天国か地獄


 08

 逃げることなど出来ない。その阿賀松の言葉は本当だった。

「……」

 目を覚ませば見慣れない壁が視界に入る。
 殴られ、腫れた顔面は硬直し始めろくに片目を開くことは出来なかったがそれでもここが俺の知っている場所でないというのは分かった。
 確か、あのあと、阿賀松に引っ張られてどこかに連れて行かれて……それで。
 思い出すことを拒んでいるのか、記憶があやふやだった。唯一覚えていることと言えば、阿賀松が笑っていたことくらいだろうか。
 後ろ手に組まれた両腕はギチギチに拘束され、動かすことすら儘為らない。
 それでも、足を使って起き上がろうとすれば首の違和感に気付いた。
 首を動かすことも触ることも出来ないお陰でどうなっているのかわからなかったが、恐らく、首輪というやつか。動こうとすればじゃらりと音を立て、首が絞められる。

「……っ」

 これは、まずい。
 そもそも阿賀松のところに来た時点でどうなるかくらいは分かっていたけど、ここまで自由を封じられてはどうしようもない。
 声を上げようにも、切れ、血液で乾いた口の中は酷く、気持ち悪くて痛くて、うまく声が出ない。
 場所からして、ここは浴室のようだった。狭くはないそこはタイル張りで、そう遠く離れてない場所に浴槽が見えた。手入れが行き渡っている様子からして、誰かの家であることは間違いない。最初阿賀松の家かと思ったが、そう考えたら質素過ぎるのだ。
 どちらにせよ、阿賀松が私物化しているという辺りからしてろくな場所でもないのだろう。

 喉が、乾いた。気絶してどれくらい経ったのかすら分からないが、今はただ喉を潤したかった。
 壁に取り付けられた蛇口を見付け、少し躊躇ってから、取っ手を咥えて水栓を開いた。
 幸い、水道は繋がっているようで水が溢れてくる。傷が水に濡れる度に痛んだが、それを堪え、溢れる水を口に含んだ。咥内が痛む。同時に、乾きが潤され酷く全身が安堵する。口を濯いで吐き捨てれば血が混じった水がタイルを流れていく。
 それを数回繰り返し、俺は水を喉奥に押し込んだ。

「随分と美味しそうに飲むじゃねえの、そんなに喉乾いてたのか?」

「たかが三日で」不意に、水の音に混じって聞こえてきたその声に全身が硬直した。
 振り返るより先に、首に繋がった鎖を引かれ、力づくで蛇口から引き離される。
 同時に、香ってくる食欲をそそるその匂いに反応したと同時だった。

「なら、これはいらねえな」

 浴室の前、トレーを手にし佇む阿賀松はそう言って、皿の上、乗っていた料理をタイルの上に落とした。

「……っ!」

 突然の阿賀松の行動に驚くと同時に、躊躇いもない阿賀松に嫌悪に似たものを覚えずにはいられなかった。
 その前、濃くなる匂いにとうとう腹が鳴る。
 それを聞いた阿賀松は喉を鳴らして笑った。

「なぁーんだ、お前、腹減ってたのか。そうかァ、悪いことしたなぁ」
「……」
「それ、食べてもいいんだぜ」

「落ちたもの食うくらい出来るだろ、靴の裏舐められるんだから」笑う阿賀松の声が響く。
 最初から、そのつもりだったのだろう。
 腹は確かに減っていた、けれど、それでも、手を遣わずに床を舐めるように食事を取るくらいなら食わなくてもいい。

「オラ、食えよ」
「……い、です」
「あ?」
「いいです、俺は」

 食わなくともどうせ自分の腹が減るだけだ。
 そう、阿賀松から目を逸らしたとき、舌打ちが聞こえた。
 殴られるだろうか、と目を細める。と、同時にタイルの上に散らばった料理を素手で鷲掴みする阿賀松にギョッとする。

「せんぱ……っ」

 まさか、と思ったと同時に無理矢理口元に押し付けられる濡れた料理に全身が強張った。

「てめぇ、俺がわざわざ持ってきてやったのに食えねえとかふざけてんのかよ」

 口元、グチャグチャに絡みつく阿賀松の指に無理矢理口を抉じ開けられる。
 咥内へ押し込まれるそれが先程まで落ちていたものだと思ったら吐き気がして、全身粟立った。

「ん、グッ、ぅ」
「いいから食えっつってんだよ!」
「っ、ふ、ぅ、ぐ、んん……ッ」

 食べたくないのに、俺の意思とは関係なしに捻じ込まれるそれに全身が拒絶して、それすらも無視して喉奥へと流し込まれる料理に苦しくなってきて。
 いつの日かの芳川会長とのことを思い出し、胃液が込み上げてくる。
 堪えられず、ぐっと目を瞑った俺は思いっきり飲み込んだ。味わう暇なんてなかった。
 ただ、胃の中になにかが欲しくて堪らなかったはずなのに、言葉に出来ない不快感だけが残されていた。
 呼吸を整える俺の目の前、まだ落ちていた残飯を手に取った阿賀松はそれを突き付けてくる。

「ほら、まだまだあるぞ。もっと食えよ」

 無表情。躊躇いもなく口元に擦り付けてくる阿賀松に目の前が暗くなる。
 本気で、俺を人間と思っていないのだろう。それが分かったからか、屈辱よりも冷静さが勝った。
 その後、全て食べさせられた俺に阿賀松は満足そうにするわけでもなく「床も綺麗にしとけよ」だけ残して出ていった。
 阿賀松がいなくなったのを見て、俺は胃の中に無理矢理押し込められたそれを吐いた。
 胃が、喉がヒリヒリする。空腹を通り越して何も口にしたくない気分になっていたが、この状況ではそれが唯一の救いだろうか。
 阿賀松が立ち去ってからどれくらい経ったのか。阿賀松を引き止めれなかったことを早速後悔していた。

「……」

 水で喉を湿らせ、空腹を紛らわすも暫く。
 流石に水ばかり飲んでいると尿意が催してしまう。
 両手を使えない今、前は灘が居たからいいものの今は誰がいるのか分からない。そして、今回は阿賀松の懐にいるという状況だ。そう簡単に見逃してもらえると思えない。
 それでも……一か八か。

「誰か……いませんか……っ」

 思っていた以上に声が出ない。
 腹に力が入らなくて、声を出せば出すほど体が軋む。

「誰か……っ」

 何度叫んでも、声が出ない。掠れた声ばかりが浴室内に反響し、余計虚しくなる。
 結果から言えば、誰も来なかった。阿賀松もいるのかいないかすら分からない。だけど、なんの音も聞こえない。
 結局、喉を痛めただけでふりだしに戻った俺は首の鎖を眺めた。
 太いソレはちょっとやそっとじゃ千切れないだろう。それにしても、ここはなんなんだ。急ごしらえで取り付けたにしてはやけにこう、馴染んでいるというか元からそこにあったかのようなものを感じた。
 阿賀松の趣味だろうが、悪趣味極まりない。
 ぎりぎり横に寝れないよう長さを調整された鎖を一瞥し、俺は壁に凭れ掛かる。眠気もない分、この時間が辛かった。だけど、そのお陰か。
 空腹のあまり五感が研ぎ澄まされたようで、今度は扉が開く音がしっかりと聞こえた。しっかりとした足音が段々近付いてくる。
 そして、

「……」

 開く、浴室の扉。
 目玉を動かし、開いた扉へと視線を向けた俺はそのまま目を見開いた。

「っ、ゆうき君……」
「……詩織……?」

 間違いない、阿賀松とは対象的な黒い髪のその青年は阿佐美だった。
 どうして阿佐美が、と思うよりも先に、赤くなったり青くなったりする阿佐美に自分の状況を思い出す。
 目覚めた時から服を剥ぎ取られ、おまけにこの顔だ。
 阿佐美には、こんな姿見られたくない。こんな状況でもそんなこと考える余裕があるのはまだ大丈夫だということだろうか。
「ごめん」と俺は慌てて阿佐美に背中を向ける。

「……謝らないで、ゆうき君。……お願いだから」

 弱々しい阿佐美の声、気遣わせていると思ったら余計惨めになってくる。

「ゆうき君、ごめんね、遅くなって」
「……詩織は、大丈夫だったのか?」
「……なんとかね」

 微かな間と引き攣ったような笑みに、何もなかったわけじゃないというのはすぐに分かった。
 それでも、阿佐美が来てくれた。それだけでも大分、心が軽くなった。

「ご飯、食べられないんだよね。これ、ゼリー状のやつ用意してきたんだけどこれも無理そう……?」
「……今は、無理なんだ。ごめん」
「そう、なら仕方ないよね」

 阿佐美はそれ以上勧めて来なかった。
 けれど、何があったかは耳に入ってるということなのだろう。
 落ち着いていた吐き気が込み上げてくるが、阿佐美の目の前で粗相したくなくて、寸でのところで堪える。

「ゆうき君」
「詩織……ここは、どこ?俺は、いつまでここにいたらいいのかな……」
「……」

 返答を渋る阿佐美に「詩織」ともう一度その名前を呼べば、阿佐美は視線を俺から逸らした。

「ここは伊織の遊び場だよ」

「伊織が遊ぶために買い取った別荘」そう、阿佐美は静かに続けた。
 遊び場。悪趣味な響きに嫌気が差したが、そんな気がしていた俺は大して驚くことはなかった。
 それよりも。

「あいつはすぐに飽きるから、飽きたらすぐに解放してくれると思う。だから、それまでの辛抱だよ」
「……」

 阿賀松の飽き性は分かっている。けれど、その分執念深い阿賀松も見てきた俺にとってその慰めにはなんの意味もなかった。
 阿賀松の懐に入る、そのつもりだったが縛り付けられてるだけではなんの意味もない。
 どうすれば、どうすれば、と思案していた時だった。

「……ごめんね、ゆうき君」

 不意に、抱き締められる。いつものような強引さはない、俺の体を痛め付けないような、そんな包容だった。チャリ、と鎖が音を立てる。
 同時に、温かい阿佐美の体温に、全身の熱が蘇るような気がした。

「俺のせいでこんな目に合わせて」

 そうじゃない。俺は自分から選んだんだ。
 阿佐美の気遣いを逆手に取った。結果的に、目的は果たせている。
 なのに、苦しそうな阿佐美の顔を見てると胸の奥がズキズキと痛んだ。

「……詩織、俺は大丈夫だから」

 そして、また俺は阿佐美を利用しようとしている。
 抱き返す腕もない、代わりに阿佐美の肩に擦り寄れば、流れ込んでくる阿佐美の脈が微かに加速したような気がした。

「……ゆうき君、ごめんね」

 後頭部、伸ばされた手に優しく撫でられる。
 その謝罪が何に対するものか分かるのにそう時間は掛からなかった。

「詩織」

 首の鎖に触れる阿佐美に少しだけ、期待してしまう。
 もしかしたら解放してくれないだろうか。無理だろうけど、と思った矢先、かチャリと小さな音を立て首を引っ張る感覚が無くなる。

「……え」

 元々鍵などついていなかったようだ、首輪は嵌められたままとはいえど引っ掛けられていた鎖が無くなっただけでもすごく楽になった。

「いいのか、こんな……」

 有難う、と言わなければならないのだろうが状況が状況だ。
 阿佐美の真意がわからず、恐る恐る尋ねれば阿佐美は困ったように笑った。

「……ゆうき君、俺と付き合う気はない?」

 それは突然の告白だった。突拍子もない阿佐美の言葉に言葉を失う。
 けれど、阿佐美は訂正をしない。嘘を吐いているようにも、見えない。

「つ……付き合うって、何言って」
「このままここにいたら都合が悪いんだろ」

 確かに、困る。非常に。

「そうだけど……どうしてそんな」
「俺とゆうき君が本気で付き合ったら、伊織はゆうき君を解放する。……そうすれば、君も少しは自由になれると思う」

 双子の弟である阿佐美の恋人ならば阿賀松も手を出さないということか。
 阿佐美の言葉は理解できた、けれど、阿賀松がそこまで融通が利く人間だとは思えない。阿佐美が特別でも、俺に対する敵意を完全に拭うことは出来ないだろう。

「……ゆうき君」
「どうして……詩織はそこまでしてくれるんだ」
「……」
「そんなことしたら、いくらなんでも詩織も、先輩に何を言われるか……」

 微かに、阿佐美の視線が動いた。言い淀む阿佐美が何かを後ろめたく感じているのは明白だった。

「詩織……」
「……俺も、あいつも同罪なんだ」
「……え?」

 ぽつりと吐き出された言葉は俺に取って予想外のもので。
 それは、阿賀松を庇ってきたことを言っているのだろうか。阿佐美の表情が翳る。

「あいつが退学になった時点で伊織は負けだよ。……それでも居座り続けるのは意地だ。あいつのためにも誰のためにもならない」

「だから、諦めさせなければならない」と、阿佐美は小さく続けた。

「だから……俺と付き合うのか?」
「あいつが君に執着しているのは知っている。元はと言えばそれも会長への固執から来たものだろうし、君はただの被害者だよ」
「……」
「これ以上、関わる必要もない」

 阿佐美の言葉が頭の中で反芻する。言われてしまえば、否定することも出来なかった。
 ただ、運が悪かった。ただ、タイミングが悪かった。
 ただ、関わってしまった。
 ただ、自ら足を踏み込んでしまった。

「俺と付き合って……詩織はどうするんだ。どうやって、先輩を止めるつもりなんだ」
「ゆうき君が気にする事じゃないよ」
「……ただの被害者だから、か?」
「……」

 なんでだろうか、阿佐美の言葉は俺の責任を軽くしてくれるもののはずなのに、重荷がなくなった胸の奥はぽっかり空いて、酷く虚しかった。
 それは既に自分が手遅れな場所まで来ているということを示しているのだろう。
 阿佐美の沈黙が余計、居た堪れなくなる。けれど、それでも、ただ逃げるのは嫌だった。

「俺は、ただの被害者じゃないよ」
「……ゆうき君」
「俺のせいで迷惑を被った人間だっているし、それは分かってるんだ、もう」
「それは会長や伊織に惑わされたからだろう」
「やめてくれ」

「全部、逃げようとしていた俺の自業自得なんだ」良くも悪くも全て結果となって降り注いできた。
 自分のものだから、だから全てを被ってきた。

「ゆうき君は考え過ぎなんだ。君は何も悪くない」

 肩を掴まれ、揺さぶられる。なんで、そんなに阿佐美は必死になるんだろうか。俺の言っていることは間違っているのだろうか。甘言だと分かっていても、阿佐美の言葉は俺を惑わす。
 求めていた優しい言葉に胸の奥が締め付けられ、酷く、息苦しかった。

「悪くないなんて、言わないでくれ……っ、だったら、俺は何のためにここまで……」

 ここまで、躍起になってるんだ。
 志摩と約束した芳川会長と阿賀松を止めるということ。そのために動いて、考えて、悩んできた。なのに、そんなことを言われたら自分の存在を否定されているようで余計辛かった。

「……っゆうき君」

 抱き締められる。鎖が解けて体は阿佐美に抱き寄せられ、強く、抱き締められた。
 なんでそんなに悲しそうな顔をするのか分からなかった。

「ごめん、俺がもっとしっかりしてたら……こんなことにならなくて済んだのに……っ」

 聞きたくない。

「後は、俺に任せてくれるだけでいいから」

 俺は、自分で決めたんだ。もう誰にも託したくない。

「ゆうき君……」

 阿賀松の血縁者である阿佐美ならば阿賀松を説得出来るだろう。
 俺と阿佐美が付き合えば全て収まるのか。なら、芳川会長のことは?志摩との約束は?栫井のことは?

「詩織は、本当に先輩を止められるのか?」
「止めてみせるよ。君があんなに頑張っていたのに、俺だけ傍観してるわけにはいかないから」
「……」
「ゆうき君……俺は無理強いするつもりはないよ。嫌ならフリでいい、それもずっとじゃなくて少しの間でいいんだ」
「俺と付き合うフリをして……詩織になんのメリットがあるの?」

 尋ねれば、阿佐美は悲しそうに目を細める。
 可哀想なものでも見るかのようなその視線は真っ直ぐに俺を捉えた。

「俺は……ゆうき君がこういう目に遭うのは耐えられない。……それだけじゃダメ、かな」

 ややこしい算段もなければ策略もない、そのままの阿佐美の言葉だった。
 なんで俺なんか、と喉元まで出かかってそれを飲み込んだ。数日前、ない頭で必死に考え抜いて出したこれからのこと。その根本も、誰かが理不尽に傷付けられないためだった。

「詩織は……お人好しだね」
「ゆうき君のお陰だよ、こんな風に他人のことを考えるようになるなんて……俺も初めてなんだ」

 濡れた髪に触れる阿佐美の指先に、全身が緊張する。けれどそれも僅かな間のことで、すぐにそれは綻んだ。

「俺は、詩織を利用するような奴だよ……それでもいいの?」
「それはお互い様だよ」

 阿佐美は俺を利用しようとしたことがあるのだろうか。
 どのことを指しているのか分からなかったが、今となってはそんなこと些細な問題だった。

「詩織、お願いだ……俺に力を貸してくれ」

 改めて、頭を下げて阿佐美に頼み込む。
 一人では何も出来ない。それは昔から変わらない。
 だけど。

「……うん、俺も、よろしくね」

 今は、こうして誰かの手を借りることが出来る。
 少しだけ恥ずかしそうに、それでも嬉しそうに笑う阿佐美にぽっかりと空いていた心の穴が埋められていくようなそんな感覚を覚えた。
 人から頼られる。
 程よいプレッシャーとその事実が何よりも俺の心を満たしてくれた。

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