天国か地獄


 03

 次に目を覚ましたのは、何度も扉を蹴るような物音が原因だった。俺はビクリと目を開けば、慌てて飛び起きる。

『君、そんな乱暴なこと……』

 扉の向こうで聞き覚えのある声が聞き取れる。芳川会長だ。
 宥めるような芳川会長の声が微かに聞こえて、ようやくすさまじい物音は鳴り止む。

「……んだよ、うっせーな」

 体育倉庫の奥から、まだ眠気が取れていない櫻田の声が聞こえた。
 どうやら櫻田もいまの物音にたたき起こされたらしい。眠たそうな声には、少なからず怒気が含まれていた。
 扉の向こうではなにやらやり取りを交わされていたが、よく聞こえない。ガチャガチャと音を立て、扉はゆっくりと開いた。

「……二人ともいるか?」

 まず、視界に入ったのは私服姿の芳川会長だった。
 芳川会長はそう声をかけながら、壁のスイッチを押す。パッと室内が明るくなり、俺は目を細めた。

「かいちょ……」
「会長お!会いたかった!超会いたかった!!」

 俺の言葉を遮るように、櫻田は叫びながらマットから飛び降り芳川会長に向かって走り出す。
 櫻田が芳川会長に抱き着こうとしたとき、芳川会長の脇から出てきた江古田は無言で櫻田の股間を蹴りあげる。
「ゔ……ッ」櫻田は悲痛な声をあげ、そのまま土の上に倒れ込んだ。思わず俺は青ざめる。
 類は友を呼ぶ。なぜだかそんな言葉が脳裏を過った。

「おっ……覚えてろよ……っ」額から脂汗を滲め苦しそうに唸る櫻田は、下腹部を押さえたまま起き上がらない。

「……櫻田君が迷惑をかけたみたいでごめんなさい……」

 江古田は縫いぐるみを抱き締めたまま、俺の元に近付き軽く頭を下げる。
 本当にいい迷惑だったと言えるはずもなく、俺は「いや、大丈夫だから」と慌てて首を振った。

「とにかく、ここから出るぞ。ずっとなにも食べていないんだろう」

 土の上の櫻田を横目に、咳払いをしながら会長はそう言った。
 俺は芳川会長の言葉に頷けば、土の上の櫻田を避けながら体育倉庫から出る。
 体育倉庫の外には学年主任の教師が数人いて、「大丈夫か?」と心配そうに声を掛けてきた。それに小さく頷き返す。
 ようやく手を洗える。そのことばかり気にしていた俺は一旦体育倉庫を離れ、近くにある水場まで向かった。
 生ぬるい夜の風に吹かれ、俺は蛇口に手を伸ばす。

「軟禁だけで済んで良かったな」

 ふと背後から声が聞こえ、俺は心臓が止まりそうになる。
 溢れる水に手をつけながら、俺は首を捻って振り返った。

「……栫井」

 栫井は俺の隣に並べば、相変わらず眠たそうな瞳を俺に向けた。
 自然と肩に力が入り、俺は顔を強ばらせる。

「やっぱり阿賀松の恋人だから?」

 栫井は俺の顔を覗き込み、そんなことを口走る。
「だからそれは……」あまりにもしつこい栫井に、俺は顔をしかめながら弁解しようと口を開いた。

「だって、会長よりも阿賀松のことが好きなんだろ」

 栫井の言葉に、呆れたように俺は口をぽかんと開いた。全身から変な汗が滲み、俺は目を見開く。
 ふと、数週間前に阿賀松に迫られたときの記憶が脳裏を過った。

「……なんで」


 なんで知っているんだ。
 顔面から血の気が失せていくような、そんな寒気が走る。
 もしかして、阿賀松がそう周りに言い触らしているのだろうか。栫井は動揺を露にする俺を横目に黙り込んだ。

「水、勿体ないから」

 ぱしゃぱしゃと流れ落ちる水道水に目を向け、栫井はそう呟いた。
 指摘された俺は慌てて蛇口を捻る。水の音が止み、再び辺りが静まり返った。

「……」

 気がつけば栫井の姿は隣にはなく、ひょろひょろとした足取りで寮の方へ向かっていた。
 なんなんだ、一体。
 暗闇に紛れ込んだ栫井の背中に目を向け、眉を潜める。
 俺は小さく息をつき、芳川会長たちのいる体育倉庫に戻った。

「どこに行ってたんだ」

 体育倉庫には数人の教師の姿はなく、芳川会長と取っ組み合いをしている親衛隊二人だけがいた。急に姿を消した俺を心配してくれているのか、芳川会長はそう聞いてくる。

「いや、まあちょっと」

 手を洗ってましたなんて言ったら櫻田にまた突っかかれそうだから、俺はそう言葉を濁す。
「……」芳川会長はなにか言いたそうにしていたが、結局なにも言わずにそう頷いた。
 気まずい。数週間前の一件以来、あれから芳川会長とまともに話してない。何度か挨拶程度の会話を交えたが、それだけだ。
 普通に話し掛けてくれる芳川会長に対し、後ろめたさでいっぱいな俺。
 俺たちの間に、妙な沈黙が流れる。

「……じゃあ、行くか」
「え?」
「食堂。お腹、減ってるだろ?」

 そう小さく笑う芳川会長に、俺は頷いた。
 お腹減りすぎてもう満腹感すら感じている。

「俺も食堂行く!」

 人の会話を盗み聞きしていたのか、江古田となにやら揉めていた櫻田はそう口走る。
 同時に江古田のぬいぐるみが櫻田の顔面に投げ付けられた。投げちゃっていいのか。俺はハラハラしながら二人のやり取りに目をやる。

「……僕たちはこれで失礼します……」

 そう言ったのは江古田だった。
「てめえ」「ふざけんな」などと吠える櫻田の制服を掴みながら、江古田は会釈する。 二人の力関係がよくわからなかったが、わかりたくもないような気がしてならない。
「ああ。お疲れさま」芳川会長はそう江古田に目を向ければ、そう頷いた。
 江古田は櫻田の制服を掴んだまま、ずるずるとそれを引き摺るように体育倉庫前から立ち去る。残った俺と芳川会長は、なんとも言えない顔で去っていく二人組を見送った。

 櫻田たちと別れた俺は、芳川会長の言葉に甘えることにした。
 少しは戸惑ったが、三大欲求には逆らえない。俺たちは寮に戻り、一階の食堂へとやってきた。

「貸し切りだ」

 言いながら、芳川会長は食堂の扉を開いた。
「えっ?」一瞬芳川会長の言葉の意味がわからなくて、俺は食堂内に目を向ける。
 結構な広さのある食堂内はガラガラで、無人。本当に貸しきったのだろうか。驚きのあまりに目を丸くする俺に、芳川会長は喉を鳴らして笑う。

「冗談だ。この時間、いつもならここはもう閉まっているんだ」
「……そうなんですか」

 それもそれで凄いような気がする。サラリという芳川会長に、俺は呆気取られたまま頷いた。
 俺一人のために開けられている食堂に入るのは普通に戸惑う。この食堂が一番賑わっているところを知っているせいか、なんだか変な感じだ。

「なにをしている。入らないのか?」
「す、すみません。……ちょっとびっくりしちゃって」

 芳川会長は、扉の前で固まる俺を不思議そうに眺めながら声をかけてくる。
 俺はそう謝りながら、食堂内に足を踏み入れた。
 しんと静まり返った食堂に、俺は薄気味悪さすら覚える。
「そうか」芳川会長は俺の言葉に小さく笑い、中央に並ぶ席に腰を下ろした。後を追うように、俺は芳川会長の向かい側の席に腰を下ろす。

「なにが食べたい?」

 芳川会長は俺の手前にメニュー表を置きながらそう聞いてくる。
 食べられるのならなんでもいい。そう言いたかったが、それじゃあ料理人が困るだけだ。俺はメニュー表を手に取りながら唸る。

「じゃあ、カレーで」

 俺はパッと目に入ったカレーを頼むことにする。
 まあ定番だよな。俺はメニュー表を閉じ、元あった場所に戻す。

「カレーか?辛口がいいか」
「……甘口がいいです」

「わかった」芳川会長はそういって椅子から立ち上がる。
 どうやら俺の代わりに注文してくれるそうだ。「自分でします」そういい立ち上がるが、構わず芳川会長はそのままいってしまう。諦めた俺は、椅子に座って芳川会長が戻ってくるのを待つことにした。

「すぐできるそうだ」

 芳川会長はすぐに戻ってきた。
 言いながら、俺の向かい側の席に腰をかける芳川会長。

「あ……あの、ありがとうございます」

 俺はそう小さく頭を下げた。そんな俺に、芳川会長は「どういたしまして」と微笑む。
 いつも通りの芳川会長を前に、恐縮しきった俺はなにを話せばいいかわからなくなり俯く。
 話したいことは沢山あるのに。こういうとき、自分の性格を怨んでしまう。

「……なんか、迷惑かけてすみませんでした」
「……なにがだ?」

 なにか話さなきゃ。そう思って口から出てきたのは謝罪の言葉だった。
 メニュー表の端を弄っていた芳川会長は俺に目を向け、白々しく笑う。

「……君は悪くないんだから、謝らなくていい」

 芳川会長はそう静かに続けた。
「……ありがとうございます」今日何度目かのお礼を口にする俺。
 それもそうだな。なんて納得してしまう自分が恥ずかしい半面、芳川会長の言葉は素直に嬉しかったりする。

「お礼なら、俺より江古田というあの生徒に言うんだな」

 しんみりとする俺に、芳川会長はそう続けた。
「江古田君?」ふと暗い表情の江古田が脳裏を過る。芳川会長は俺の言葉に頷いた。

「あいつと生徒が揉めているのをたまたま見つけて、話を聞いたら旧体育倉庫に生徒を閉じ込めただとかなんとかって」

「江古田君がいなかったら、万が一の可能性もあるからな」芳川会長は苦虫を噛み潰したような顔でそう続ける。
 江古田と揉めていた生徒とは恐らく親衛隊の人だろう。
「そうなんですか」芳川会長の言葉に青ざめながら、俺は改めて自分の運のよさを実感した。
 いや、体育倉庫に閉じ込められた時点で運も糞もないかもしれない。

「今度会ったらお礼言います」
「ああ、それがいい」

 頷く芳川会長。一頻り話し終えたところで、タイミングを伺っていたウェイターがやってくる。
 ウェイターは、テーブルの上に数枚の皿を置いた。
 そのうちの一枚は俺が頼んだカレーの大皿で、もう一枚はショートケーキが乗った小皿。
 ……ショートケーキ?

「……あの」

 なんか注文した覚えがないのがあるんですけど。俺がウェイターに目を向けると、芳川会長は小皿を手にとった。どうやら、ケーキは芳川会長が頼んだもののようだ。
 俺はホッとしながら、スプーンを手にとる。ウェイターに声をかけなくてよかった。小さなフォークを手にした芳川会長に目をやりながら、俺は小さく笑う。

「……なに笑っているんだ」
「な、なんでもないです」

 俺の視線に気付いたのか、芳川会長は少し恥ずかしそうに眉を潜めた。
 そう言えば、芳川会長は甘いものが好きだったっけ。
 思いながら、俺はスプーンでカレーを掬いそれを口に含めた。

「そういえば、櫻田君とケーキバイキングに行ったんですか?」

 ふと親衛隊の言葉を思い出した俺は、芳川会長にそのことを聞いてみることにした。
 口へケーキを運ぼうとしていた芳川会長は、顔を強張らせる。
 どうやら、芳川会長はそのことに触れてほしくなかったようだ。
「誰に聞いたんだ」小皿の上にケーキを置きながら、芳川会長は小さく溜め息をつく。

「えっと……芳川会長の親衛隊の人に……」

 明らかに機嫌が悪くなった芳川会長に、俺は語尾を濁した。
 自分の無神経さには熟呆れさせられる。呆れたところで、どうにもならないのだが。

「別に、そこまで言うようなことじゃない。生徒会のやつらと行っただけで、櫻田はそれについてきただけだ」

 芳川会長はどこかムキになったように語尾を強くした。やっぱり怒らせたのかもしれない。
「余計なこと聞いちゃってすみません」俺は慌てて謝った。

「……いや、俺の方こそ悪かった」

 謝る俺に、芳川会長はグラスに口をつけ中の水を飲み干す。
 声を荒げてしまったことを気にしているのか、その顔はどこか気まずそうだった。

「親衛隊だなんて、俺は認めた覚えはないんだけどな」

 俺はカレーを食べながら、芳川会長に目を向ける。芳川会長は目を伏せ、静かに呟いた。
 俺はなにか言おうとするが、なにを言えばいいのか良い言葉が見つからず押し黙る。
 芳川会長は親衛隊が嫌いなのだろうか。到底、好きなようにも見えない。

「なにもされなかったか?」

 芳川会長は、いいながら俺に目を向けた。いきなり話題を振られ、俺はカレーを喉に詰まらせる。焦ってグラスの水を流し込み、ようやく落ち着いた俺は「はい」と頷いた。
 ふと櫻田との行為を思い出し耳が熱くなるが、あれはいい。もう忘れよう。

「ならいい。怪我がなくて本当によかった」

 芳川会長はそう言いながら、さっきまで強張っていた頬を緩ませた。
 どうやら心配してくれていたようだ。胸がじんわりと熱くなる。

 カレーを完食した俺は「ごちそうさまでした」と手をあわせる。

「足りたか?」
「丁度いいくらいです」

 同じく、ケーキを平らげた芳川会長はフォークを小皿の上に置く。
 本当は少し物足りなかったが、腹八分という言葉があるしそういう意味じゃ丁度いいくらいだ。俺の言葉に、芳川会長は頷く。

「あ、俺、皿持っていきます」

 芳川会長が腰を浮かそうとして、俺は慌てて立ち上がった。
 なにからなにまで面倒見てもらっては顔が立たない。
 芳川会長にいい所を見せたいというのが本音だったりする。

「いいのか?」
「はい」

 ガタガタと椅子を引く俺を驚いたように見詰めれば、「なら頼む」と小さく笑った。
 俺は小皿に大皿、二杯のグラスを重ねそれを持ち上げる。予想していたよりずっしりと重い。俺は転ばないように気を付けながら、会長のいるテーブルから離れる。
 厨房目指してよろよろと歩いていると、運悪く出っ張った一脚の椅子に爪先を引っ掻けた。

「うわ……」

 いやな浮遊感に、背筋が凍りつく。
 一番上に乗せていたグラスを筆頭に、もっていた皿が手から離れていく瞬間がスローモーションで再生される。
 やばいやばいやばい。
 転倒しながら、俺は慌てて皿に手を伸ばそうとした。が、背後から伸びてきた手に腕を強く掴まれそれは叶わぬ夢となる。鼓膜を裂くような鋭い音に、思わず俺は目を細めた。

「大丈夫か?」

 耳元で芳川会長の声がして、ハッと俺は青ざめた。
 床の上に散乱する破片。
「どうかしましたか」いまの音を聞いてか、厨房からウェイターがやってきた。

「す、すみません。俺……っ」

 俺は慌てて破片を片付けようとするが、「大丈夫ですから」とウェイターに断られる。

「大丈夫か」

 腕を掴んだまま、芳川会長は心配そうな顔をして俺の顔を覗き込んだ。
「俺は大丈夫です」自分の反射神経のなさに落ち込みながら、俺はそう答える。
 良い所を見せるどころか、相手に心配されてしまうなんてあまりにも情けない。
「後は自分がしますので」そういうウェイターに、芳川会長は無言で頷く。

「齋籐君」

 芳川会長に宥められるように肩を叩かれる。
「そろそろ出ようか」片付けているウェイターを眺めている俺に、芳川会長はそう呟いた。
 本当にいいのだろうか。戸惑ってはみるが、これ以上ここにいてもなにかできるわけじゃないのは自分がよくわかっていた。俺はチラリと床の破片に目を向け、小さく頷く。
 こういうのもウェイターの仕事だってわかっているが、やはり良心が痛んだ。俺たちはそのまま食堂を後にする。

 食堂を出た俺は、あまりの後味の悪さに終始黙り込んでいた。

「皿割ったくらいでそこまで落ち込むものなのか?」

 芳川会長は、可笑しそうに笑いながら俺に目をやる。
「お、落ち込んでるわけじゃ」俺は芳川会長に笑われ、しどろもどろと口にした。

「俺なんか、割った皿を自慢してたぞ」

 そんなことをいう芳川会長に、俺は目を丸くする。
「……そうなんですか?」あまりにも会長のイメージと噛み合わない証言に、俺は疑いの目を芳川会長に向けた。

「本当だ」

「だからそんなに気にするな」芳川会長はそう続け、歩き出す。
 もしかして、慰めてくれているのだろうか。
 俺は慌てて芳川会長の跡を追いながら、そんな都合のいい思考を働かせた。

「そうだ。部屋まで送っていこうか」

 ふと、思い付いたように芳川会長は足を止め俺に声をかける。つられて足を止めた俺は、「大丈夫です」と首を横に振った。
 放課後ほどはないが、それでも一階のショッピングモールは多くの生徒で盛り上がっている。
 芳川会長と一緒にいるのは居心地がいいが、やはり軟禁されてまで一緒にいるのは無理だ。芳川会長に対して申し訳なく感じた俺は目を逸らす。

「じゃあ、エレベーターまでならいいだろ?さっきのことがあったばかりだからな、あまり一人にさせたくないんだ」

 わざわざ気を遣ってくれる芳川会長に、戸惑う俺は悩んだ末「じゃあ……」と首を縦に振った。
 俺と芳川会長は、エレベーター目指して長い廊下を歩く。
 機内が小さく揺れ、エレベーターは止まった。

「……今日は、色々ありがとうございました」

 エレベーターの扉が開く。
 畏まる俺に芳川会長は戸惑うが、すぐに笑みを作った。

「疲れただろう。ゆっくり休みなさい」

 そう笑う芳川会長につられて、俺は口許を綻ばせた。
「はい」俺はそう頷けば、エレベーターを降りる。振り返ったと同時に閉まる扉。名残惜しかったが、エレベーターまででいいっていったのは自分だ。
 俺はエレベーターの扉に背中を向け、自室に向かって歩き出す。

 結局、いまが何時かはわからなかったがもしかしたら思ったよりも経っていないのかもしれない。
 静かな廊下を歩きながら、ふとそんなことを思った。暫く歩いていると、いきなり天井の電灯が消える。

「……っ」

 ビクリと足を止め、俺は電灯に目を向けた。
 なんなんだいきなり。全身に寒気が走る。もしかして、丁度消灯時間に入ったのだろうか。いやそうじゃないと困る。だとしたら、いまは十一時か。
 気を紛らすように矢継ぎ早に思考を働かせる。こんなことなら、芳川会長についてきてもらったらよかった。素直にそう思った。

 333号室前。
 無事、自室へと戻ってこれることができた。というより戻れなかったら戻れなかったで問題なのだけれど。
 薄暗い廊下を歩き、333号室の扉へと向かう。すると、自室の扉がガチャリと音を立てて開いた。

「あ……」

 びっくりした俺は、思わず足を止める。扉から出てきたのは阿佐美だった。
 キョロキョロと廊下を見渡す阿佐美は、そこに俺の姿を見つけ驚いたような顔をする。

「佑樹君……?」
「……こ、こんばんは」

 恐る恐る俺の名前を呼ぶ阿佐美に、俺は取り敢えず挨拶をしておいた。
 阿佐美は困ったような顔をして、手に持っていたなにかを背後に隠す。
 様子がおかしい。動揺する阿佐美に、俺はふと第六感が働くのを感じた。

「詩織、どこか行くの?」
「え、あ、……うん」

 俺は阿佐美に近付く。阿佐美は妙にそわそわしながら、俺を避けるように廊下に出た。
 どうやら俺は人を問い詰める素質がないようだ。

「あんまり遅くならないようにね」

 口ごもる阿佐美に、これ以上聞き出すのは無理だと感じた俺は黙って阿佐美を見送ることにする。
「わかった」阿佐美はほっと胸を撫で下ろすと、そのまま薄暗い廊下の奥へと進んでいった。
 どうやら阿佐美が隠し持っていたのは紙袋らしい。
 なにが入っているんだ。阿佐美の手にぶら下がるそれを一瞥し、俺は首を捻りながら部屋の中に入った。

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