天国か地獄


 09※フィスト嘔吐

「っい……ッ!」

 どしゃり、と音を立て突き飛ばされる体。
 受け身もろくに取れぬまま、その部屋へ転がされた俺は慌てて起き上がろうとするがすぐに扉も閉められる。
 学生寮四階、阿賀松の部屋……だろう、恐らく。
 以前、見た時よりも内装が変わっていたが二つの部屋を強引に壁を壊して作ったようなその広い部屋は見間違えようもない。
 それにしても、どういうことなのだろうか。阿賀松が風紀委員と繋がっていて、それでも、確か風紀委員は生徒会の命令でも動いていたはずなのに。
 あまり考えたくはないが、表向き、生徒会に従っているだけで内部に阿賀松の息が掛かった人間がいる。そう考えるのが妥当だろう。
 だけど、どうして風紀委員が阿賀松に。風紀そのものを乱しているような阿賀松だからか、脅迫でもされたのだろうか。……どちらにせよ、どちら側でもない俺からしてみれば厄介なこと他ない。
 不意に、再度扉が開かれる。現れたのは阿賀松一人だった。

「待たせたなぁ、ユウキ君。灘のことはもう気にしなくていいからな」

 それは、ちゃんと応急措置を施してくれたということだろうか。未だ不安は拭えないが、今は阿賀松の言うことを信じるしかない。

「だから、今度は自分の心配をしろよ」

 どういう意味かと聞き返すよりも先に、伸びてきた阿賀松の腕に強引に掴み起こされた。
 床の上、引きずられる俺に目もくれず、鼻歌交じりに奥の扉までやってきた阿賀松。
 そこは。確か、そこには寝室があったわけで。初めて入るわけでもないが、それでも、体調が万全ではない今そういう心構えが出来なくて。いや、そのだけど万全だったら喜んで受け入れるということでもないが……。

「っうわ!」

 二度目の顔面着地。開いた扉の向こう。ベッドの上に思いっきりぶん投げられる。
 バウンドし、なんとか向こう側に落ちるなんて醜態晒さずには済んだがそんな安堵も束の間。
 両手使えず宛らまな板の上のマグロ状態であることには違いない。

「あっ、あの、ちょっと待って下さい……!」

 せめて、風呂に。風呂に入れさせて下さい。
 そう懇願しようとした矢先のことだった。

「……齋藤?」

 暗闇の奥、どこからともかく聞こえてきたその声に、一瞬心臓が停まった。
 聞き慣れた、聞きたかった、その声を聞き間違えようもなく。

「し、……志摩……っ?」

 どうして、もしかして幻聴か。そう思った矢先、部屋の照明が付けられる。
 寝室中央の柱。ぐるぐるに括り付けられたそいつはどう見ても志摩で、予期しない再会に驚愕する俺同様、呑気にベッドの上で跳ね回っていた俺を見るなり志摩は目を見開いていて。

「亮太、てめえユウキ君に会いたがってたよなぁ?連れてきてやったぞ」

 混乱する俺たち。そんな中、一人全てを把握してあるであろう赤髪の男は笑った。
 感謝しろよ、と。

「っ意味わかんない、いいから齋藤から離れろよっ!」
「はぁああ?なにそれ。有難う御座いますも言えねーのかよ。ユウキ君でも社交辞令で言うぞ?」

 笑う阿賀松に珍しくムキになる志摩。
 二人のやり取りを見て、ああ、なんとなく自分が厄介な立場にいるということがわかった。
 それでも、会長の言葉から志摩が殺されやしないだろうかと生きた心地がしてなかった先ほどに比べて、こうして志摩がまだ喋ることが出来ているだけでも酷く安堵する。俺と志摩の間に立つのが芳川会長から阿賀松へと変わっただけだけども。

「せっかく喜ばせてやろうと思ったのによぉ、つまんねえ奴らだな、ホント」

 ベッドに乗り上げる阿賀松。小さく軋むベッドに、咄嗟に後ずさるがヘッド部分に背中がぶつかってしまう。

「おいっ!」
「うるせえ、てめえは柱と同化してろ」

 伸びてきた手に胸倉を掴まれる。抗う術もなく、上半身を乱暴に引き寄せられれば目の前には阿賀松の顔があって。
 まさか、ここで。志摩がいるここで。
 阿賀松を裏切った今、多少の痛みは我慢出来るつもりだった。それでも、それとこれとは別だ。

「待って下さい、先輩……っ」
「待たねえ」

 寄せられた唇に、頬を舐められる。金属特有のひんやりとしたその感触に「ひ」と息を漏らした時、舌先が唇へと移動し、そのまま深く唇を貪られた。

「っ、ふ、ぅ……ッ、んうぅ……ッ」
「齋藤……っ!」

 志摩の声が遠く聞こえた。
 何度も阿賀松とキスしたはずなのに、それでも志摩の目があるというだけで酷く恥ずかしくて、自分の浅ましさが浮き彫りになったみたいで、生きた心地がしない。
 重ねられた唇に、捩じ込まれた舌に、直接流れ込んでくる阿賀松の体温に、今はただ震えが止まらなくて。
 受け入れることしか出来ず、されるがまま咥内を舌で掻き回される。舌先のピアスに喉の奥、舌の付け根を擽られればば何も考えられなくて。

「っは、ぁ、っ、んんぅ……ッ」

 舌で抉じ開けられたまま開きっぱなしになった口からだらしなく垂れる唾液。
 躊躇いもなく、それを舌で舐め取る阿賀松に、いたたまれなさのあまり顔が熱くなる。

「っ、殺す、絶対殺してやる……っ!」

 聞こえてきた志摩の声に、自分の置かれた状況を思い出す。
 見られてる。それだけなのに、相手が志摩だからか、余計、阿賀松に対抗することも出来ない自分が歯痒くて。情けなくて。

「おい、物騒なこと言ってんじゃねえよ。つかさ、お前なんか勘違いしてねえ?……こいつは元々俺と付き合ってんだよ」

 だから、と阿賀松は俺の唇に軽くキスをして、笑う。

「邪魔者はお前だろ、亮太」
「邪魔だって?……俺が……?」

 違う、全部阿賀松に合わせるための嘘だ。
 付き合っていたのも上辺だけの話で、それだって俺は認めたつもりはない。
 そう訂正したくても、開いた唇を塞がれ、何度も執拗に唇を吸われれば言葉どころか息すら儘ならなくて。

「っ、待っ、せんぱ」

 ようやく唇が離れ、咄嗟に阿賀松から逃げようと身を捩らせた時。顎を掴まれる。そして、耳元。

「亮太を助けたいんだろ?」

 直接囁きかけてくるその声に、全身が緊張する。
 どういう意味かと阿賀松を見れば、薄い唇が小さく動いた。
『亮太を振れ』その唇の動きに一瞬目を疑ったが、薄ら笑いを浮かべた阿賀松は訂正することもなくただこちらを見据えていて。
 なんで、そんなことをする必要があるのか。言い返したかったが、阿賀松という男に通りを求めても仕方ない。それを散々身を持って知っているはずだ、俺は。

「っ……」

 唇を噛みしめる。阿賀松に逆らうのは怖い。
 それでもこれ以上、助けてくれる志摩を裏切るような真似をするわけにはいかなかった。

「へぇ……」

 頑なに口を開こうとしない俺に、阿賀松の目が細められる。怒るだろうかと思っていたが、阿賀松には寧ろどこか楽しんでいるような気配すらあった。

「灘和真は助けても、こいつは助けねえってか」
「違い、ます……っ」
「じゃあなんだよ」

 尋ねられ、何も言えなかった。
 志摩を解放してもらいたい。だけど、志摩を傷付けたくない。それが結果的に自分にとってマイナスになるとわかっていたからか、ただ純粋に志摩を傷付けたくなかったのか、自分でもわからなかった。
 それでも、せっかくまともに話せるようになったのに、阿賀松の戯れでそれをぶち壊される真似だけはしたくなかった。

「俺がムカつくなら……、っ直接、俺にして下さい」

「志摩は関係ないじゃないですか」と、本当はもっとかっこよく言い切りたかったのだが、阿賀松を前にすると声が震えて、相手の目を直視することすら出来なくて。

「……」
「齋藤……っ」

 志摩の驚いたような声が聞こえる。
 俺だって、驚いているのだ。まさか自分が阿賀松に反抗する日が来ると思わなかったのだから。
 震える拳を握りしめ、俺は目の前の赤髪を見上げる。

「お願いだから、志摩を……離して下さい」
「上出来だ」

 お願いします、と言い掛けた矢先のことだった。
 そんな阿賀松の言葉と重なって、「え」と顔を上げれば満面の笑みを浮かべた阿賀松がいて。

「え、ぁ、あの……」
「お前、少しはましになったじゃねえの」

 がしっと伸びてきた手に頭を掴まれ、そのまま乱暴に撫で回される。
 ぐしゃぐしゃになった前髪越しに阿賀松の笑みが見えて、もしかして全部俺を試すための演技だったというのだろうか。もしかして志摩を助けてくれるのだろうか。もしかして、もしかしてと一人戸惑いとともに期待を抱いたその時だった。

「だけど、0点」

 思いっきり、掴まれた頭部をベッドに押し付けられる。暗転する視界。そこにはこちらを見下ろす阿賀松の冷ややかな目が写り込んでいて。

「人が優しくしてやってっからって調子のんじゃねえよ。てめえに拒否権はねえんだよ」

 顔面に吐きつけられた唾液が頬を流れていく。
 まあ、少しは想定していた。全てが綺麗なままで終わるなんて最初から期待などしていなかったから。
 少しだけの間、痛い目を見たくらいで阿賀松の気を済ませることが出来るならそれが一番いい。そう思っていた。けれど、それは俺の甘い考えだとすぐに知らされることになる。

「っ、ぁ、く……ッ」

 起き上がれない状況の中、伸びてきた阿賀松の手にベルトを引き抜かれる。
 覚悟をしていたもののいざとなれば萎縮せずには居られない。

「やめろって言ってるだろっ!」

 慌てて止めようとする志摩の声が余計羞恥を煽ってきて、大丈夫だから、そう一言言えればいいのだろうが、本調子ではない腰が痛んで、動けない。
 いつも人をボロクソ言う時は知らん顔してるのに、どうして今になってそんな顔をするのだろうか。いつも通り知らん顔してくれれば少しはこんな思いせずに済むというのに。

「おい、ああ言ってっけどいいのか?」

 最初から止める気もないくせにわざわざ尋ねてくる阿賀松が憎たらしくて仕方がない。
 関係ない、と割り切ることは出来ない。だから精一杯無言を貫いて全てを受け流そうとするけれど、下着を脱がされればやはりシラフでいるのは難しくて。

「っ、関係、ないです……ッ」

 ずり下げられた下着の奥、伸びてきた阿賀松の指に肛門周囲を撫でられ、全身が緊張する。
 阿賀松の視線が自分の下半身に向けられているというだけでカッと顔が熱くなって、くすぐったい。それ以上に、今から行われることへの恐怖心で体の震えまでは止めることが出来ない。

「……っ、ぅ」
「ここ最近誰かさんのせいで忙しくてなぁ、ろくに抜けてねーんだわ」

「責任取ってくれるよな」と、ベッドのヘッドボード部分、取り付けられた棚から何かを手に取った阿賀松は笑う。
 その手にしたボトルには透明の液体が入っていて。それがなんなのかすぐに分かった。

「ちょっ、と……っ、待って下さ……ぁ、ひ……ッ!」

 無理矢理開かされた下半身に垂らされるローションの冷たさに全身の筋肉が縮小する。
 心臓が止まるかと思った。
 垂らされるそれから逃げるように腰を動かすが、阿賀松は構わない。シーツにローションが垂れるのも無視して、たっぷりとそれを垂らされた下半身、手を伸ばした阿賀松は再度肛門に触れる。

「っ、待っ、っぅ、く……ッ!」
「んだよ、しっかり塗り込まねえとお前すぐ気失うだろうが。我慢しろ」

 こちらを労るような言葉とは裏腹に、垂れるローションを指にたっぷりと絡め、容赦なくケツの穴に捩じ込んでくる阿賀松。瞬間、針を刺すような鋭い痛みが脳天目掛けて突き抜ける。

「痛ッ、ぅ、っぁ、あぁッ!」

 一本二本三本と、閉じたそこを抉じ開けるように容赦なく捩じ込まれる指に全身の毛穴から脂汗が滲んだ。
 肛門内部の裂傷が治りきっていない今、ローションがあったところで滑るように入り込んでくる無骨な異物に中を掻き混ぜられれば何も考えられないほどの激痛に見舞われるわけで。

「……っ」

 痛みで霞む視界の中、不意にこちらを見ていた志摩と視線がぶつかる。
 唇を噛み締め、こちらを睨む志摩に『大丈夫だから』と笑い掛けることも出来なくて。それどころか。

「おい、なに余所見してんだよ。随分と余裕じゃねえの」
「っ、ぅぶッ!」

 降り掛かってくる阿賀松の声とともに、付け根まで挿入された四本の指に内壁を思いっきり抉られ、一瞬、確かに意識が飛んだ。
 バクバクと打ち付ける鼓動がひたすら重く頭に響いて、乱れた呼吸を落ち着かせるための深呼吸なんてする余裕はない。
 痛みの余り頬を濡らしているのが涙なのか汗なのか、それすらも判断つかなくて。

「ああ、お前みたいなマゾ野郎には物足りなかったか?」

 なら、もっと楽しませてやらねえとな。そう喉を鳴らす阿賀松にただ目の前が真っ暗になって。
 今更後悔したところで何もかも遅い。

「っ、ぁ、くッ、ぅうッ」

 奥歯を噛み締め、痛みを堪える。
 志摩には、少しでも痛がっているところを見られたくなかった。
 痛いのには慣れている、これくらい我慢出来る。そう、自分に言い聞かせるけれど。

「っひ、っぐ、ぅ……ッ!」

 腹の中、ぐちゅぐちゅと絡みついてくる音が響く。
 細くはない阿賀松の指で既にぱんぱんになったそこに親指まで捩じ込まれ、裂けるような痛みに視界が霞む。
 呼吸する暇すら与えないかというように、無理矢理左右に押し広げた肛門に出来たその僅かな隙間に親指をぐっと押し込まれ、瞬間、電流が走ったように背筋が突っ張った。

「っああぁッ!」
「おいおい、はしゃぎ過ぎだろ。亮太が吃驚してんぞ」

 そう笑う阿賀松は体内、拳を作ればそのままぐっと手首まで押し込んできて。
 腹の中、収められた臓器ごと潰されるようなその圧迫感に肺から押し出された空気とともに絶叫が漏れる。
 まるで自分の声ではないかのように感じたが、抉るような痛みと自分までは切り離すことが出来なかった。

「っ抜い、ぁ、っひ」
「なに?聞こえねー」
「――ッ!!」

 瞬間、何が起きたのかわからなかった。
 目の前が真っ白になって、腹の奥底、突き上げるような衝撃に開きっぱなしになった口から舌が突き出ていて。
 込み上げてくる吐き気とともに、つい先程無理矢理押し込められた食事の内容物が逆流してくる。

「っ、ふ、ぐ、ぅえ゙……ッ」

 仰向けの体勢でろくに吐くことも出来ず、口いっぱいに広がる胃酸特有の苦味に耐えきれず溢れ出す吐瀉物。
 口に残ったものを綺麗に吐き出すことすら出来ず、息絶え絶えに咳き込む俺に阿賀松は不愉快そうに目を細めた。

「齋藤っ?!齋藤っ!!」
「……きったねえな、誰がベッド汚していいって言ったかよ」
「っ、ぅ、んぶッ」

 体内の拳を引き抜かれたかと思えば、更に力を込めて腹の中を突き上げられ、その衝撃に耐えられず下腹部が別の生き物みたいに痙攣起こす。
 圧し潰された胃から形の残った吐瀉物が止めどなく溢れ出して、拍子に噎せたせいで別の器官に入ってしまい言葉にし難い痛みが顔面に走る。

「っが、はぁッ」
「やめろ、もういいだろ!やめろってば!」

 悲痛な志摩の声がやけに遠く聞こえた。
 志摩が見ている、なんてことを考えることは出来なかった。
 痛みで塗り潰された思考は麻痺し始めていて、霞んでいく意識。
 それもすぐに腹の中の拳により引き戻される。

「っ、ぐ、っぅ……ッ!!」
「おい、これくらいで寝んなよ。てめえから言い出したんだろうが、なぁっ!」
「ひっ、ぎぁッ」

 ゴツゴツとした拳に体の中を殴られる度に意識が途切れ、何も考えられなくなる。
 ただでさえ前回の無茶な挿入で腫れ上がっていたそこは既に麻痺し始めていて、内臓を突き上げるような衝撃だけが脳を支配して。
 いっそのことここで意識を飛ばすことが出来ればどれだけましだろうが。
 飛びかけた矢先次に襲い掛かってくる痛みにすぐに引き起こされ、ひたすら苦痛の繰り返し。
 胃の中のもの全てを垂れ流した今、胃液すら出てこない。
 ひりつく胃の中、阿賀松の腕を半分飲み込んだ自分の下腹部に、腹部に浮かび上がる不自然なその膨らみに、生きた心地がしなくて。

「っは、ぁ、……ぁ……」

 どれくらい経ったのだろうか。実際は十分も経っていないかもしれない。それでも、俺にとってはやけに長い時間で。
 ぐちゃぐちゃと体内で絡み合うローションとなにかの音を聞きながら、俺は引き抜かれる阿賀松の腕をぼんやり眺めていた。
 指一本動かすことすら億劫になるほどの疲労感。
 真っ赤になった阿賀松の腕に、周囲に広がる濃厚な血の匂いに、吐き気がした。だけどもう胃を捻っても何も出ないだろう。
 塞ぐものがなくなり、力任せに筋肉ごと押し広げられたそこは自分で分かるくらい広がっていて。力を入れても戻りそうにない。溢れるローションの残骸は赤みがかっているのだろう。確認する気にもなれなくて。

「は、もうギブアップか?さっきまでの威勢はどこいったんだよ」
「もう十分だろ……ッ!いい加減にしろっ!」
「はあ?じゃあなんだ、てめえがユウキ君の代わりになるって言うのか?」
「……ッ」
「無理だよなぁ、自分の兄貴すら守れなかったやつにそんな御大層な真似」

 交わされる二人の声。
 微睡む意識の中、二人が何を話しているのか理解することはできなかったが苦虫を噛み潰したような志摩の表情が痛々しくて、俺よりも辛そうな志摩に、俺は口を動かした。

「……い、じょぶ、です……おれは」

 だから、と呂律の回らない口で続ければ、歯痒そうに目を伏せた志摩。
 そんな志摩に心配しなくても大丈夫だからと笑い掛けたが、目を伏せた志摩には届かなかった。その代わり、阿賀松が満足そうに笑っていた。

「俺はな、亮太のことはどうでもいいんだよ。だってこいつのことは最初から宛にしてねえし信用もしてねえしな」
「……」
「でも、ユウキ君。お前は違う」

「てめえは俺を騙したんだよ」と、吐き捨てるように口にする阿賀松に胸の奥が痛んだ。
 少なからず俺のことを信用していた。そう言われているようで、言葉の綾だとはわかってたけど、罪悪感に似たなにかが腹の奥でぐるぐる渦巻く。

「っ、せんぱ……」
「でも今のお前、嫌いじゃねえよ」

「なんで亮太なのか理解に苦しむけどな」その言葉につられて顔を上げた時、伸びてきた阿賀松の手が口元を拭う。
 認められた、わけではないだろう。いつものただの気紛れなのだ。言い聞かせる。
 甘んじてはダメだ。丸め込まれるな、と。

「っ、ぁ、ぐ」

 指が、咥内に捩じ込まれる。口いっぱいに広がる鉄の味に驚いて、慌てて身を捩るが俺の上に馬乗りになる阿賀松からは逃れられなくて。

「てめえのだろ、綺麗にしろ」

 竦める舌を無理矢理掴まれ、そのまま口の外へと引きずり出される。
 それでも、つい先程まで自分の中に入っていたそれを口にするのには抵抗があった。逃げようと下腹部に力を入れようとすると逆に全身から力が抜ける始末で。

「俺の靴は舐めれて指は舐めれねえの?変わってんのな、お前」
「……靴?」
「ああ、そうだよ、灘和真を助ける代わりに靴舐めろっつったらまじで舐めやがったんだよ」

 志摩にそのことを話されたところでどうってことない、そう思っていたけど、『馬鹿じゃないのか』と呆れ果てた目で見られると居た堪れなくて。
 そうだ、靴に比べれば指くらい。その指先に纏わり付く赤黒いものを無視して指を這わせれば、阿賀松は俺の舌を撫でるように触れてくる。

「ユウキ君は亮太君を助けるためにどこまでしてくれるんだろうな。楽しみだなぁ?」
「あんたって人は……ッ」

 絶句する志摩を無視して、数本の指を舌の付け根まで絡ませてくる阿賀松に「なあユウキ君」と名前を呼ばれる。その低音に、ぞくりと背筋が震えた。

「久し振りにアレ、やってくれよ」

 ちゅるりと濡れた音を立て、引き抜かれる指先。
 もういいのだろうか、とその指先を目で追えば自分のベルトを掴む阿賀松に身構える。

「っ、あれ、って」
「は?わざわざ俺に言わせる気かよ」
「……っ」

 大体察しはついた。ついたが、正気か。
 恐らく阿賀松にとっては正常なのだろう、このことくらいは。
 だけど、

「……ッ」

 どうして、こんな状況で勃起しているんだ。
 緩めるだけ緩めて、自分から取り出そうともせず、顔のすぐ傍、向けられた下半身になんだかもう目のやり場どころではなくて。

「ほら、さっさとしろ。このまま突っ込むぞ」
「な……ッ」

 その言葉に、全身が緊張した。
 これ以上何か刺激を与えられれば、間違いなくおかしくなる。そう自分でも嫌というほど理解していた。同様、驚く志摩の視線が痛くて。

「五ー」

 躊躇っていると、突然始まるカウントダウン。考えている余裕はなかった。
 志摩の目の前でこんな真似、したくなかった。だけど、自衛のためだ。いくら頭の中で理屈を並べたところで自分がしようとしていることが変わるわけでもない。

「……四」

 腕を動かそうとして、思い出す。自分の両腕を封じ込められていることを。

「さーん」

 伸びてきた阿賀松に腕を引かれ、無理矢理体を起こされる。
 鼻先がぶつかりそうなくらい近く、顔面に押し付けられた膨らみが嫌に硬くて。

「……何今更恥ずかしがってんだよ」

 躊躇う俺に、愉しそうに阿賀松は笑った。
 そうだ、今更だ。今更、恥じてまで守りたい自分は持ち合わせていない。
 舌を突き出し、軽く持ち上げたファスナーを唇で挟む。

「ふ……っ」

 腰が痛い。お腹の奥の異物感が取れなくて、それを必死に振り払いながらファスナーを下ろす。
 志摩の声は聞こえない。呆れられたのかもしれない。それでもいい。その方が、少なくとも今の俺にとっては有難かった。でなければ、こんな真似出来ないだろうから。

「ん、ぅ……っ」

 舌だけでは開けるのは難しくて、体を動かしてジッパーを降ろす。
 途中、引っかかりながらも無事開けることは出来たのだが、問題はここからだ。どうしても舌を使わなければならないだろうし、それも、深く。

「齋藤……ッ」

 名前を呼ばれ、全身が強張る。
 もう少しで、もう少しで、全部忘れて開き直れそうだったのに、ダメだ。
 何か言いたそうな志摩の声が、目が、俺が俺であることを思い出して、瞬間、急激に恥ずかしさが込み上げてくる。
 自分の浅ましさに、もうどうなってもいい。そう思っていたのに、志摩の声に、自分がどうしようもない人間に思えてきて仕方なくて。俺は、動くことが出来なかった。

「はい、ゼロー」

 瞬間、聞こえてきた阿賀松の声とともに肩を掴まれる。
「あっ」と思ったときには視界がぐるりとひっくり返り、目の前にはこちらを見下ろす阿賀松がいて。

「っ、待って、下さ」
「なんで?」
「だって、まだ――」

 なにもしていない。そう言い掛けたとき、「ああ、それ」と阿賀松は笑う。

「別にいいよ、もう」
「……え?」
「散々慣らしてやったんだから大丈夫だろ」

 ほら、と不自然に開いたそこの周囲を撫でられ、今度こそ全身が底冷えした。

「い……っ」
「嫌なのか?」

 楽しそうな阿賀松の声に、背筋が凍り付くようだった。
 これ以上、被害を拡散したくない。
 けれど、怖い。先程の激痛を思い出すだけでお腹の中が嫌な感じになって、それでも、ここで阿賀松に逆らったらどんな目に遭うかわからない。
 震えを堪えるように、俺は小さく首を横に振った。声は出なかった。それが精一杯の肯定で。

「……っは、震えてんじゃねえの」
「だ……大丈夫です、俺は……」
「齋藤……っ」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫だから……」

 自分に言い聞かせる。そうでもしないと、これから身に襲いかかってくるであろう痛みへの恐怖と不安で押し潰されてしまいそうだったから。

「へぇ、涙ぐましい友情じゃねーか。よかったなぁ、亮太、いい友達が出来て」

 下卑た笑みが近づく。
 阿賀松の手に下腹部を弄られ、ただでさえ過敏になっていた内壁は阿賀松の指の動き一つ一つに鋭く刺すような刺激に反応してしまう。

「……なら、お望み通り突っ込んでやるよ」

 押し倒されるように後頭部をシーツに押し付けられ、体がベッドへと沈む。
 その柔らかい衝撃だけでも全身に稲妻のような鋭い痛みが走る。割られた股の間、ファスナーを下ろす阿賀松の赤い手が目について、咄嗟に、目を瞑った。

「ッやめろよ……!」
「はあ?うるせえぞ亮太」
「やめろって言ってんだろうっ!!」

 志摩の怒鳴り声が室内に響いた、その時だった。
 寝室の扉が荒々しく叩かれる。その音に、ビックリして目を見開けば、視界には不快そうに眉を寄せた阿賀松の顔が入り込んだ。

「……あーあ、クソ、時間切れかぁ……」

 そう、阿賀松が小さく呟いた時だ。
 下げかけていたファスナーを再び上げる阿賀松に、どうしたのかと狼狽えていると、不意にこちらを見下ろしたやつと視線がぶつかった。

「ユウキ君、俺な、暴力とか血とか嫌いなんだよな。……なんでだと思う?」

 唐突な問い掛けに、狼狽えないほうが難しい。

「……汚れるから、ですか?」

 痺れる思考回路の中、とにかく浮かんだ答えを口にしてみれば阿賀松は「へえ」と笑う。

「ま、7割正解だな」

「あとの3割はな、うるせえんだよ、あいつが」あいつが?と、クエスチョンマークを四方浮かべる俺。
 そして、同時にバギッと嫌な音が寝室に響いた。
 まるで、なにか金属がもぎ取れるような……。
 恐る恐る扉に目を向けたそのときだ、勢い良く扉が開かれた。薄暗い寝室に差し込む明かりに思わず目を細めた。

「ゆうき君!!」

 そして、聞こえてきたその声に、俺は耳を疑った。
 扉の前、立っていたのは阿佐美だった。

「うわ、お前壊したのかよ。それ」

 呆れたように笑う阿賀松を無視して、こちらに駆け寄ってくる阿佐美は「ゆうき君」と今にも泣きそうな枯れた声で俺を呼ぶ。
 これは、幻覚なのだろうか。だって、阿佐美の髪が。

「ゆうき君、ごめん、今、助けるから」

 赤いだなんて。

「おい、詩織ちゃん、勝手なことすんなよ」
「……勝手なことをしたのは、あっちゃんだろ。……っこんな時に騒ぎを起こすなんて」
「騒ぎだって?合意だろ、ゴ・ウ・イ」

 笑う阿賀松に、阿佐美は諦めているようだった。
 そんな阿佐美の横顔を眺める。前髪が、短くなった。いつも見えなかった二つの目が、阿賀松を睨んでいる。

「いいから、あっちゃんは出ていって」
「ひでぇじゃねえの、詩織ちゃん」
「芳川会長が来る」

「佑樹君と灘和真を探している」と続ける阿佐美に、確かに阿賀松の纏う雰囲気が変わる。
 浮かべていた笑みが消え、無言の阿賀松に「だから早くどっか行って」と阿佐美は追い打ちを掛けた。

「こんなところ見られたら、どうしようもないよ。俺も……庇いきれない」
「……あーあ、つまんねえことばっか言うんだもんなあ、お前。クソ、あいつの名前出すんじゃねえよ……萎えただろ」

 それでも尚、阿佐美に従おうとしない阿賀松に今度は阿佐美の方が痺れを切らしたようだ。
「伊織」と、そう咎めるような視線を阿賀松に向ける阿佐美。
 赤い髪に鋭い目、下手したら阿賀松と間違えてしまいそうだが、俺の手を握り締めてくるその大きな手も、声も、阿佐美のものだ。

「チッ、うーぜーなぁ……もう」

 折れたのは阿賀松だった。
 面倒臭そうに髪を掻き上げた阿賀松は、ベッドから動けないでいる俺に「また後でな」と手を振り、そのまま部屋の奥、阿佐美が壊した扉とはまた別の扉から寝室を後にした。その向こうがどこに繋がっているのか、俺にはわからない。
 阿賀松がいなくなってようやく、阿佐美の手から緊張が抜けた。

「……詩織」
「ゆうき君、動かないで。そのまま横になってて、……お願いだから」
「でも、会長が来るって……」
「あれは嘘だよ。探してるのは本当だけど……。それよりも、とにかく今は喋らないで。ゆっくりしてて」

「お願い、ゆうき君」と今にも泣きそうな顔をする阿佐美。
 阿賀松を騙して嵌めようとしたのに、阿佐美にだって、たくさん迷惑掛けたのに、こうして心配してくれている阿佐美に喜ぶよりも、申し訳なくなって。

「俺は、大丈夫だから、……志摩を、解いてくれ」
「志摩?……ああ、あっちゃんの仕業か」

 柱の前、押し黙ったままの志摩を前に阿佐美は少しだけ考えてるようで。
 渋々ながらも、阿佐美は志摩を拘束する縄を断ち切ってくれた。

「志摩」

 どれくらいの時間、柱に括りつけられていたのか俺は知らない。
 それでも、長時間体を固定されることがどれほどの苦痛か知っている俺は志摩の疲労が計り知れないものだというのはわかった。
 ようやく、地に足をつけることが出来た志摩は床の上、座り込んだまま何も答えない。

「……志摩」

 痛みで感覚が麻痺していた中、ずっと聞こえていた志摩の声が今になって蘇る。
 あの志摩が、必死になって止めようとしてくれている。
 夢だったのだろうか、と疑いそうになったがそれは紛れもない事実だろう。
 元に、必死に縄を解こうとしたのだろう、投げ出された手首が擦り切れてしまい、血を滲んだそこが痛々しいくて。

「志摩」

 起き上がろうとするが、下腹部に力を入れる度に脊髄に電流が流れるようだった。
 そのままベッドの上、蹲る俺に「ゆうき君」と慌てて駆け寄ってくる阿佐美。

「ゆうき君、無理して動いちゃダメだって!」
「ご、ごめん……大丈夫だから」
「ゆうき君……っ」

 呆れられても仕方ない。これで傷が広がっても自業自得だと笑われても、当たり前だ。
 それでも、今、なぜだろうか。志摩を放っておくことが出来なくて、今すぐ駆け寄りたいのに、体が思うように動かない。
 それでも、無理矢理四肢を動かし、ベッドから降りた俺は体を引き摺るように、志摩の傍へ寄る。

「志摩」

 項垂れる志摩が何を考えてるのかわからない。
 そっとしてやるのが一番だとわかっていても、そうすることが出来なかった。
 志摩の手に触れる。縛られていたからか、白く冷たいその手は微かに震えていて。

「……もう、大丈夫だから」

 言いたいことはたくさんあったはずなのに、志摩の手を握ったらその言葉しか出なくて。
 ありがとうも、ごめんも、志摩にはなんの意味もなさない。
 だから、そのかわりに強くその手を握り締めれば、顔を上げた志摩と目があって。

「……っ」

 瞬間、伸びてきた腕に、抱き締められる。
 バランスを崩しそうになったが、志摩に抱き留められたお陰でなんとか転ばずには済んだ。
 けれど、

「……っ、ごめん……」

 耳元、微かに聞こえたその掠れた声に、少しだけ驚いた。
 まさかあの志摩が謝るとは思ってなかったから、これは貴重かもしれない。なんて思いながら、俺は志摩の頭に手を回した。
 志摩の体が震えている。そう思っていたが、どうやら、震えているのは俺の手の方だったようだ。

「ごめん……齋藤……っ」

 一度ならず二度までも、志摩の謝罪を聞けるなんてもしかしたら明日は土砂降りかもしれないな。
 なんて、口元が緩むのを感じながら俺は「謝らないで」と志摩を抱き締めようと思ったのに、腕に力が入らなくて。それどころか、指先から、力は抜け落ちていく。
 薄れていく視界。徐々に遠退いていく意識の中、俺は最後まで確かに志摩の体温を感じていた。
 夢じゃない。志摩を守れたんだ。その事実を確認し、安堵した矢先、ぷつりと音を立て俺の目の前は闇に包まれる。

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