天国か地獄


 10

 目的地である四階へついたエレベーターは停止し、静かにドアが開く。
 芳川会長に視線で促された俺は、そのまま四階の廊下へと出た。

 学生寮、四階。
 芳川会長の後を追うような形で、俺は会長の部屋の前までやってくる。

「入れ」

 鍵を使い扉を開いた芳川会長は、後ろからついてきていた俺の方を振り返ればそう短く促した。
 戸惑いながらも「失礼します」と小さく会釈をした俺は、会長に促されるがまま大きく開かれた扉から会長の自室へと入る。
 会長の部屋にやってきたのはこれで二回目だが、前よりかは随分気持ちが軽かった。
 前回が前回だったから比べるのはお門違いなのだろうけれど。
 思いながら、玄関口で靴を脱いだ俺はそのまま部屋に上がる。

「適当に座ってくれ」
「……ありがとうございます」
「どういたしまして。なにか飲むか?」
「いえ、お気遣いなく」
「そうか」

 そんな会話を交わしながら、俺は部屋に置いてあったL字型のソファーの隅に腰を下ろす。
 続いて玄関から部屋へと上がってきた芳川会長は、ソファーの俺の顔が見える位置に座った。
 静まり返る室内。
 いまから芳川会長に話さないといけないことを考えれば、自然と全身が緊張してしまう。

「……それで、阿賀松からなにを言われたんだ?」

 部屋全体に流れる沈黙を破ったのは、芳川会長の言葉だった。
 言い出しにくい俺のことを考えてくれたのか、そう先に切り出してくる芳川会長はいいながらソファーの肘掛けに腕を乗せる。

「ええと、あの、実は……」
「実は?」
「その……ええと……」

 いざ言おうとすれば、改めて阿賀松からの命令のとんでもさに気付かされ、うまく言葉が出てこなかった。じわじわと顔に熱が集まってくるのがわかる。
「どうした?」なかなか先を口にしようとしない俺に焦れたのか、芳川会長は少しだけ困ったような顔をした。

「……俺が、その……会長と……や、やや、ヤれって」
「……やれ?やるって、なにを」

 なけなしの勇気を振り絞って喉奥から声を出した俺だったが、あまりにも簡略したせいか芳川会長には伝わらなかったようだ。
 顔を赤くして口ごもる俺に、芳川会長は素で不思議そうな顔をする。
 そこは是非雰囲気から察して欲しい。

「せっ………………せっくす」

 芳川会長から顔を逸らした俺は、そう聞こえるか聞こえないかくらいの小声でぽつりと呟いた。
「……」一瞬、芳川会長は俺がなにを言っているのかわからなかったらしい。
 が、一応は聞こえていたようで、俺の言葉を頭で理解したらしい芳川会長の顔はみるみるうちに赤くなっていく。
 再び、室内に先程よりも比にならないくらい重い沈黙が流れた。
 やっぱり言わなかった方がよかったかもしれない。だけど言わなかったら俺が色々酷い目遭わされるかもしれないし、でもだからってこの空気はかなり辛い。というかもうなに言ってんだ俺。もう少しオブラートに包むことはできただろう。

 静まり返る室内。
 極力芳川会長と目が合わないよう顔を逸らしていた俺はだらだらと冷や汗を滲ませ、酷い後悔の念に苛まれた。

「……暑いな」

 ふと、黙り込んでいた芳川会長がそうぽつりと呟く。
「……へ?」その内容がよく聞き取れなかった俺は、間抜けな声を洩らし芳川会長の方に顔を向けた。
 それとほぼ同時にソファーから立ち上がる芳川会長。
 いきなり立ち上がる芳川会長にびっくりした俺は、つい身を引いてしまう。

「いや、あれだ。やっぱり、なんか飲むもの持ってこよう。喉が渇いたらあれだしな。少し待っててくれ」

 目を丸くして芳川会長を見る俺に、会長はそうしどろもどろと言いながら俺に背中を向けそのままソファーから離れていく。
 微かに上擦るその声からして、芳川会長が動揺しているのがよくわかった。
 慌てて部屋に取り付けられている冷蔵庫の元へ足を向かわせる芳川会長の後ろ姿から目を逸らした俺。
 返事をするにもなにを言えばいいのかわからず、俺は大人しく芳川会長が戻ってくるのをソファーの上で待った。
 ここまで気まずくなるくらいなら、そんなことまで面倒見きれないと芳川会長にハッキリ言われた方がまだましなのかもしれない。いや、それもそれで結構傷付くかもしれないが、やはりこの空気はかなりキツかった。
 全身が緊張し、やけに鼓動がうるさい。あまり意識して芳川会長に挙動不審に思われないよう気を付けていたが、それが裏目に出たようだ。
 両膝を強く掴んだ俺は、ただじっと芳川会長が戻ってくるのを待つ。
 暫くもしないうちに、二人分のグラスを手にした芳川会長は再び俺の前に現れた。

「……麦茶しかなかったが、よかったか?」
「ああ、はい、大丈夫です、たぶん。あ、ありがとうございます」

 どこかぎこちない手付きで俺の目の前のテーブルにグラスを置く芳川会長に、俺はそうしどろもどろとお礼を口にする。
 慌てて渡されたグラスを手に取ろうとしてうっかり倒しそうになるが、間一髪それを手にとった。
 グラスの中身をぶち撒けるようなことにならずに済み、ドキドキしながら俺はほっと息をつく。
 俺にグラスを渡した芳川会長は、そのまま先程座っていた場所に腰をかけた。
 未だ熱が引いていないようで、その顔はどこか赤い。
 ソファーに座った芳川会長はグラスに口をつければ、ぐいぐいと中身の麦茶を一気に飲み干した。
 自分を落ち着かせるように麦茶を喉に流し込んだ芳川会長は、小さく息を吐く。
 あっという間に空になったグラスをテーブルの上に置いた芳川会長は、どうしたものかと困ったように顔をしかめる。
 気まずい空気の中、芳川会長を横目で伺いながら俺は手に取ったグラスに口をつけた。
 中の麦茶を一口だけ喉に流し込んだ俺は、半分以上中身を残しそれをテーブルの上に置く。

「……あいつ、そんなことを君に強要したのか」

 俺が飲み終わるのを待っていたのか、グラスを置いた俺を一瞥した芳川会長は「どんな神経しているんだ」と忌々しそうに吐き捨てた。
 阿賀松がなにを企んでいるのか俺には理解できなかったが、ただ一つわかることと言えばまともな神経ではないということぐらいだろう。

「それで、言われたのはそれだけか?」

 麦茶で喉を潤し気持ちを落ち着かせた芳川会長は、そう気を取り直して俺に問い掛けてくる。
 夕方の阿賀松とのやり取りを思い出した俺は首を横に振り、芳川会長に阿賀松から命令された内容の詳細を伝えた。
 そりゃあもう俺にとってそれは拷問に等しいものだった。

「……なるほどな」

 一通り芳川会長に伝えれば、芳川会長は顎を指で擦りながらそう重々しい表情で呟く。
 なにがなるほどななのかよくわからなかったが、芳川会長は支離滅裂な俺の説明を理解してくれたようだ。

「あながち、生徒会室になにかを仕掛けて最中の様子を証拠として残すつもりなのだろう」
「……証拠?」
「俺と君が……その、不純なことをしようとした証拠だ」

「それだけあれば、俺も、君も相応の処分を食らうことになるだろう。最悪、退学になる可能性だってある」淡々とした調子で続ける芳川会長だったが、その表情はやはりどこか不愉快そうな色が滲んでいる。

 退学。
 あまり耳に馴染みがないその言葉は重く、俺の頭の中に響いた。
 ということは、阿賀松は芳川会長を退学にさせようとしているということか。
 それどころか、俺を巻き込んで。
 恥ずかしくて学校に来れないようになるのと退学にさせられて学校に来れないようになるのとでは大分意味が変わってくる。
 どちらにせよ、俺が学校に来れないようになるのは変わらないのだが。

「じゃあ、どうすれば……」

 前者ならまだ芳川会長は被害を受けずに済むだろうが、俺が手痛いとばっちりを受けることにはかわりない。
 転校してきたばかりで退学沙汰の問題を起こしたくなかった俺は、すがるように芳川会長に助けを求める。
 芳川会長に迷惑をかけたくないと思っておきながらこうも簡単に会長の優しさ甘えてしまう自分が情けなくて仕方なかったが、助けを求めずにはいられなかった。

「大丈夫だ、そんな深刻に考えなくてもいい」

 焦燥に駆られる俺に、芳川会長はそう宥めるような優しい口調で俺に言い聞かせる。
「でも……」二択しか残されていない俺にとって、深刻に考えるなという方が無理な話だった。

「簡単なことだ。阿賀松の気の済むようにさせればいい」

 困惑する俺を見据えた芳川会長は、そう静かな口調で続ける。
 一瞬、芳川会長の言葉の意味が理解できなくて、俺は呆然とした顔で芳川会長をみた。
 頭で芳川会長の言葉を理解したとき、俺はなにから突っ込めばいいのかわからなくなる。

「それって……どういう……」
「恋人の件と同じだ。フリをするんだ」
「……フリ?」

 思考回路がこんがらがってしまい益々混乱してしまう俺に、芳川会長はそういつもの調子で続ける。

「あいつのことだ。どうせ生徒会室になにか仕掛けてくるはずだ。カメラなり、盗聴器なりな。だからそれを全て取り除く」

「それらしい証拠を残さない状態にした上で、俺が君と、その、色々あったということにすればいい」途中口ごもりながらも、芳川会長はそう俺に提案する。
 確かに、阿賀松に言われた通りにした上で不利になるようなものを残さなければそれはそれで一番いいのだろう。
 芳川会長はそれを簡単に言うが、どうしても俺は上手くいくかどうかが不安だった。

「そんなこと、できるんですか?」
「ああ、当たり前だ。生徒会室は俺のテリトリーだからな」

 恐る恐る尋ねる俺に、芳川会長はそう即答する。
 よっぽどの自信があるようだ。
 その口許には、余裕の笑みが浮かんでいた。なかなか悪い顔になっている。

「……そういえば、前に君は栫井と阿賀松がどうとか言っていたな」

 なにを思ったのか、ふと芳川会長は思い出したようにそんなことを言ってきた。
「……ええ、まあ」いきなり出てきた栫井の名前に、俺は内心動揺しながらも慌てて頷く。

「あの……それがどうしたんですか?」

 芳川会長が副会長二名と揉めていることを思い出した俺は、ハラハラしながらそう芳川会長に尋ねた。

「……いや、なんとなく思い出したから聞いてみただけだ。君は気にしないでいい」

 なにか考えているのか、芳川会長は顎を指で擦り、小さく笑う。
 どうやら芳川会長は考え事をしていると顎を触る癖があるようだ。
 なんとなく芳川会長の態度が気になったが、本人が「気にしないでいい」と言っているのに無理に根掘り葉掘り聞くのもあれだと思い、俺は口を閉じる。

「そういえば、期限も言われていたのだろう?」

 黙り込む俺に、芳川会長はそう俺に聞いてきた。
 声をかけられ慌てて顔を上げた俺は、「今週末までです」と芳川会長にそのまま告げる。

「……今週か。じゃあ、明後日でいいな」
「明後日ですか?」
「恐らく明日、阿賀松に生徒会室を弄られる。それを外したり色々しなければいけないからな、早くても明後日だ」
「でも、それじゃあ……」

 文化祭と被ってしまうじゃないか。
 妙にアバウトな芳川会長の言葉が気になりながらも、俺は困ったように顔を強張らせる。

「……明後日は忙しいんじゃないんですか?」

 芳川会長の言葉に、会長がどんな立場にいるのかを思い出した俺はそう心配そうに問い掛ける。
 時間帯にもよるだろうが、どちらにせよあまりゆったりとした時間が取れるようには思えなかった。

「まあ、そうだな。暇ではないが、だからといって死ぬほど忙しいというわけでもない」

 心配する俺に、芳川会長はそう素直に答えてくれる。
「……わかりました。明後日ですね」会長に迷惑をかけるわけだから、なるべく会長の意見を尊重したい。
 そう思った俺は、芳川会長の提案に頷いた。
「ああ」納得したように頷く俺に安心したのか、芳川会長は強張らせていた頬を僅かに緩ませる。

「詳しい時間帯とかは当日でいいだろうか。いまのところ、自由に行動できる時間があやふやでな、ハッキリとしたことが言えないんだ」
「大丈夫です」
「ありがとう、助かるよ」

 そう静かに頷く芳川会長に、それはこっちの台詞だと俺は口の中で呟いた。
 多少不安要素があるものの、芳川会長のお陰で大分楽になったような気がする。

「あの、こちらこそ、色々……ありがとうございます」

 つい癖で謝ってしまいそうになり、慌てて俺はお礼を口にした。
 いまさら緊張の糸がほどけたようで、口の中が渇いた俺はそう頬を緩ませながらテーブルの上のグラスに手を伸ばす。
 長い間飲み掛けたまま放置していたグラスにはいくつもの滴が滲み、それを指先で拭いながら俺は口をつけた。

「困ったときはお互い様だろう?」

「それに、君は被害者だ。そんなに畏まらないでくれ」一頻り話終え、いつもの調子に戻った芳川会長はそう苦笑を浮かべる。

 困ったときはお互い様か。
 つい最近似たようなことを知り合いから言われたが、随分と言葉の印象が違うように感じた。

「そうだ、もう晩飯は食べたか?よかったらこれから一緒にどうだ」

 芳川会長は、そう思い付いたように俺を誘ってくる。
 確かに、少し腹が減ってきた。
 けど、なんだか食堂でどっしり構えて晩飯を取るという気になれなかった俺は芳川会長の誘いを断ることにする。

「あの、すみません、今日はちょっと……」


 なるべく芳川会長に失礼がないよう言葉に気をつけるが、結果的に申し出を断っていることには変わりない。
「……そうか。なら仕方ないな」少しだけ寂しそうな顔をした芳川会長は、「また今度、暇があれば一緒に食べよう」と笑いかけてくる。
 自分から断ったのに恐縮する俺のことを気遣ってくれているようだ。
 その心遣いに益々申し訳なくなってしまう。
 それから、俺は芳川会長と他愛ない会話を交わした。
 元々共通の趣味があるわけでもない俺たちの会話はそんなに盛り上がるはずもなく、すぐに途切れては部屋に沈黙が訪れる。

「……じゃあ、俺、そろそろ部屋に戻ります」

 学生寮へ戻ってきたばかりで疲れているであろう芳川会長の部屋にこれ以上邪魔するわけにはいかない。
 そう思った俺は腰を上げ、自ら芳川会長に切り出した。
 少しだけ驚いたような顔をする芳川会長だったが、現在時刻を確認し「ああ、わかった」と小さく頷く。

「悪いな、遅くまで引き留めてしまって」
「……いえ、その、こちらこそ相談に乗っていただきありがとうございました」

 壁にかかった時計を一瞥した芳川会長は、そう苦笑を浮かべた。
 立ち上がった俺はそう会長に向かって軽く会釈をすれば、芳川会長は「よしてくれ」と困ったような顔をする。

「俺は君に頭を下げられるような立場ではない」

 謙遜だろうか。
 そう俺の顔を上げさせようとする芳川会長に、俺はどう返せばいいのかわからずそのまま口ごもる。

「ほら、部屋まで戻るのだろう?」

 戸惑う俺に気遣ってくれているのか、そう機転を効かせる芳川会長はゆっくりとソファーから立ち上がった。
 もしかして見送ってくれるのだろうか。つられるように立ち上がる芳川会長に目を向ける俺。

「ついでだ。部屋まで一緒させていただこう」

 わざわざ俺を見送ってくれるなんて、優しいな。
 なんて思った矢先、目を伏せて小さく笑う芳川会長の言葉に俺は少しだけ体を強張らせる。
 優しいどころか、これではただの過保護だ。
 俺の返事も待たずにそのまま玄関口へと歩いていく芳川会長。どうやら、俺に拒否権はないようだ。

「どうした?戻るんだろう」

 ついてくる気満々の芳川会長に戸惑いソファーから立ち上がったまま動けずにいる俺。
 そんな俺を不思議そうに見て声をかけてくる芳川会長に、俺は慌てて玄関口へと向かった。
 そりゃそうだ。元はと言えば、最初に俺に見張りをつけるように言ったのは芳川会長だ。
 俺の部屋まで送ると過保護なことを言い出しても仕方がない。
 芳川会長の時間を無駄にさせるのは申し訳なかったが、「ついでだ」という辺り他にも用があるのだろう。
 芳川会長の予定にまで口を挟めるほどの権限と勇気を持っていない俺は、素直に芳川会長の好意に甘えさせて頂くことにした。

 部屋まで送ると言う芳川会長とともに会長の部屋を出た俺は、そのまま会長とともにエレベーター前へと向かった。
 会長といると安心するのも本当だったが、やはり見張りの件があるからだろうか。
 こうして俺の相手をしてくれているのも生徒会長の役目だと思うと、なんとなく素直に喜べなかった。
 まあ、たかが送迎で一喜一憂している俺も相当あれなのだろうが。
 待機していたエレベーターに乗り込み、俺たちを乗せた機内はそのまま自室がある三階へと降りていく。
 やはり一階違いだからだろうか。
 思っていたよりも早く目的地である三階へ着くことができる。

 エレベーターを降り、俺たちは三階へと出た。
 三階、エレベーター前廊下。
 そこは文化祭の準備を終え、各々自由行動を過ごす私服の生徒たちで賑わっていた。
 エレベーターのドアの側にいた生徒は降りてくる俺たちを見ては目を丸くさせる。
 周囲の視線が自分たちに向けられ、なんだかもういたたまれなくなった。
 しかし、そう周りに過敏になっているのは俺だけのようだ。

「確か、君の部屋は333号室だったな」

 芳川会長はと言えば、そう俺に確認を取りながらそのままスタスタと視線の中を潜っていく。
「あ、はい」いきなり尋ねられた俺は頷き、慌てて芳川会長の後についていった。

 複数の好奇の目の前に晒されているにも関わらずいつもの調子を崩さない芳川会長に尊敬の念を覚えると同時に、周りからの視線をどう思っているかが気になって仕方がなかった。
 俺と恋人同士として周りに認知された今、芳川会長はこうして俺と一緒にいることで俺と同じような気持ちになってたりするのだろうか。
 普段からあまり自分のことを話さない芳川会長だからこそ、なんとなく気になって仕方がなかった。

 333号室前。
 変わらない調子の芳川会長の後ろをついて自室まで戻ってきた俺は、制服の中に入っている鍵を確認する。

「ここだな」
「はい。……その、ありがとうございました。わざわざ送ってくれて」
「気にしなくてもいい。俺が勝手にしたことだ」

 扉の前で立ち止まる芳川会長は、そう言って小さく笑った。
 それを言われてしまえば、こちらもなにも言えなくなってしまう。
 つられて苦笑いを浮かべる俺は、制服から鍵を取りだしそのまま扉の鍵穴に差し込んだ。

「そう言えば、志摩君、だったか」

 差し込んだ鍵を捻れば、そこからガチャリと錠が落ちる音がする。
 芳川会長の口から出た名前に、俺はドアノブから手を離し目を丸くして芳川会長の顔を見た。

「十勝には仲直りをさせるよう言っておいたから、今日彼は来ないはずだ」

「ゆっくり休んでくれ」口許に笑みを浮かべる芳川会長は、そう言って目を細める。
 なんで、会長が志摩が俺の部屋に泊まりに来たことを知っているんだ。
 なんでもないように、そう微笑む芳川会長の言葉に俺は目を丸くする。

「じゃあ、おやすみ」

 呆然とする俺を他所に、芳川会長はそう小さく笑えばそのまま廊下を歩いていった。
 いま来た道ではなく、エレベーターから離れるよう奥へと向かう会長を目を丸くして見送る。
 先程の芳川会長の言葉を思い出す限り、もしかしたら芳川会長の用事というのはこの階にあるようだ。
 なんで芳川会長がそのことを知っているのか、それを聞きそびれてしまった俺はわざわざ引き留めるほどでもないと判断する。
 恐らく、十勝からでも聞いたのだろう。まあ、その十勝がどういう手段で志摩の宿泊のことを知ったのかが問題なのだけれど。
 遠くなる芳川会長の背中から視線を逸らした俺は、妙に落ち着かない気分のまま扉を開きそのまま自室へと戻った。

 いままでごちゃごちゃしていたくせに、相部屋から一人部屋へとなったそこは酷く寂れている。
 戸締まりを確認し、玄関口で靴を脱いだ。
 やるせない気持ちのまま俺は空いた部屋に置かれたソファーへと腰をかける。
 阿賀松からの命令に、阿佐美のこと。生徒会の内部分裂に、自分につけられた護衛という名の見張り。
 どれも思い出せば思い出すほど気が滅入るようなもので、俺は無意識に溜め息をつきながらテーブルの上に置かれたリモコンを手に取った。
 テレビの電源をつけ、ソファーの背凭れにずるずると寄り掛かりながら俺はいまやっているバラエティ番組を眺める。
 そういえば、このソファー阿佐美のものなのになんで持っていってないのだろうか。
 他の私物はごっそりと持っていったのに、見落とすようなものでもないソファーを部屋に置きっぱなしにしたままの阿佐美にふと俺はそんな疑問を覚える。
 もしかしたら、わざと置いていったのだろうか。
 餞別。なんて都合のいい言葉が頭の中を過ったが、阿佐美の意図は俺にもよくわからない。取り敢えず、有り難く使わせてもらうか。全身の疲労感に押し潰されそうになりながら、俺はソファーに寄り掛かったまま目を伏せる。

 明日は、そうだな。栫井から五味に会って見張りのことを相談しろと言われてたんだった。五味に会って、いやその前に五味の部屋かクラスかを栫井に聞かなければならない。
 そこまで考えて、さっき灘と会ったときに聞いとけばよかったと俺は後悔する。
 まあいい、どちらにせよ栫井には色々聞いかなければいけないことがある。
 一対一で栫井と話すことには抵抗があったが、背に腹は変えられない。
 芳川会長とのことは明後日だ。明日は多分、なにもないはず。頭の中で明日やらなければならないことを整理整頓し、俺はゆっくりと瞼を持ち上げる。
 お腹減った。
 空腹に耐えきれなくなった俺は、そのままゆっくりと上半身を起こしソファーの足元に置かれた鞄に目を向ける。
 そういえば、今朝灘から貰った惣菜パンそのまんまだ。

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