃してくれなかったんだろと言いたかったのに、後半俺は確かにこいつから逃げるということを頭から抜け落ちていた。
 というか、普通に話ししてしまってることに気付いてハッとしたが……今更意固地になるのも馬鹿馬鹿しくなったのだ。

「誰かさんが寂しがってるから……居てやってんだよ」

 だから、その代わり……せめてもの抵抗として嫌味の一つだけ言ってやったら岩片は俺の方を見たまま「ああ、そうだよ」と即答した。

「……やっぱ、お前いねーと駄目だわ。俺」

 ただ、何気なくそんな言葉を口にする岩片に、その言葉に、ぶわりと形容し難いものが胸の奥から溢れ出した。
 顔が、熱くなる。さっきまでの頭に血が登ったときのそれとは違う、別の熱だ。歯が浮くような甘い言葉ではないはずなのに、その独り言のような言葉を聞いた瞬間、感じたことがないものが溢れ出すのだ。
 なんだ、なんなんだこれは。
 目眩、違う、足元が綿かなにかになったかのようなふわふわとした感覚に、俺は情けないことに文字通り絶句した。

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