天国か地獄


 31※

 正攻法では無理だと分かってる。けれど、阿賀松に頼るなんて。
 阿佐美に頼ることすら申し訳ないというのに、けれど、そんなことを言ってる場合ではないということか。
 けれど。

「……」

 阿賀松の拳の感触を思い出すだけで、全身が凍りつくようだった。
 縁に直接手を出してはならないということだろうか。
 五味は詳しくは言ってなかったが、あの口振りだとそういう感じがしなくもない。

 結局戻ってきた縁の部屋の前。
 やっぱり、出直した方がいいのだろうか。変に落ち着いてしまった御陰で頭に血に昇って恐ろしいことを考えていた自分が怖くなったが、志摩のことを考えるとこのまま大人しくしてるということも出来なくて。
 どうしよう、と迷いながらも縁の部屋の扉を監視しているときだった。
 縁の部屋の扉が開いた。

「……ッ!」

 思わず声を上げてしまいそうになるのを堪え、俺は慌てて体勢を立て直す。
 縁は電話をしているようだった。
 携帯端末を片手に歩いてる縁は上機嫌で、その会話は廊下によく響いた。

「おー、今から出るから。はいはい、飛ばしたらいいんだろ。お前だって早く来いよー、いつも遅れるじゃんかよ」

 相手が誰なのか分からないが、出るということは外での待ち合わせになるということだろうし……もしかして阿賀松だろうか。
 あまりにも馴れ馴れしいというか親しげな縁の態度に気に掛かり、ほんの僅かに、気持ちが逸ってしまったようだ。俺の靴音が響き、縁が動きを止める。
 気付かれたか、と、慌てて壁を背に隠れたときだった。

「何やってんだ?」

 すぐ、耳の裏から聞こえてきた低い声。
 どこかで聞き覚えのあるその声に、咄嗟に振り返ろうとしたときだった。頭を掴まれ、思いっきり壁に叩き付けられる。
 大きく揺さぶられる脳味噌に、視界がぐらりと揺れる。
 まともに受け身も取れずにそのまま通路に倒れ込んだときだった。
 伸びてきた手に胸倉を掴まれ、無理矢理立たされた。

「っ、ぐ、ぅ」
「コソコソコソコソと、今度は盗み聞きか?流石こそ泥らしいじゃねえか」
「、ぁ……ッ」

 八木が、そこにいた。
 汚物でも見るかのような冷え切ったその目に、冷水をぶっかけられたかのうな衝撃が襲う。
 なんで八木がここに、と思うよりも先に、逃げなければ、と本能が叫ぶ。
 縺れる足を必死に動かし、八木の手から逃れようとするも、頭を殴られたのは大きかったようだ。

「逃がすかよッ!」
「ぅわっ!」

 簡単に転ばされ、そのまま通路のど真ん中で転倒する。
 慌てて体勢を取り直そうとするも、背中を踏み付けられれば背骨が軋むような音を立て、胃液が上がってくる。
 呻く俺に構わず、八木は俺の上に座り込んだ。
 そして、髪を掴まれ、無理矢理顔を上げさせられる。

「会いたかったぜ、齋藤。……よくも人の面に泥を塗りやがったなぁ」
「っ、八木、先輩……」
「気安く名前を呼ぶんじゃねえよッ」
「っ、がァ!」

 そのまま後頭部を殴られれば、その反動で床に顔面を強打してしまい、顔面の中心転倒……鼻の辺りがじんじんと痺れるような、焼けるような痛みが走った。
 迂闊だった。気を抜いてはダメだと分かっていたはずなのに、背後を取られるなんて。

「縁さん、こいつ縁さんの後付けてましたよ」

 呻く俺の視界に、運動靴が見えた。
 八木のものではない、別の足が、二本。
 縁さん、という固有名詞につられ、恐る恐る顔を上げれば、そこには。

「あれぇ、奇遇だね。こんなところで何してんの?君」

 そう、シラ切ったような顔をして尋ねてくる縁にどくりと心臓が弾む。
 通話を終えたのか、携帯端末はもう既にその手にはなかった。

 やばい、やばいやばいやばいやばい。
 こんなところ、よりによって縁に見られるなんて。
 ポケットの中のカッターナイフの存在を思い出す。けれど、駄目だ、それは出来ない。二対一はあまりにも分が悪すぎる。奇襲に失敗して志摩に何かがあれば俺はあいつに顔向けが出来なくなる。
 鼻血が垂れるのを感じながら、俺は口を開いた。

「たまたまっ、たまたま通り掛かっただけなんです!……盗み聞き、するつもりなんかなくて……その……っ」

 ごめんなさい、と死にたくなる衝動を堪えて、縁に頭を下げる。土下座すらできない、無様な体勢で。
 けれど、縁は怒るわけでもなく、いつもと変わらないニコニコとした笑顔で俺の言葉を聞いてくれた。

「うんうん、そっかぁ、齋藤君は俺のことが気になって仕方ないんだねぇ」
「縁さん、こいつどうしますか」
「八木、確かお前齋藤君に会いたいって言ってたよな」
「確かに言いましたけど」
「なら、好きにしていいよ」

「は?」という八木と俺の声は確かに重なった。
 そんな俺達に構わず、なんでもないように、当たり前のように、縁は続ける。

「その代わり、伊織には秘密にしておいてあげて?」

 俺に恩を着せるつもりか、それとも、八木を言いくるめるためか。どちらにせよ、縁が企んでることは一目瞭然で。
 逃げる暇も、選択肢も、俺には与えられなかった。
 カッターナイフを出そうとすれば出せた。
 誘うと思えば、刺せた。けれど、そうしなかったのは八木の前髪の下、切り傷を見つけてしまったからだろう。

「ぃ、つ……っ」

 近くの男子便所に押し込まれたと思えば、首を締められる。息が出来なくて藻掻いている間にシャツを引っ張られ、ボタンを繋げていた糸が千切れる音を聞いた。

「やめ……」
「殺されねぇだけましだと思えよ」

 確かに、そうかもしれない。そんな風に思ってしまう程俺は思い詰めていたのかもしれない。
 これは、俺の、したことだ。因果応報とはよく言ったもので、それでも、こうしてる間に志摩が一人でいると思うと居ても立ってもいられなくて、八木の腕を掴み、もみくちゃに抵抗すれば剥き出しになった腹部を思いっきり殴られ、口の中に溜まっていた涎が溢れた。 

 それからはもう、痛みと息苦しさで記憶が曖昧だった。
 食い込む指の感触に熱い息、気持ちいいとか悪いとかそんなことを考える余裕もなくて、朦朧とする意識の中、自分の声でハッとする。

「ぁ、あ゛ぁ、あッ」
「……っ、うるせぇな、声出すんじゃねえ!」

 体内から押し広げられるような痛みに臓物が破裂するような程の衝撃が走り、堪らず声を上げる俺に八木に口に指を噛まされる。

「っ、ぅ゛、うぅぅ……ッ!!」

 八木の性器が入ってきているのだと、繋がった下半身を見て理解したがそれでも受け入れることとは別だ。
 苦しくて、痛くて。志摩、と声にならない声を上げるが、口の中の指にその呼び掛けすら掻き消される。

 因果応報、ならば、これは俺の罰か。
 カッターナイフを取り出そうとしても、指先に力が入らない。臓器を掻き混ぜるようなピストン、濃厚な血の匂いを嗅いでる内に頭の中は靄がかったように白くなり、視界が霞む。

「平佑も誑かしたのかよ、こうやって……ッ!伊織さんを陥れるために……ッ」

 体の痛みならいくらでも堪えられると思っていた。けれど、恨めしそうな八木の声に、胸が張り裂けるような痛みに襲われる。
 八木は、俺のせいで阿賀松との信頼関係を失った。

「っ、ぅ、っぐ、ぅう……っ!」
「クソ……ッ、お前みてーな卑怯なやつのせいでめちゃくちゃにされたと思ったら余計、伊織さんに顔向け出来ねぇ……っ」

 殺意と呼ぶには俺に向けられるそれよりも、阿賀松に対する謝罪が強く、遠退く意識の中、悔しそうな八木の声を聞いていた。
 阿賀松のために、阿賀松を助けたくて動いていた八木。そんな八木の良心を利用したんだ。
 他人からぶち撒けられる負の感情はあまりにも俺には堪えられるものではなく、正気でいられる方が難しかった。
 俺の体を押さえつけるこの人を、俺は、ダメにしたのだ。
 その事実は揺るがぬもので、ぼんやりとそんなことを考えながら俺は、八木を引き離そうと掴んでいた腕を離した。

 ◆ ◆ ◆

 どれ程気を失っていたのだろうか。
 気が付けば便所の床の上で眠っていたようで、起き上がろうとするにも指一本動かすことも出来ない程疲弊していた。

 まだ自分が起きているのか眠っているのかすら分からない朧気な意識の中、遠くから声が聞こえてくる。

『お前、飯まだなんだろ?食ってこいよ、俺、見といてやるから』
『すみません、帰ってきたばっかなのに』
『いいよいいよ、むしろ役得ってね』

 この声は……八木と、縁?
 会話は途切れ、その代わり、床を叩くような軽快な足音が近付いてくる。起きなくては、と脳から命令を出せば辛うじて起き上がることに成功する。
 そして、

「やぁ、齋藤君。ありゃ、随分と激しかったみたいだねぇ」

 現れた縁に、俺は、ポケットから取り出したカッターナイフを突きつけた。
 真正面、目先に突き付けられた刃先を前に、縁の笑顔は相変わらず崩れない。俺も、自分の行動に驚いた。けれど、ダメだった。考える気力すら残されていない今、防衛本能に従うことしか出来ない俺はこうすることしか出来なくて。

「……何これ?まさかこれで、俺を殺すつもり?」

 細く、開かれた目はゆっくりとカッターナイフに向けられる。
 刺せ、その目玉に突き刺してやれ、脳裏で自分の声が響く。
 けれど、その声に従うことができなかったのは、縁に手首を掴まれたからだ。
 包み込むように、絡めるように指を這わせる縁に、寒気が走る。縁は相変わらず笑顔を崩さない。

「別に俺に対して怒るのは構わないんだけど、あいつを裏切ったのは君だろ、齋藤君。そこに俺はなんの関与もしてないのは事実だしね、もしもこんな扱いを受けたのを俺のせいだと思うんならお門違いもいいところだな」
「……っ、わかってます、そんなこと……全部、全部、俺のせいです」
「そうだね、君のせいだ。八木、あいつは乱暴者だし馬鹿だけど真面目だよ。そんな八木を怒らせたってことは少なからず君のことを信じてたんだ」
「……ッ、わかってます……」

 呪縛か何かのように、縁の声は、言葉は、俺の耳にねっとりと絡みつく。
 分かっている全て、けれど、それとこれとは別だ。
 俺は八木を恨んでるわけではない。寧ろ、後ろめたさすらある。
 そんな俺の気持ちを汲んだのか、縁は俺の指を掴み、引っ張った。全身が強張る。

「俺なら、可愛い後輩に裏切られちゃったらこれだけで済まないけどなぁ……あいつは優しいから、俺と違って」
「……ッ」
「どうしてこれを使って八木を刺さなかった?」

 ぐ、とあらぬ方向に曲げられる指を、俺は力づくで振り払う。そして、再び縁にその先端を突きつけた。

「あの人は……関係ないから」
「関係ない?伊織に加担してるということならあいつも一緒だろ」
「八木先輩を刺したところで志摩は助けられない」

 今度は、その白い首筋に刃先を押し付ける。
 突き刺さる寸でのところで縁は俺の手を掴んだが、その拍子に手首の焦点が振れ、皮膚に先端が掠める。
 縁の首筋から赤い血が溢れ出した。

「本当……齋藤君、亮太のこと好きなんだね」
「……」

 やめてくれ、と助けを乞うような人とは初めから思っていない。けれど、この余裕の表情を崩してやりたかった、というのが本音だった。
 けれど、縁の態度は相変わらずのもので、突き付けられたナイフも流れる血もなかったみたいにいつもの調子で続けるのだ。

「そう言えば、約束、守ってなかったね」
「……よくこんな状況でのうのうと」
「俺は、約束を守る男だから。ほら、あれだ、伊織と俺の馴れ初めを話してやるって話だっただろ」
「時間稼ぎはやめてください」
「やだなぁ、時間稼ぎだなんてそんな無粋な真似、俺はしないよ。こんなことして稼げる時間なんてたかが知れてるしそれに、君は俺と伊織の馴れ初めもそんなことだと思ってるしね」
「……」
「聞く聞かないは置いておいてさ、もしかしたら俺の話すことによって伊織の弱味を握ることが出来るかもしれない。そう考えたら有意義だと……」

 堪えられなかった。何に堪えられなかったのか自分でも分からなかったが、縁の態度が癪だったのだ。
 怯えもしない、そのくせ今だに自分が優位に立っていると思っている縁を見てると怒りが込み上げてきて、気付けば俺は片方の手で縁を殴り付けていた。
 避けることもせず、もろそれを受けた縁は首を動かし、頬を抑える。

「いっ、たたた……」
「有意義かどうかは俺が決めます。……少なくとも、貴方の言葉は俺にとって害悪でしかない」
「……激しいなぁ、齋藤君。そんな殴り方じゃ、君の指を痛めてしまうよ」

 俺はもう一度拳を造り、縁を殴り付けていた。
 赤くなる頬、拍子に鼻の血管が切れてしまったのか鼻からは血が垂れている。
 ほれでも、縁は楽しそうに笑うのだ。

「あは、ははは……っ!君、人を殴るのは初めて?すごく汗掻いてるね」

 三発目、四発目、と俺は縁を殴った。
 縁の指摘は、当たっていた。俺はこうしてグーで人を殴ったことがない。
 震える拳を硬め、とにかく顔を殴ることに必死だった。ここまで来たらもう後に退けない、そう分かっていたからだ。
 五発目、反動で縁の体が壁に当たった。骨と壁がぶつかるような鈍い音とともに、「あー……」と気怠げな声を上げた縁は、腫れ始めた瞼の奥、その目を俺に向けてくる。

「齋藤君、俺を殺すつもりがないならあまり後頭部が当たらないところにしてほしいな。……脳震盪起こして死んじゃったら君の経歴にも傷が」

 ついちゃうよ、と縁が言い終わる前に俺は六発目の拳をその目元に叩き込んでいた。
 その時だった。伸びてきた手に、手首を掴まれ、思いっきり引き寄せられる。

「……人の話は最後まで聞けって習わなかったか?」

 底冷えするような冷たい声、その目の色が変わったことに気付いたときにはもう遅くて、慌てて縁から離れようと無茶苦茶にカッターナイフを振り回したが、縁は自ら刃先を掴み、俺の動きを止めた。肉が刺さるような感触とともに、カッターナイフと縁の掌が真っ赤に染まっていく。
 一瞬の出来事だった。自分から刺されにいくとは思わなくて思わず思考停止する俺。
 縁はその隙を見過ごさなかった。
 カッターナイフを掌からもぎ取られ、次の瞬間、顎が外れるような衝撃が脳天に突き刺さる。

「……君が必死に俺を殺してくれようとするから我慢してたけどあんまりだろ……齋藤君」
「ッ、ぅ、が」

 全身の筋肉が切れたみたいに、ずるりと倒れた体は動かなくなる。
 起きなければ、早く、と思うのに体は言う事を効かなくて、そんな俺に馬乗りになった縁は笑った。

「まだだよ」

 そう言って、拳から軽く突き出した中指。
 あ、と思った時には遅く、思いっきりこめかみを殴られた瞬間、脳味噌を直接抉られるような感触と共に目の前が真っ暗になる。
 痙攣を起こす半身を抑え込まれ、目の前覆いかぶさってくる縁の表情が一瞬、ぐにゃりと歪んだ。

「っ、ぁ……」
「殺すんなら、もっと本気でしてくれないとさぁ……ガキの喧嘩じゃないんだから」

 赤く染まった掌を舐め、笑う縁の声は俺の耳には届かなかった。
 噎せ返る程の血の匂いと、鉄の味。
 殴られた拍子に口の中が切れたのだろう、じわりと広がるその味に意識が遠くなる。

「何寝てんの?」

 次の瞬間、頬を殴られる。
 焼けるような激痛とともに支えを失った体は床に投げ出された。

「ッ、は、ぁ」
「起きろよ、齋藤君」

 問答無用で伸びてきた手に胸倉を掴まれ、起こされる。
 拍子に口の中に溜まった血が溢れ、縁はアザだらけの顔で歪に笑った。
 そして、俺の頬を掴み、大きく寄せた。
 至近距離、お互いの顔が近付く。食い込む指先からは逃れられなくて、狭くなる視界の中縁から目を逸らすことが出来なかった。

「あ、が……ッ」
「ほら、さっきまでの威勢はどうしたんだよ。俺と遊んでくれるんだろ?」

 カチカチカチ、と縁の手元から軽やかな音が聞こえてきて、血の気が引く。
「早く起きないと刺しちゃうよ」なんて、冗談めいた口調で俺の目の縁を刃の面で撫でる縁に、血の気が引いた。
 手元にあるだけで心強かったそれが縁の手に渡ったというだけで、俺にとっては最悪以外の何者でもなくて。

「これを持ち出したってことは君、これを遣われても文句はないってことでいいんだよね」

 ひんやりとした金属の感触。縁が手を滑らせれば眼球に傷が入ると思えば、それだけで生きた心地がしなかった。
 確かに、縁に逆に襲われる可能性を考えなかったわけではない。それでも、やはり。
 縁の手首を思いっきり殴った瞬間、俺は目を瞑り、首を捻って顔を逸らした。
 タイルの上に落ちるカッターナイフ。
 縁の舌打ちが聞こえた次の瞬間、思いっきり顔面を殴られる。
 一瞬、鼻が折れたんじゃないかと思うほどだったが、刺すような痛みとともに大量の鼻血がぼたぼたと溢れ、顔半分を汚し始めた。

「……く、ぅ……ッ」
「やめときなって、君は俺には敵わないよ。俺も、人殺しなんてしたくないしね」

 白いシャツに無数の赤い水滴が落ちる。
 頭の奥が痛み、目眩を覚えた。
 痛みには慣れていたつもりだった。けれど、今のは、少し強烈だった。頭がクラクラして、縁の声がくぐもって聞こえる。
 落ちたカッターナイフを拾う縁を見ることしかできない俺に、それを手にした縁は俺の前髪を掴み、無理矢理上を向かせた。

「けど、お仕置きはしないといけないからさ」

 そう、腫れ始めた顔面を動かし、楽しそうに笑った。

「チンポに俺の名前彫られんのと、ケツの穴にカッターの刃突っ込まれるのどっちがいい?」

 乾いた声。
 想像するのも嫌なその言葉に堪らず顔を顰めれば、「ああ、そうか」と縁は何かを思い出したように薄く目を開いた。

「君は亮太の骨砕いてやっだ方がいいんだっけ」

 ドクリ、大きく脈打つ心臓。
 気が付けば、俺は縁の胸倉を掴んでいて、先程まであれ程動かなかったくせにちゃんと機能していようだ。縁はそんな俺に狼狽えるわけでも笑うわけでもなく、ただじっとこちらを見下ろしていて。

「志摩は、関係ない。お願いだから、志摩には、何も……」
「それが人に物を頼む言い方かな」
「……ッ、お願い、します」
「それなら、君は俺に何をしてくれるわけ?」
「……何って」
「まさか、君の『お願い』だけで見過ごしてくれなんてそんなゲロみたいに甘いこと言わないよね」

 見返りを求める縁に、俺は考えた。どうしたら縁が満足するのか。けれど、どう考えても縁を満足させる考えが浮かばなくて、それ以前に俺の頭はまともに機能していなかったのかもしれない。物事を長い目で、冷静に見ることが出来なくなっていたのだ。
 俺に残された道が残り少ないだけ、それも無理もない。とどのつまり、俺はヤケになっていた。
 だから、俺は縁から手を離し、タイルの上に両手を着いた。
 ひんやりとした固い感触。
 俯けば、ポタポタとシャツと同じような赤い水滴が滴り落ちた。

「……ッ、なんでも、します……だから……ッ」

 俺は、頭を下げた。額がタイルにつくほど擦り付け、汚いだとか、誰が通ったかも分からない場所なのにとか、そんなこともお構いなしに土下座をする。
 許してください、と言う言葉は口に出なかった。
 許してもらえるはずがないと分かっていたからだ、それでもせめて、志摩に危害を咥えられなければよかった。
 だから、俺は、縁の言葉に耳を疑った。

「分かった。亮太を開放してあげるよ」

 そう、何でもないように。
 いつもと変わらない調子で縁は言ってのけたのだ。
 散々俺を脅してきていた縁がそんなことするはずがない、騙してるのだろう、そう猜疑する俺に縁は付け足した。

「ああ、勿論、君が勝てたらだけど」

 言うなり、制服のポケットから出した鍵を俺の目の前に突き出した縁。
 持ち主には似つかわしくない、愛らしい動物モチーフのキャラクターのキーホルダーがついたそれに一瞬、息が止まりそうになった。

「ここに、俺の部屋の鍵がある。これを使って扉を開けばそこに亮太が待ってるよ」

 これで、部屋が、と手を伸ばしかけた時、縁はそれをひょいとポケットに仕舞う。
 そして、片方の手で俺の手を握りしめた。

「けれど、君が負けた時は俺のものになってよ」
「何、言って」
「ああ、冗談じゃないから。俺は本気だよ。ずっと言ってるじゃん、俺、君のこと好きなんだって。だから、学校辞めて俺の身の回りの世話とかそういうのしてほしいんだけど」
「ふざけ……」
「本気だっつってんだろ」

 ふざけないで下さい、と言い終わるよりも先に掴まれた手首を捻り上げられる。
 振り払おうとした矢先、カッターナイフを握った縁の指が近付いてきて、瞬間、掌に焼けるような痛みが走る。
 一瞬、何が起こったのか分からなかった。
 生命線をなぞるように滲む赤い血は掌に水溜りを造り、そして手首へと流れ落ちる。
 止めなければ、と青ざめるほどの出血量に焦る俺に、縁は「これでお揃いだね」と笑った。
 瞬間、背筋が凍り付く。
 仕返し、ということなのだろう。そんなことをあっけらかんとした調子でしてのける縁に俺は言葉を失った。

「君が勝ったら好きにすればいいし、約束通り伊織のことも俺がなんとかしてあげるよ」

 縁の目はちっとも笑っていなかった。
 この人、本気だ。本気で言ってるんだ。

「制限時間は日付が変わるまで。それまでに俺を掴まえられたら君の勝ちってことでいいよ。ま、掴まえるっていうのは曖昧だから触れられたらでもいいかな。俺はこの学園の敷地内のどこかにいるよ。だから、それまでに俺を捕まえてごらん」

 敷地内、といってもこのバカ広い学園の敷地となると全部を回るだけでも大層な時間になるかもしれない。
 それでも、俺は、そんなことでいいのかと思った。
 見つけて、触るだけでいい。
 それだけで、志摩は解放される。志摩と、また一緒にいることが出来る。
 血でぬらぬらと光る掌をズボンで拭い、俺はぎゅっと拳を握りしめた。痛んだが、逆にその痛みが俺を冷静にさせてくれたのだ。
 けれど、本当に縁は学園敷地内にいるのだろうか。この男の性格を考えると何を企んでるか分からない。
 そんな俺を見て、縁はまた笑う。

「ああ、今触ってもダメだからね。時間決めようか。今が午後六時。六時間後までに俺を捕まえきれなかったときは亮太を殺す。そして、君は俺のものになってもらうから」
「え……ッ!」
「分かりやすくてやる気出るだろう?ああ、棄権は負けを認めるということだから」

 横暴な言葉だった。
 志摩を殺す、そう躊躇いもなく口にする縁が揶揄なのか本気なのか読めなかったが、こんな状況だ。無茶を言われても仕方ないだろう。
 それに、縁を捕まえればいいのだ。

「……ッ、わかり……ました」
「ああ、楽しみだな。君が俺のケツを追い掛け回してくれるなんて……最後なんだ、楽しもうよお互い」

 励ますように、ぽんぽんと俺の肩を叩いて縁はカッターナイフを手にしたままトイレを後にした。
 今すぐにでも後を追い掛けたかった。
 けれど、腰が抜けたように下半身は動かなくて。全身が裂けるように痛んだ。

「……ッ、くそ……」

 志摩を賭けの対象にするなんて、志摩が知ったらどう罵られるだろうか。それ以前に、俺が万が一負けたりでもしたら、と思うと目の前が真っ暗になる。
 いや、悲観するのはまだ早い。
 なんとしてでも捕まえればいい。そうすれば、俺は勝ちなのだ。なんとしてでも、縁を捕まえる。
 血まみれの拳をタイルに叩き付け、俺は気合を入れ直す。

 無理やり体を動かし、立ち上がれば視界がぐらりと揺れた。縁に殴られたせいだろう、なかなか視界が安定してなくて、どうも車酔いしたみたいに自分の体がしっくりこなくて。
 それでも、縁から逃げるわけではない。俺が縁を追いかけるのだ。そう考えれば少し、気が楽だった。
 時間は、六時と言ったな。
 汚れてない方の手で携帯を取り出し、時間を確認する。十五分後、十五分後に動き出そう。
 ……それまで、少し休みたかった。
 休んでる場合ではないと思ったが今のままでは縁を見つけても触れる前に逃げられるのが目に見えていたからだ。
 俺はアラームを掛け、一先ず傷を冷やすことにする。

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