氷帝学園× | ナノ


跡部景吾。
彼は日本屈指の大企業の社長である。

で、僕はというと。
その日本屈指の大企業の社長の秘書であり、幼馴染であり、恋人である。


一体誰が。日本の域を飛び越え、世界を股に掛ける程の急成長を遂げた跡部コーポレーションを導いた、若きカリスマ社長が男色趣味だと想像するだろうか?

けれど現実はそうなのだ。告白は景ちゃんの方からだった。



『大切な幼馴染としてでもなく、有能な秘書としてでもなく、お前を傍に置いておきたい。』



墓場まで持っていくつもりだった僕の強かで密かな想いは、景ちゃんのこんな言葉によって、思いがけず成就することとなった。

つまり両想いだったというわけだ。

永遠とも思われた片思いの末に結ばれた僕が舞い上がらないはずはなく。泣きながら笑う、という、なんともめちゃくちゃ芸当を見せる僕に、景ちゃんはただ一言、照れたように「バカ」と言った。


とはいえ、やはり予想外のリアリティを超えた現実ほど上手く回らないものらしい。世の中は夢物語ばかりでは終わらない。ということか?カップラーメンや冷凍食品のように、シンデレラストーリーがそう易々と完結する程俗世は甘くできちゃいない。

なぜこんなことを言い出すのか。

理由は単純明快。「見たまま」とは正にこのことか。という程に積み上げられた、それすなわち、“釣書”。つまり、かんたんに言ってしまえば見合い写真の山。



「クソッ…あの老いぼれジジイ」

「景ちゃん、口が悪いよ。実のおじい様でしょ?」

「っせぇーよ…」



チッと盛大に舌打って、景ちゃんは小刻みに机を叩く。

景ちゃんのお見合い話は実に多方面から舞い込んでくるけれど、抜きん出てその話を持ってくる人物は間違いなく景ちゃんのおじい様。



「なにが孫のツラが見てぇだ…」



さも、忌々しい!と言いたげな景ちゃんは束の一番上に置かれていた釣書を手に取る。まったく失礼なことだけど、いつもはここで何の躊躇いもなくポイッ放り出してしまう。

が、今回の相手はそうもいかないらしい。
僕はついにこの時が来たか。と、どこか冷静に苛立つ景ちゃんを見つめていた。


景ちゃんと僕は恋人ではあるが、もちろん婚約はしていない。交際さえ公にできない。

その手腕のみならず、人が羨む全てを兼ね備えたような景ちゃんが同性愛者?彼は日本経済に与える影響は計り知れず、その上タレント張りの人気を誇る。まさに大物。そして逸材。こんなタブーはとんだスキャンダルだ。マスコミの良い餌食だろう。

だから、覚悟は常にある。いつだって別れを受け入れる準備は万端、と言っても過言ではない。

もちろん、景ちゃんにはこんなこと言えないけど。



「…くそっ…」



景ちゃんは眉間に皺を深く刻み、長いこと釣書と睨み合っている。指先だけに留まらず、その長い足もトントンと床を叩く。

これほどに貧乏揺すりが似合わない人もいるのか、と。この期に及んで、僕はどこか他人事のようにそんな景ちゃんを見ていた。



おそらく景ちゃんを悩ませているその発端は、5日前に招かれたパーティーでまず間違いないだろう。会場で取引先の社長令嬢に見初められたのだ。さすがご令嬢というべきか、その場で言い寄ってくるような真似はしてこなかったけれど、彼女が景ちゃんになにやら射抜かれてしまったのは傍らから見ていてもよく分かった。
そして、取引先の先代から景ちゃんのおじい様経由でお見合いの話がやってきた。という流れだろう。


こんなことは特に珍しいことでも何でもない。
ただ、これまでの景ちゃんは、この社長室でお見合い写真を放り投げた人物とは思えない誠実さを以て、それらすべてを丁重にお断わりしてきた。

だが、景ちゃんの様子からみても。これまでの跡部コーポレーションの事業からみても。今回ばかりはこれまでと同じ、とはいかないだろう。相手は跡部コーポレーション最大の取引先だ。


だから。
僕は、いつも業務的に景ちゃんに話しかける時にするように、デスク越しに向かい合う。営業スマイルも忘れない。これは昔から大得意だった。



「…景ちゃん。なにも悩む必要なんてないよ。」

「…どういう意味だよ?」

「僕たち、もう別れよう。」

「嫌だ。」



僕の言葉を、景ちゃんは目も合わさずにあっさりと切り捨てる。



「景ちゃんっ!!!」



この縁談を断わるっていうのがどういう事か分かってるの!?
言葉はすぐそこまで出かっていたのに、言えなかった。アイスブルーの瞳に見上げられた途端、勢いよく水を流したホースを踏んづけた時みたいに、僕の咽喉は苦しく詰まってしまって。たちまち役に立たなくなってしまった。



「………シュウは、別れたいのかよ。」

「…………。」



僕は黙って俯いた。

本当は別れたくない。別れたくないに決まってる。
物心ついた頃には景ちゃんが好きだった。思春期を迎える頃にはおかしい感情なんだ、と無理に女の子と付き合ったりもした。それでも忘れられなかった。ずっとずっと。人生のほとんど全てをかけて、僕は景ちゃんに恋してきた。
きっとこんなにも愛しい人、二度と巡り逢えないと思ってる。わかってる。

でも、だからこそ。
景ちゃんの未来を第一に考えたい。景ちゃんが困るような状況は回避したい。


それになにより、景ちゃんは何万人といる社員の長なのだから。ふたりだけの問題に捕らわれたワガママばかりは言っていられないといのも十分すぎる理由だ。
僕ひとりが諦めれば、それで済む。それだけの簡単なはなしだ。



「シュ―――…」



景ちゃんが何かを言いかけた。
それをタイミング悪く、僕から言わせればタイミング良く。ノック音が遮った。

来客だ。

少ない荷物をそっと纏めて、客人と入れ替わるように社長室を後にした。

僕のデスクに私物はほとんどない。
違う、ないようにしてる。
こんな日が、いつやってきても構わないように。



「サヨナラ、景ちゃん…」



振り向いた社長室の扉は、まだ3歩しか歩いていないのにいやに遠かった。
泣いていた。
覚悟していたはずなのに、僕は泣いていた。

エレベーターの下りボタンをこどもの頃みたいに連打した。ふと、裕太と一緒にデパートでそうした昔を思い出した。その心情はまるで違っていたけど。

到着したエレベーターに飛び乗って、僕はわんわん泣いた。どうして途中で誰か乗って来るかも、とか冷静に考えなかったのか不思議なくらい思い切り泣いた。



「バカな僕…」



幾ら泣いても足りなかったけれど、しばらくエレベーターの浮遊感に身を任せるうちに自然にそんな風につぶやいた。



「まったく、だな…っ…」

「景ちゃん!!?」



いつの間にかエレベーターは止まっていた。いつ止まって、いつ扉が開いたのか?
息を切らした景ちゃんがエレベーターの扉を手で押さえていた。
ネクタイを片手で緩めながら、景ちゃんはツカツカとエレベーターへと踏み込んでくる。
僕は無意識に、一歩後退った。



「なんで、」



エレベーターは乗客をひとり増やして再び降下をはじめる。密室となった空間で、景ちゃんは僕ににじり寄ってくる。

そのうち、ドンっと僕の背中が硬質な壁に突き当たって一度。
続いて景ちゃんが僕の顔のすぐ真左に手を付いて二度。
エレベーターが不安定に揺れた。



「いつまでも逃げてんなよ…、」



未だに肩で息をしながら景ちゃんは言った。
尋常じゃない汗の量と、その様子。階段を駆け下りてきてくれたのだと思うと余計に涙が出た。



「それから…、こんなもの、受け取らねぇからな…」



泣きっぱなしの僕の左耳に、真横で紙が握りつぶされるような音。
思っていたよりもずっと発見されるのが早かった。「こんなもの」。それは僕が自分のデスクに忍ばせておいた辞表だった。



「お前の考えることなんざ、お見通しなんだよ」

「…っ」

「俺と付き合い始めたその日にこんなモン書きやがって…」



あぁ、そうか。見付かったのはもっとずっと前だったのか。それなら早いはずだ。
何だって見抜いてしまう眼力を前に、僕の目論みなど、そもそも目論みですらなかったらしい。

景ちゃんの言う通りだった。
辞表は昨日今日書いたものでもなく、はじめてお見合いの話が来た日でもなく、僕らが付き合い始めたその日に書いたものに違いなかった。



「可愛くねぇことしてくれるぜ…」

「だって…」

「しかも鈍くせぇ。」



真剣な、怒りを孕んだアイスブルーの瞳の前、つまり僕の鼻先に。景ちゃんは握りつぶされた辞表を翳した。

でも突き返されたって、ここで受け取る訳にはいかないのだと、僕は頭を振る。



「違ぇよ。中見てみろ、シュウ。」

「でも、」

「見ろ。」



鋭い舌打ち。仕方なく辞表受け取って、グシャグシャに丸まった封筒を広げて僕は唖然とした。封が切られている。しかも、それをまたノリ付けしたような形跡があったのだ。まるで覚えがない。景ちゃんに告白されたその日から、一度だってこの封筒に触れたとこはなかったはずなのに。

ハサミなんて持ってなかったからビリビリと乱雑に手で封筒を千切った。



「ない!!!」



書いたはずの辞表が抜かれていた。
狼狽した僕は汚い切り口を下にひっくり返して封筒を振った。



コロン―――っ



足元に、何かが転がった。
クルクルと回り、それから程なくしてエレベーターの床マットのためにそれは回転を止めた。



「シュウ、お前…」

「あ…」



呆れ顔の景ちゃんが跪いてそれを拾い上げるのを、僕はただぼんやりと見下ろしていた。



「世界中探してもこんな高価な指輪を落っことす奴なんざお前くらいなモンだろうな」



ククッと咽喉の奥で笑った景ちゃんは跪いたそのままで、僕の左手を取って、それから拾い上げたそれを僕の薬指に通してそっとキスを落とした。



「大切な幼馴染としてでもなく、有能な秘書としてでもなく、」



なんだろう。
どこかで聞いたような台詞だ。と思った。
この既視感。デジャヴ。



「そして、手軽な恋人としてでもなく、お前を永遠に傍に置いておきたい。」



けれど、加えられた言葉の意味は―――…




跡部景吾。
彼は日本屈指の大企業の社長である。

で、僕はというと。
その本屈指の大企業の社長の秘書であり、幼馴染であり、恋人であり、人生の伴侶である。

一体誰が日本の域を飛び越え、世界を股に掛ける跡部コーポレーションのカリスマ社長が世界一不格好なプロポーズをしたと想像するだろうか?

けれど現実はそうなのだ。
ホテルのスイートでも、夜景の見える高級レストランでも、満点の星空の下でもなく。
フられた直後、汗だくで、職場のエレベーターで、指輪を落っことされて、実現しない婚約を申し出た。

シンデレラストーリーはカップラーメンや冷凍食品みたいに簡単ではないけれど、意外な形で完結することもあるらしい。



「ていうか景ちゃん。手軽な恋人ってなんなの。」

「アーン?準備しておく程いつだって別れられるような恋人だったんだろ?」

「そういう事じゃないだろ!?」



これでも僕らは、シアワセです。



END...