月下行路




糸雨が主の屋敷で居候を始めて四年が経ち、十月も半ばを過ぎた頃――。

山の夜は更け、中天に大きな月がかかっている。
月は満月とは言いきれぬ、やや端を欠いた姿だ。しかし秋特有の空気は凛と澄んで、月の輪郭をくっきりと映し出している。その様はえもいわれぬ風情があった。
広々とした秋晴れで空を遮るものはない。月は眩しいほどに皓々と山中を照らしていた。
月光に浮かび上がる木々は紅葉の盛りをこれから迎えんとして、緑の中に赤や黄色が色づきはじめて大層賑やかである。

そして普段は静まり返る夜半の屋敷も、宴が催されている今日ばかりは賑やかだ。
ちんとんしゃんと奏でる三味の音に、狸の腹太鼓と笛のお囃子。
常日頃蔵で眠っている古提灯たちも皆庭中に散らばり、ここぞとばかりにぺちゃくちゃ喋り通しだ。主の術火を灯された彼らは生き生きと明るく、昼間のように屋敷を照らしている。
河童たちが相撲大会を開いて誰彼構わずに土俵に引きずり込んでは、見物人がやんやと野次を浴びせる。
いつも夜間は閉じているはずの門扉まで完全に開いており、妖たちが三々五々気ままに出入りする。それを六尺棒を携えた二人の山彦が油断なく見張っていた。

宴もたけなわといったさなか、門の前で数人の人影がたむろしていた。
その中心は山守である主、そして糸雨だ。彼らを取り囲むようにして狸が数匹と、野次馬のごとく数人の妖が肩を押し合っている。
屋敷のざわめきに紛れて、人型に化けた一人の狸が背伸びをしながら糸雨に四角い風呂敷包みを差し出した。

「糸雨様、どうぞ」
「ああ、ありがとう」

それは三段の重箱と酒器を包んだ風呂敷で、ずっしりとした重みがある。荷物持ちは常に糸雨の役目であるので、続けて出された酒壺二つも受け取った。
狸と荷の受け渡しをしている間、お針子のけらけら女三人がくすくすと笑いながら糸雨の羽織の袖を次々引っ張る。
娘盛りといった見た目の彼女らはほろ酔いで頬をほんのり染め、他愛もないちょっかいを糸雨に繰り返した。糸雨は苦笑しつつ小袖姿の娘たちをやんわり諌める。

「こら、放せって。もう行かないと」
「だって縫い口がほつれてやしないか心配で」
「そうよそうよ」
「あらいやだ糸雨様、肩に綿屑が」

口々に話す言葉はみな笑い声だ。彼女らはいつも笑っているが、酒が入っている今宵はよりいっそう陽気だ。
針仕事の時は屋敷の天井に合わせて慎ましやかに縮んでいる彼女らも、喧噪にあてられて本性が見え隠れしている。
本来彼女らは塀の高さを越えるほどの大女で、今まさに体が膨らんで糸雨の背丈を越しそうである。
ヒトに悪戯したいのは妖のさがでもあるので、特に今夜のような遊宴の日は糸雨は恰好の獲物だった。世慣れていない見目の良い若い男は、女妖にとってすこぶるからかい甲斐があるのである。

齢十八の糸雨にとって、娘子の扱いは気恥ずかしくも手に余り、戸惑いしきりだ。
主も早く止めてくれればいいものを、彼は袖の中で緩く腕を組んで、にんまりと笑みを浮かべたまま黙って見ている。
困る糸雨を愉しむようにしばし眺めていた主は、袂から片手を出して軽く振った。

「おぬしら、戯れはそこまでにせよ。さて糸雨、そろそろ参るぞ」
「はい」

主に止められたら娘らも手を引っ込めざるを得ない。ようやく解放された糸雨はホッと息を吐いて、主の傍らに立った。

「合口は忘れておらぬな?」
「ええ、ここに」

酒壺を持った手で羽織をめくる。袴帯に差してある護身の匕首を見せれば、主は満足げに頷いた。
帯刀を忘れたことなど一度もないのに、共に屋敷を出る際にはこうして必ず訊いてくるのだ。

「では皆の者、あとは頼むぞ」

主が傲然と命ずると、狸らも山彦たちも背筋を伸ばしてそれぞれに気負った返答をした。
「いってらっしゃいませ。主様、糸雨様」「道中お気をつけて」――門前にいる者共の威勢の良い送り出しを受けながら、二人は連れ立って山中に歩を進めた。

糸雨は主の斜め後ろにぴたりと張りついてその背を追った。
これだけ月が明るいと提灯も必要ない。しかし主はゆったり歩いているようでうっかりすると置いていかれるので、彼から決して目を離してはいけない。
羽織の袖に手を差し入れたまま歩いている主がふと上を向き、振り返らずに話しかけてきた。

「今宵はなんと見事な佳月よ。そうは思わぬか、糸雨」
「はい。すごく綺麗です」

糸雨は空をちらとも見ずに答えた。月も美しいが、それより心震えるのは目の前の彼だ。そんな気持ちが大いに込められた言葉だった。
主の長い髪が、月光を受けて殊更に柔らかい艶を湛えながら揺れる。
紅葉に似せて選んだ赤、黄、緑の三色の組紐が、その黒髪を華やかに飾っている。当然、この紐を選んだのも彼の髪を結ったのも糸雨である。月夜に映えてより美しく、己の手仕事ながら糸雨は自賛した。

本当に、溜め息が出るほど綺麗だった。月下で見る主は昼とはまた違った魅力がある。それは糸雨が、夜に二人で歩く時間を特別に感じているせいでもあった。
とりわけ今宵はまた格別だ。年に一度の十三夜の観月会なので、どうしようもなく胸が躍ってしまう。

――風流人の主は四季折々の行事を好み、欠かさず行っている。それらは娯楽の少ない山中において、住人らの間で殊に重んじられていた。
月の満ち欠けでだいたいの季節を計っているらしい主に対し几帳面な糸雨は、居候を始めた日から起算して自分なりの暦を毎年作り、行事をその都度記録している。
それというのも、前日になって突然予定を告げられたりするので、慌てて準備するはめになったことが何度もあるからだ。
現代基準の暦ではあるが、年間の予定を事前に主や周りの者に訊いておけば慌てることもない。そうしているうちに、いつしか行事に必要なものを揃える役目を糸雨が担っていた。
すると、それにともなって必須となる稲荷屋との取引も、最近は糸雨が毎回前に出て主の名代として行うようになった。近頃ようやく取引方法が整ってやりやすくなってきたところだ。

何はともあれ秋に行われる月見もその行事のひとつで、十五夜と十三夜の対の観月会は屋敷を上げてたいへん盛り上がる。片月見は縁起が悪いということで、九月、十月の両日は必ず宴が催される習わしになっていた。
観月会の日は一晩中屋敷の門を解放し、山中の皆が出入り自由の酒宴が開かれる。
さすがに主の居である屋敷では物の怪たちも大人しく、(彼らなりに)行儀良く宴を楽しむのだ。

ただ、十五夜は季節柄曇ったり雨天であったりする年も多い。そうなると確実に晴天が望まれる『後の月見』の方が本番と、心待ちにする者が大半なのであった。
十月の下りはちょうど紅葉の時期でもあり、月を見上げた際に木々が色鮮やかに彩りを添えるのも、宴をより活気づけてくれる。
それがまさに今夜のことであり、山中の誰もかれもが浮かれていた。

そんな玲瓏たる月夜の中、想いを寄せる相手とともに夜道を往くのは糸雨にとって、否、健全な男子にとっては心沸き立つ状況だ。……その目的地がよりによって一ツ目鬼のもとでなければ。

不吉を好む一ツ目鬼は、他の者と逆で片月見しかしない。
完璧に整った中秋の月はたいそう下品だと蔑み、十三夜の観月にしか参加しないのだ。曰く、満ちたものより欠けたものの方が美しいのだとか。
魑魅魍魎の頭目である一ツ目鬼は主の屋敷には足を踏み入れない。両者の間でどういう取り決めがあるのか糸雨は知らないが、彼が屋敷を訪れることはないのである。
傲慢な気質の彼のことであるので、単純に他の妖と慣れ合うことを嫌っているだけかもしれないが。
そうなると、夜回りがてら主と糸雨で宴の酒を彼に届けるのが慣例になっているのだった。

もちろんそれは一ツ目鬼だけでなく、場を動くことのない岐(くなと)の神へも同様である。彼への届け物だけなら糸雨は大歓迎なのだが。
二人は先に岐の神のもとへ向けて山道を下った。
篝火に照らされた麓の小屋に辿り着くと、彼はいつも通り変わらずそこにいて、いつも通りの態勢で太刀を構えていた。
主が岐の神に二、三、話しかけている間に糸雨は八足台を用意して、対面になるように床几をもう一つ置いた。

床几に腰かけた主が岐の神と意味不明な言葉遣いで話しているのを聞き流しつつ、小屋の奥に設えられた台で風呂敷包みを解く。
包みの中には朱漆に金蒔絵の重箱と、同色の銚子、平盃が重ねて二つ収められていた。
酒壺から銚子に酒を移してから、風呂敷は小さく畳んで懐にしまった。重箱の蓋を開け、盃とともに八足台に並べる。
一の重には真っ白な団子が並び、二の重には蒸かした芋に川魚の炙り焼き、三の重には栗の渋皮煮や煮豆などが詰まっている。賄方が腕を振るった月見団子とつまみだ。もちろん味も確かである。
銚子から二つの器に酒をなみなみ注いだところで、談笑していた主が岐の神に盃を勧めた。

「さ、一献」
「かたじけない」

片方の盃の中の澄んだ酒が、十三夜の月を映したまま手も触れずにみるみる減っていく。いつもは彼にどぶろくを供するが、宴の今宵は清酒である。
まるで月を飲み込むように酒が消えてゆき、底が見えたら間を空けず二杯目を満たす。
もう一つの盃を手に取った主も中身を空にしたところで、糸雨は彼の方にも次の酒を注いだ。
ところが主はそれを飲まず、糸雨に向けて機嫌良さげに盃を差し出したのだった。

「おぬしも飲むがよい、糸雨」
「えっ、はい!?ええと、あの、はい……じゃあ、一杯だけ」

急に言われて糸雨は一瞬取り乱した。しかし大きく息を吸って気を落ち着ける。
狭間では十代だからといった道理はあまり意味がないので、主に勧められた時だけ少しばかり相伴にあずかることにしている。それにしても彼と同じ盃というのは今までなかったが。

主が先に使った盃だと思うと頬が熱くなる。彼にとって深い意味はないだろうが、突然降って湧いた幸運に緊張か期待か、飲む前からごくりと喉が大きく音をたてた。
朱色に艶めく盃に口をつけて呷れば、すきっとした辛味が喉を下っていく。あとから芳醇な香りが鼻腔に広がり、糸雨はほうと大きな吐息を零した。
不思議なことに、相伴で飲む酒は一切酔いを感じない。ゆえに糸雨が酒に強いのかそうでないかは自覚がない。
二十歳を越えてから酒盛りに加わればその判別がつくのだろうが、今はまだどちらとも言えなかった。ただ、主が口をつけた盃から飲む酒は、後味が水蜜桃のごとく甘かった。

「ご馳走様です」
「うむ。良い良い、なかなかの飲みっぷりであったな」

上機嫌の主に恭しく盃を返せば、次の酌を催促された。
自分が使ったばかりの器で彼がまた飲むのかと思うと、糸雨は妙にドキドキして手元が覚束なくなりそうだった。
奇跡的に一滴も零すことなく酌を終えれば、岐の神の盃もいつの間にか空になっていた。彼は三杯目はすぐには飲まないはずなので慎重に時間をかけて酒を注ぐ。
その間に主は何の衒いもなく盃に唇を寄せると酒を一口含んだ。彼の喉仏が色っぽく上下に動く様を横目で盗み見る。

当初は主のことを畏敬に近い感情で慕わしく思っていたものを、ずいぶん前からこんなふうに下心満載の目で見るようになっていた。
ちょっとした仕草や衣の奥に垣間見える素肌など、どれもが糸雨を狂おしい気持ちにさせる。
客観的に見て、主のどこをとっても人の劣情をいたずらに刺激するような装いや態度など少しもない。なのに、美しく整ったその容姿と優雅な所作のせいか性的な色気を感じてしまう。
同性相手なのにと悩んだ時期はとっくに過ぎて、今や、心の中で想うだけなら自由だろうと開き直ってしまった。

酔っ払った主が頬を赤らめて目の前に迫り、口移しで酒を飲ませてくれる――などというありもしない妄想に糸雨が耽っている間に、彼は二杯目の酒も飲み干してしまった。

柔らかく色づいた唇から酒気を帯びた息を静かに吐いた主は、盃を台上に戻しておもむろに立ち上がった。
「今宵はこのへんで。また来るゆえ」と声をかければ、岐の神もかすかに頷いた。
盃と酒器、酒壺ひとつと重箱を台の上にそのままにして、糸雨は残りの酒壺だけを手に持って岐の神に丁寧にお辞儀した。
彼は目の前に誰かがいると食事をしないそうなので、興を削がないよう早々に立ち去ることにする。
そうして小屋を離れた糸雨と主は、一ツ目鬼のところへと足を向けた。

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