天国か地獄


 05

 校舎から外れた旧体育倉庫。そこが、阿佐美に指定した場所だった。
 どこから来るか分からない今、校舎からも校門からも離れたそこへ向かうのは骨が折れた。しかし、それでも阿佐美は俺よりも先に来ていた。

 旧体育倉庫前、佇む猫背気味な背格好には見覚えがあった。

「詩織」

 その後ろ姿に声を掛ければ、影、もとい阿佐美はゆっくりとこちらを振り返った。
 無造作に切り揃えられた黒い髪、それは最後に阿佐美に会った時と変わらないもので。

「……ゆうき君」
「……久し振りだね、詩織」
「そうだね」

 そう、呟く表情はどこか寂しげで。
 とっくに気付いているのだろう、俺に騙されたってことを。
 それでも、ここに残っていてくれた阿佐美が嬉しくて、余計胸が締め付けられるようだった。

「ゆうき君……俺を騙したんだね」
「うん。悪いけど、ここに志摩はいないよ」
「……」
「阿賀松先輩を裏切ったのは俺の意思だよ。志摩は関係ない。……だから、連れて行くなら俺を連れていけばいい」

 静まり返った夜の空気が突き刺さるように冷たくて。
 ヤケを起こしたつもりはない。ただ、阿佐美を通してならば少しはまともに阿賀松と接することが出来るかもしれない。そう、思った。
 震えを堪え、そう、静かに口にすれば「ゆうき君」と名前を呼ばれる。

「もう一度だけ聞くよ。志摩はどこにいるの?」
「それは……言えない」
「……そう、残念だよ」
「しお……」

 詩織、とそうもう一度その名前を呼ぼうとした時だった。
 そのまま、阿佐美は踵を返した。

「待ってよ、詩織」
「ゆうき君……」
「俺を、阿賀松先輩のところに連れて行ってくれないのか」
「ゆうき君は……あっちゃんに会いたいの?」

 静かに尋ねられる。向けられたそれは、ぐずる子供をあやすかのように柔らかい眼差しで。

「悪いけど、それは出来ないよ」
「どうして」
「ゆうき君、早く戻りなよ。今ならまだ……間に合うから」
「詩織……っ」

 どうしても取り合おうとしない阿佐美に、咄嗟に俺はその腕を掴んだ。
 こんなことしたら、ダメだと、余計怪しまれると思っても、それでも阿佐美を離したくなくて。

「お願いだから、阿賀松先輩と会わせてくれ」

「もう、逃げてばかりでいるのは嫌なんだ……っ!」それが本心なのかすら分からない。ただ、今はこうして阿佐美と会えたチャンスを見逃したくなかった。
 けれど、伸ばした手は呆気なく離れる。

「……詩織……っ」

 宙を掠る掌の感触に、咄嗟に俺は阿佐美を見上げた。
 矢先視線がぶつかり、阿佐美は目を伏せる。

「ゆうき君が何を考えてるのか分からない……けど、俺の手でゆうき君を危険に晒す真似、したくないんだ」

「だから」と、その唇が小さく動いたとそれは同時だった。

「だから、『ただで見逃してあげる〜』って?」

 場違いな程明るく、軽薄な声が響く。
 微かな金属音と砂利を踏む音が聞こえ、咄嗟に振り返ればそこには縁がいた。

「本当、あいつと違ってお前は優しいね、詩織」

 無骨な銀の車椅子、まるでソファーに腰を掛けるかのように足を寛がせて座る縁に俺は言葉を失った。
 車椅子にもだが、最後にあった時よりも明らかに増えているその包帯の数に。
 俺同様、縁の登場は阿佐美にとっても予想外のものだったようだ。

「方人さん……っ!」
「お前も中々やるじゃん、こんなところで逢引なんてさ?」

 手慣れたようすでこちらまでやってくる縁に、動けなくなる。
 見上げられているはずなのに、まるで絡み付いてくるような威圧感に息が苦しくなって。硬直する俺に、縁は軽快に笑った。

「あぁ、そんなに警戒してくれなくていいよ。別に、取って食おうなんてしないからさ」

「齋藤君が一番分かってんだろ?俺がそんな事出来ないって」そう、屈託のない笑みを浮かべる縁。
 その何気ない一言に、ドクリと大きく脈打つ心臓。
 今でも忘れない。あの時の感触が掌に蘇り、全身から嫌な汗が滲む。

「もーほら、二人とも顔怖いよ?大丈夫大丈夫、伊織にはこの事、言わないでおくからさ。……詩織が無断で齋藤君を呼び出して取引を持ち掛けていた、なんて」
「やっぱり……聞いてたんですか」
「ごめんね、あんまり詩織がソワソワしてたからちょっと気になってね」

 謝罪の言葉とは裏腹に悪びれた様子のない縁。
 阿佐美の表情が険しさを増すが、そんなこと気にもとめずにこちらへ体を向けた縁はそのまま俺の目の前までやってくる。

「それで、齋藤君。……伊織と会いたいんだって?」
「え……」
「方人さん」
「それなら会わせてあげるよ、俺が」

 阿賀松に。
 けれど、本当に縁が手を貸してくれるというのか。
 騙され、嵌められそうになったときのことを思い出せば信じる気にはならなかった。
 その反面、少なくとも阿賀松と近い位置にいる縁ならば、本当に会うことは出来るのではないか。そう思うこともできて。

「止めて下さい」

 俺が決め兼ねていると、不意に割入るようにして阿佐美が俺の前に立った。
 水を差されたかのように、縁はやれやれと言わんばかりに肩を竦める。

「詩織、俺が今話してるのは齋藤君だよ。お前は黙ってろよ」
「それは、出来ません。あいつに言わないといったのは方人さんじゃないですか」
「ああ、言わないよ。詩織、お前のことはね」

 その含んだような言葉に、いや、そのままの意味だろう。正直、当たり前だとも思う。
 縁にとって俺は非擁護対象なのだから。

「齋藤君、何も悩むことじゃないだろ?ゆうき君はあいつに会いたくてそれを俺が会わせるって言ってるんだから」

「それとも、もう俺のことは嫌いになった?」からかうようなその言葉は相変わらずで、それでもその向けられた目は以前とは明らかに違っていて。そう感じるのはあの事があったからか。
 普通ならば自分から見えてる罠に足を突っ込むのは愚かだと断るだろう。
 車椅子相手の縁から逃げることだってそう難しくはないはずだ。けれど、阿佐美がまだ俺のことを気遣ってくれている。その可能性に賭けるのならば、これはチャンスなのではないだろうか。そうとも思えて。

「縁先輩。……お願い、します」
「ゆうき君……!」

 ショックを受けたような阿佐美の声に、阿佐美の方を振り返ることは出来なかった。
 元より、あの日の一件以来俺の中で縁の見方が変わっていたのは確かだった。
 甘い言葉を囁いておきながら簡単に掌を返す、そしてまた優しい顔をして近付いてくるのだ。何事もなかったかのように。
 虚言癖ならば志摩も質が悪いが、それでも縁の場合は本心が全く読めない分厄介だった。そして、今回も。
 音も無く現れた縁の後輩たちに両サイド固められ、引き摺られる。
 最初から逃げるつもりは毛頭なかったのだが、視界を目隠しで遮られてしまった今、一人で歩くよりはましだと思い始めていた。

「俺一人ぐらいならどうにかなるって思ってた?」

「ごめんな、俺、結構用心深いみたいでさ」そう、後方から縁の声が聞こえてきた。
 自分が今どこを歩いているのかすら分からなくて、阿佐美も、着いてきているのだろうかと思ったが声が聞こえない。足音も。

「それにしても、驚いたなぁ。詩織には。伊織には逆らわないだろうって思ってたから」
「……」
「驚いたと言えば、齋藤君のこともだけどね」
「……」
「聞いたよ、八木のこと」

 暗闇の中、僅かに胸の奥が反応する。
 砂利の踏む音といい、まだ校庭から抜けていないと思うが、校舎に戻るにしては遠すぎる。一体ここはどこなのだろうか。

「誰に八木のこと教えてもらったわけ?」
「……」
「あ、言いたくなかったら別に言わなくていいから。なんとなく想像つくし」

 意味深な言葉で人の心を掻き乱す。
 それが本当なのかどうかはわからなかったが、どちらにせよ、俺がわざわざ口を開くべき話題ではない。

「……どこに向かうんですか、これ。学生寮じゃないですよね」
「んーそうだね、どこだと思う?」
「わかりません」
「そだね、俺にも分からないな」

 そんなわけがない。
 そんな言葉が喉から出掛けるのを必死に飲み込んだ。
 ノラリクラリと躱され実態すら掴めない、そんな不安と苛立ちを覚えずにはいられなかった。
 もう、どれくらい歩いたのかわからない。
 もしかしたらそんなに歩いていないのかもしれない。
 けれど、先程まで踏んでいた土の感触がコンクリートのそれになったのを靴越しに感じ、ようやく学園敷地内に入ったのだろうかと安堵する。しかし、それも束の間。左右を固めていた後輩たちが止まる。
 そして、すぐ前方から車の扉が開く音が聞こえた。
 車。そう理解した瞬間、嫌な予感が全身を駆け巡った。

「……っ!」

 案の定、背中を押さえ付けるよう車体へと押し込まれる。
 天井が高いお陰で頭はぶつけなかったが、すでに誰かが乗っているようで。
 入口に引っ掛かって蹌踉めく俺の体を先乗者は引っ張った。

「ごめんね、齋藤君。これじゃあ同乗出来ないからさ」

 車の外、「また後で」と笑う縁の声とともにドアが閉められる。
 外部と遮断された密室内、静かに車体は動き出した。

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