01
それから暫く俺はソファーに座って阿佐美の帰宅を待っていたが、阿佐美が部屋に戻ってくるより先に眠りについてしまう。
微睡む意識の中、腰をかけていたソファーが小さく軋み、俺は目を開いた。
「おはよう、齋籐」
目を開いた瞬間視界に志摩のドアップが映り込み、俺の口から「ひっ」となんとも情けない悲鳴が漏れる。
眠っていた俺の膝の上に馬乗りになるように膝で立って俺の顔を覗き込んでいた志摩は、素で驚く俺に可笑しそうに笑った。
「え、あの、なにして……」
「なにって、起こそうとしただけだよ」
最近の人は相手を起こすときに馬乗りになるのか。
朝から爽やかな笑みを浮かべる志摩に、俺は顔をひきつらせる。
「それとも、なにか他のこと期待したの?」
ニコニコと笑いながら人の首に手を伸ばした志摩は、首筋から鎖骨へと撫でるように指を這わせた。
全身に鳥肌が立ち、俺は慌てて志摩の肩を押し無理矢理ソファーから下ろす。
「冗談なのに……」嫌がる俺に、志摩はそう残念そうな顔をした。
昨日の今日でその手の冗談が通じるわけないだろう。
「……阿佐美は?」
志摩を下ろした俺は、ソファーから立ち上がりながら部屋の中を見渡した。
話題を変えたかったのもあるが、個人的に阿佐美には用がある。
昨日の夜、まともに話せなかったことを思い出しながら俺は阿佐美の姿を探した。
が、部屋の中には俺と志摩しかいない。
「さあね、俺が起きたときからいなかったよ」
もしかしたら風呂に入っているのだろうかと思ったが、音は聞こえない。
もしかして、まだ帰ってきていないのだろうか。
夜出ていってもいつもなら朝には帰ってきているのに。
なんとなく嫌な予感がして、自然と顔が強張った。
そう上の空で考え事をしていると、不意に肩を掴まれる。
「ほら、それより齋籐。早く準備しないと遅れちゃうよ。服着替えなよ」
いいながら、志摩は俺の体を軽く揺すった。
ぼんやりしていた俺は志摩に言われ、咄嗟に壁の時計に目を向ける。
志摩の言う通り、時計の針は結構ギリギリな時間を指していた。
「ああ……ごめん」
そういう志摩はもう既に制服に着替えており、いつ出ても構わないよう準備をしていた。
もしかして自分が起きるのを待っていてくれたのだろうか。
先に部屋を出ていてもいいものを律儀に残ってくれていた志摩を思うと、自然と謝罪が口から出てしまう。
志摩に言われるがまま急かされた俺は、壁にかけてあった制服を手に取り着ていた服を脱ごうと裾を持ち上げ、手を止めた。
「あ、続けて続けて」
人の着替えシーンを遠慮することなく凝視してくる志摩に、俺はなんともいえない気分になる。
基本同性の前で脱ぐことに躊躇いを感じない俺だったが、なぜだろうか。
あまりにも見てくる志摩に一種の居心地の悪さを覚えた俺は、無言で裾を戻し制服を片手に洗面所へ移動することにした。
洗面所で身嗜みを整えた俺は着なれた制服に身を包み、そのまま洗面所を後にした。
「別に恥ずかしがらなくてもいいのに」
俺が個室で着替えたのが気に入らなかったのか、志摩はそう拗ねたように呟く。
恥ずかしがるというより、着替えにくかったからと言った方が適切なような気がしたがわざわざいうほどのことでもないので敢えて俺は志摩の言葉を聞き流すことにした。
「……志摩はもう出れるの?」
テーブルの側に落ちていた鞄を拾い上げながら、俺はそう志摩に尋ねる。
「いつでも出れるよ」俺の方を見て、志摩はそう笑った。
やはり委員長を受け持っているだけに時間には厳しいようだ。
「じゃあ、出ようか」
その俺の言葉を合図に、そのまま俺たちは廊下へ出た。
志摩が隣にいるというだけでなんとなく落ち着かない気分だったが、このまま志摩を部屋にほったらかしにするわけにもいかない。
扉の前に立った俺は、部屋の鍵を鍵穴に差し込み扉を施錠した。
未だに阿佐美が帰ってこないことも気掛かりだったが、一応阿佐美も鍵を持っているはずだ。
帰ってきたら、きっと部屋でいつも通りだらだらしてるに違いない。
思いながら、俺は戸締まりを確認し自室の前を後にした。
エレベーター前までやってきた俺と志摩は、扉が開くと同時にそのまま機内へ乗り込んだ。
機内には他にも数人の生徒が乗っていて、生徒は俺たちが乗り込んだと同時に避けるように壁に寄る。
上から降りてきたということは三年生だろう。
露骨に避けられてあまりいい気はしなかったが、わざわざ自分から突っ掛かるような真似もしたくない。
俺は入り口付近に立ち、その横に志摩が並ぶ。
エレベーターの扉が閉まり、再び機内が下降し出した。
「齋籐、なに食べる?」
静まり返るエレベーター機内に、志摩の楽しそうな声が響く。
降りてからでいいだろ、そういうのは。言いかけて、俺は口を閉じる。
あまり人がいる前で喋りたくないが、聞かれて無視することもできない。
「別に、なんでもいいよ」
俺は志摩に聞こえるくらいの小声で答えた。
「じゃあ今日は購買にしようか」そう思い付いたように言う志摩に、俺は無言で頷く。
正直食べれればなんでもいい。
食堂の椅子の上に腰をかけてゆっくり食事を楽しむのも悪くないが、時間帯を考えればそれは無理だろう。特に食事自体にこだわりはないので俺はなにも言わなかった。
暫くもしないうち、機内は小さく揺れエレベーターの扉が開く。どうやら、目的地の一階に着いたようだ。
エレベーターを降り、俺と志摩は側にあるコンビニの中に入る。
自動ドアの下を潜り、広い店内に足を踏み入れればそこには何人かの生徒が朝食を選んでいた。
その中に見慣れた生徒を見つけ、無意識に体が強ばる。
「あーやっぱりこれも旨そうだよなー。ね、和真どっちがいいと思う?」
「……」
「あーやっぱりこっち?だよなー、俺もそう思ってたんだよな!さっすが和真」
ドリンクコーナーにて、生徒会役員である書記と会計がなにやら話し込んでいた。
このタイミングで十勝かよ。
内心俺は冷や汗を滲ませながら隣の志摩に目を向けた。
「どうしたの?齋籐、選ばないの?」
ハラハラしている俺の心境を知ってか知らないでか、志摩は入り口前で立ち止まる俺を見て不思議そうな顔をする。
ドリンクコーナーで騒いでいる十勝に気付いているのだろうか。
あまりにも変わらない志摩の態度に、第三者である俺がハラハラしていることが馬鹿馬鹿しくなってくる。
「……いや、なんでもない」
俺はそう慌てて首を横に振り、その場で志摩と別れ惣菜パン売場へと足を向かわせた。
なんで関係のない俺がこんなに心配しているのだろうか。内心苦笑を漏らしながら、俺は適当なパンに手を伸ばす。
瞬間、自分のものではない手が横から伸びてきて、俺が取ろうとしたパンを取られた。
咄嗟に振り向いた俺は、そこにいた人物を見て凍り付く。
「へえ、ユウキ君こんなのが好きなんだ。こんなんじゃ腹にたまんねえんじゃねーの?」
俺の狙っていた惣菜パンを手にした阿賀松は、言いながら笑った。
まさか、嘘だろ。さっき店内を見渡したときはいなかったのに。
俺がただ見落としただけなのか、たまたま陰になってて見えなかっただけなのかはわからない。
いきなり現れた阿賀松に胸の鼓動が早くなる。もちろん、悪い意味でだけれど。
「……なんでここに……っ」
喉から声を絞り出すようにして、俺はそう阿賀松を見上げる。
全身から血の気が引いていき、自然と俺は後ずさった。
そうわかりやすいくらい動揺する俺を見て、阿賀松は可笑しそうに笑う。
「なんでって、飯買いに来たに決まってんだろ?」
言いながら、阿賀松は手にもった惣菜パンを俺に見せる。
「まさか、俺は売店使っちゃいけないとか言わねえよな」そう笑う阿賀松に睨まれ、俺は首を横に振った。
どうやら、阿賀松の言葉に嘘はないようだ。この時間帯に阿賀松と遭遇したのが初めてなだけに、なんとなく違和感が拭えない。
「だよなあ。お前にそんな権利ないしな」
頷く俺に、阿賀松はにやにやと笑いながらそう続ける。
なんでそこまで言われなくちゃいけないのかがわからなかったが、下手に口答えをして面倒なことにはしたくない。
俺は「そうですね」とひきつった愛想笑いを浮かべながら、さっさと阿賀松から離れようとした。
「あれ、ユウキ君いらねえの、これ」
不意に俺の腕を掴んだ阿賀松は、言いながら俺に先ほどの惣菜パンを押し付ける。
またなんか妙なこと仕掛けてくるんじゃないかと構えていた俺は、押し付けられた惣菜パンに少し驚きながらも渋々それを受け取った。
そのとき、不意に背後から伸びてきた手に肩を強く掴まれる。
「齋籐、あっちに美味しそうなのがあったよ」
いきなり肩を掴まれ、俺は慌てて背後に目を向けた。
いつもと変わらない笑みを浮かべた志摩は、言いながら阿賀松から俺を離そうとする。
「え、志摩、ちょっと……」
割り込むように入ってきた志摩に、俺は素で戸惑う。
半ば強引に俺の腕を掴んだ志摩は、そのまま阿賀松から離れようとした。
が、阿賀松に掴まれたもう片方の腕は離れず、俺は慌てて志摩を止めようとする。
「まーたお前か、亮太」
いきなり現れてそのまま人を連れていこうとする志摩に、阿賀松は面倒臭そうに舌打ちをし俺の腕を強く引いた。
「人が話してるとき割り込んで来んなよ」阿賀松は言いながら志摩を睨む。
二人に腕を掴まれ、俺は全身に嫌な汗を滲ませた。普通に痛い。
慌てて二人の手を振り払おうとするが、両者ともに指が皮膚に食い込むくらい強く掴んでいるお陰でびくともしない。
「齋籐、確かプリンとか好きだったよね。いまそこでおっきなプリン見付けたんだ、バケツプリンだよバケツプリン」
苛つく阿賀松とは対照的に、志摩はにこにこと笑いながら拍子外れなことを言い出した。
「無視かよ、こいつ」阿賀松のことを見向きしない志摩に、阿賀松は眉間に皺を寄せる。
プリン大好き発言をした覚えはないが、志摩なりに俺をこの状況から助けようとしてくれているのはよくわかった。が、取り敢えず腕を離してほしい。このままでは二つに裂けてしまいそうだ。
「おい、お前らなにやってんだよ」
今度はなんだ。前方から聞き覚えのある声が聞こえ、俺は声のする方に目を向ける。
会計を済ませたばかりらしい十勝と灘は、買い物袋を抱えたまま俺たちに近付いてきた。
助かった。助かったけどこの組合わせ、最悪じゃないか。
「次から次へと……本当面倒くせえなあ。二人で話す暇もなしかよ」
生徒会役員の登場に、阿賀松はダルそうに溜め息をついた。
「空気が読めない馬鹿ばかりで困るよなあ、ユウキ君」阿賀松は口許に笑みを浮かべれば、言いながら俺から腕を離す。
すんなりと離れた阿賀松に内心驚き、俺は阿賀松の方に目を向けた。
そのとき、不意に頭を掴まれ耳元に阿賀松の顔が近付く。
「放課後、お前の部屋に行くから大人しくしとけよ」
俺だけに聞こえるくらいの声量でそう囁く阿賀松に、俺は目を丸くさせた。
有無を言わせない阿賀松の言葉に、俺は慌てて阿賀松の方を見ようとする。
瞬間、阿賀松に耳朶を舐めあげられ俺はビクッと肩を震わせた。
「な……っ」
一部始終を目撃していた志摩の顔が引きつり、十勝は呆れたような顔をする。
「じゃあな」俺から顔を離した阿賀松は、そう笑えばそのままなにも買わずにその場から離れた。
生暖かい舌の感触が耳に残り、耳元をごしごしと手で拭いながら俺はそのままコンビニを後にする阿賀松の後ろ姿を眺める。本当、なにしに来たんだ。
生徒会と揉めて下手に物事がでかくならないだけましだが、いや、ましなのか。どうだろう。思いながら、俺の頭がこんがらがってくる。
「うっわ……」
「てか、お前も離せよ」阿賀松の行動に顔を青ざめさせた十勝は、俺の腕を掴む志摩に目を向けた。
「やだよ」即答する志摩の指先に力がこもり、俺は慌てて志摩の手から離れようとする。
が、志摩に腕を引っ張られ離れるどころか距離が縮まった。
下手に逃げ出さないよう俺の腕を捻り上げる志摩に、俺は小さく呻く。
「なんだよ、やだって。佑樹が嫌がってんだろ」
ああいえばこういう志摩に、十勝は面白くなさそうに顔をしかめた。
「嫌がってるわけないじゃん」十勝の言葉に、志摩はそうあっけらかんとした調子で答える。
「ねえ、齋籐。俺たち手え繋ぐぐらい普通だよね?」
俺に聞かないでくれ。
「いや、その……」微笑みかけてくる志摩に、俺は顔をひきつらせ口ごもる。
場を上手く持たせるために志摩の言葉に頷いても十勝たちには引かれるだろうし、だからといって『そんなわけないだろ!ばっかじゃねーの!』なんて言える勇気俺にはない。
「きっしょいこと言ってんじゃねえよ。いいから佑樹から離れろって、そんなに指導室に連れてかれたいのかよ」
口ごもる俺を他所に、十勝はそう顔をしかめ志摩に目を向けた。
指導室って、生徒指導室のことだよな。
指導室という言葉を聞いた瞬間、志摩は僅かに反応した。
「しょうもない私情で職権濫用なんて感心しないな。まあいいよ、勝手にすれば?」
瞬間、志摩の手が俺から離れる。
やはり、志摩も生徒指導を受けるのは得意ではないようだ。
十勝の言うことを素直に聞いた志摩に驚いていると、いつの間にかに背後にいた灘に腕を優しく掴まれた。
「失礼します」灘はそう小さく呟けば、俺の腕を強く引っ張る。
「え?……ちょっ、あの」そう一言断りを入れいきなり歩き出す灘に、俺は目を丸くした。
強引に俺を引っ張る灘に、志摩は顔を強張らせる。
「なにやってんだよ、離せって。おい!」
怒鳴るような志摩の声が背後から聞こえ、ビックリした店員数人が志摩たちの元へ向かった。
うわ、どうしよう。志摩怒ってるんだけど。
構わず、さっさとコンビニの出入り口を目指して足を進める灘に、俺は引き摺られないように慌ててついていく。
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