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色づいた落ち葉が敷きつめられた山道を主が颯爽と歩く。屋敷での遊宴中もしこたま飲んでいたはずだが、まったく酔いを感じさせない足捌きである。
なんでも、酔いは多少感じるものの前後不覚に陥ることはないという。だからといって酒好きかといえばそうでもない。普段は茶を好んで飲んでいるほどだ。
こういった宴の席で飲む酒は好きだが、いつも飲みたいわけではないらしい。しいて言うなら一ツ目鬼に付き合って飲むくらいだとか。

「…………」

糸雨の胸にちくりと痛みが刺す。
月に数度の夜の見回りの日、主は糸雨を連れて行くこともあればそうでない時もある。それというのも、糸雨がこうして一晩中起きていられるようになったのが実はここ一年ほどのことだからだ。
狭間に肉体が馴染んだのは早い段階であったが、それでも長く活動できる時間が増えて安定したのは最近である。よって夜の見回りの際に、多くお供できるようになったことが糸雨は正直かなり嬉しいのである。

が、糸雨が供に付いていない日に、主は一ツ目鬼の館に行くことがあるという。そのとき彼らは酒を酌み交わしているらしい。
そこで二人が何を話しているのか、どんなことをしているのかは分からない。しかし彼らが親密な時間を過ごしていることに焦燥と嫉妬を感じる。
なにしろ一ツ目鬼は主に対してたびたび卑猥な言葉を投げかけるのだ。そういう目的をもって主を館に誘っているのは明白で、それを思うと気が気でない。応じる彼ではないと信じているが。
糸雨は自分がそういった目で主を見ているゆえに、他者もそうであるはずだと疑心暗鬼に取り憑かれている。彼が側にいる間は平気でも、離れているともう駄目だ。

「……雨。これ糸雨。糸雨?」

主に呼ばれてはっと我に返った。迂闊にも考え込むあまり彼の呼びかけを聞き逃してしまっていた。
振り返りざまに主の歩みが緩やかに止まれば、糸雨もつられて足を止めた。

「あっ、はい!すみません、なんですか主様」
「呆けてどうした。よもや先の一杯で酔ったのではあるまいな?」
「い、いえ、大丈夫です。……あの、ここは?」

ぼんやりしていたのを茶化されたのが恥ずかしく慌てて話題をそらす。気がつけば、目の前に二階建ての洋館が立ち塞がっていた。
突如として現れたそれは和洋折衷といった瀟洒かつ立派な建物で、こんなものがこの山にあったことなど知らなかった糸雨はあんぐりと口を開けた。
さらにすぐ近くからハッハッと獣の荒い息遣いが聞こえて、唇を引き結んで目を主の前方に向けた。するとそこには、大きな黒い山犬がいるではないか。

黒犬は息を荒げながら舌を出してこちらを振り向いている。血走ったその目に瞳孔はなく、白目だけが虚ろに見つめてくる。そのうえ犬というよりは狼のような野性的な獰猛さを醸し出していた。
一ツ目鬼の飼い犬だ。いつの間に同道していたのか、糸雨は少しも気取れなかった。
そうして呆気に取られているうちに、聞き覚えのある声が森にこだました。

「ごきげんよう貴兄方!今宵は素晴らしい観月日和ですな!」

ざらついた耳障りな低い声が聞こえて、糸雨は眉間に皺を寄せた。それでも声の主を探して視線を巡らせれば、洋館の正面、張り出した玄関ポーチの屋根上に黒い長躯の影を見つけた。
ポーチの上に悠然と立った一ツ目鬼がこちらを見下ろしている。書生風の着物に長い黒マント、山高帽を被った彼は片手に黒いステッキを携え、洒落者を気取った風体だ。

主は嘆息混じりに彼を見上げつつ、山犬の耳の付け根を撫でた。
山犬が甘えるようにクゥンと鳴いて頭を主の掌に擦りつける。

「かような場所に私を呼びつけるなぞ、どういった料簡か。一ツ目よ」
「『こんなところ』とはご挨拶ですな、主殿。今宵の美しい月に似合いのお二方をもてなして差し上げようと、ご足労いただいた次第ですが?」

ぬけぬけと言い放った一ツ目鬼は黒い山高帽を脱いで胸に添えると、慇懃な態度で腰を折った。
彼は春夏の季節はカンカン帽を被り、秋冬になると山高帽に変える。だというのに、分厚い黒マントを一年中変わらず羽織っているのは理解に苦しむ。
頭頂部の丸い紳士然とした帽子を被り直した一ツ目鬼は、ポーチの上からひらりと飛んだ。紅い一本歯下駄で軽やかに着地すると、主に向かって斜めに一礼した。

「ようこそ、我が館に。どうぞお入りください」
「む……」
「どうされましたかな?いつもならば躊躇うことなく入ってくださるというのに」

ねっとりと情感込めて言う一ツ目鬼に主は渋い顔をしたかと思うと、次いで糸雨に目配せした。
彼の物言いたげな視線を受けて糸雨も困惑気味に顔を彼に向ける。それから糸雨は、月光を遮る二階建ての建物を見上げた。

これが一ツ目鬼の棲み処――彼がたびたび『我が館』と口にするのを聞いていたものの、こんな場所にあったとは知らなかった。周囲の目印から察するに、主の屋敷からそう離れていないのではないだろうか。
少なくとも昼間は見たことがない。一ツ目鬼が目覚めている間だけ出現する仕組みなのかもしれないが。
明月に照らされているおかげか、趣ある小洒落た洋館に見える。和の風情を残した洋風の建物というのは昨今なかなかお目にかかれるものではない。まして狭間に来て以来、和様の物しか見ていなかったのでこれ以上なく新鮮に感じる。
ただし、壁一面をびっしりと覆う蔦が陰惨な印象を強めている。
洋館を興味深げにチラチラと気にする糸雨を見た主は、しかめ面で首を横に振った。

「……糸雨がおるゆえ、今日のところは」
「ふぅむ、何度もお誘いしているというのにそうやって毎度はぐらかされるのは、如何に貴殿といえど、小生いささか気に入りませんな。ならば糸雨殿に直接お伺いしてみようではありませんか」
「えっ?俺?……ですか?」

急に話を振られた糸雨は驚いて思わず自分を指さした。追い打ちをかけるように一ツ目鬼がステッキの杖頭で糸雨を指す。

「ぜひ糸雨殿も我が館に招待したいと主殿に訴えていたのですがね、彼はなかなか首を縦に振らないもので。如何かな?糸雨殿」

糸雨は主の決定に従うのみであるので、彼が否と言うなら否だ。むやみに糸雨の行動を制限する彼ではないので、そうする理由が何かあるのだろう。
けれど、自分のいない間に主と一ツ目鬼が二人きりでこの館にいるという状況ははっきり言って面白くない。彼らから爪弾きにされている疎外感と悋気が混ざり合ったもやもやとした感情から、つい頷いてしまった。

「俺は、中を見てみたいです」

糸雨がそう告げると、一ツ目鬼は閉じた目を笑みの形に歪めてステッキを一振りした。

「ほら、糸雨殿もこうおっしゃっているではありませんか。せっかくの十三夜なのですから、皆でとくと語らいましょう」

言質を取ったとばかりに勢いづいた一ツ目鬼がすかさずパチンと指を鳴らすと、館の扉が内側からゆっくり開いた。
ギィィ……と不快な音を立てて扉が両開きに開放される。勝手に開いたのかと思えば、中から開けた者がいたようだ。
それを見た瞬間、糸雨は「ひっ」と引きつった声を小さく上げた。「中を見てみたい」という先刻の台詞を早くも後悔する。

開いた扉の内側に、手首から先のない手の群れがびっしり張りついていたのだ。
血管の浮いた青黒いその手が扉の片側ずつ十本ほどが張りついている。五指がもぞもぞと蠢いている様は、さながら特大の鬼蜘蛛のごときおぞましさだ。
糸雨は一瞬、数年前に遭遇した手の群れを思い出した。しかしあの時の白く浮腫んだ手と違い、扉に貼りついているのはどれも筋張った無骨な手だ。つまり男の手である。

「……糸雨?屋敷に戻るか?」
「い、いえ。大丈夫です」

主は慣れているというように顔色一つ変えていない。想い人に情けない姿など見せるものかと強がって、糸雨もまたどうということもないというふうに胸を反らした。
苦笑した主が先導して玄関ポーチに入り扉を通る。若干のトラウマを刺激されつつ彼のあとについて手の群れを横切り、糸雨も館に一歩足を踏み入れた。
その時、うなじのあたりがざわりと粟立った。

「……?」

ほんの刹那感じた異質な感覚に、糸雨は思わずうなじを撫でた。その正体を探すように顔を後ろに向けようとしたところで、視界の端に手の群れが映って急いで正面に向き直った。
今のはおそらく気味悪さからきた悪寒に違いない。そう思って口直しに主に目をやれば、彼は探るような表情で糸雨を見上げていた。視線が絡み、いっとき見つめ合う。
しんがりの一ツ目鬼が山犬を伴って玄関ホールに入った直後、バタンと大きな音をたてて扉が閉ざされる。その音で二人の視線が解けた。

館の中は内装も洋風で統一されていた。小規模ながら旧華族の邸宅といった贅沢な造りだ。
玄関ホールには一ツ目鬼の額の眼とよく似た暗赤色の絨毯が敷かれている。その先に伸びる寄木張りの廊下にも誘うように絨毯の道が続く。廊下の奥は真っ暗で、先がどれほど続いているかは窺えない。
天井から下がるシャンデリアに揺れる灯はすべて蝋燭であり、蝋が溶ける臭いがする。こんなにも火が燃えているというのに室内は真冬のように冷え冷えしている。重い冷気に糸雨は身震いした。
糸雨の背後に立った一ツ目鬼は、ステッキの先を床にドンと打ち付けてホールに響き渡る大声を張り上げた。

「諸君!主殿と糸雨殿のご来訪だ!」

不意に、カチャ、カチャ、と硬いものが擦れる音が耳に届いた。廊下の奥、暗闇の中から何かがやってくる。
音の正体は三体の骸骨だった。骨が動いている程度、妖や物の怪にすっかり慣れた糸雨は思ったほど驚かなかった。
それにしても奇妙な骸骨だ。動いている時点で十分奇妙ではあるが、大きさも形も様々な骸骨は、服を着て歩いていたのだ。その服はよく見慣れたもの――黒い学生服である。

「……なんで学ラン?」
「おや、気になるかね?あれは秀逸だろう。男子の肢体を美しく飾り、見る者の目を楽しませてくれる。それとも糸雨殿は真裸の方がお好みかね?」

骨が動いていることより一ツ目鬼の悪趣味さに糸雨は胸が悪くなった。骸骨を真裸と表すのはどうかと思うが、そう言われると学生服でも纏っている方がましのように思えた。
詰襟骸骨たちはこの館の下僕のようで、三体のうち一体は山犬を連れていずこへかと消えた。
別の一体は一ツ目鬼の黒マントや帽子を受け取ったりしている。主は手荷物がなく、糸雨も持っているのは酒壺だけであるので詰襟骸骨の世話は必要ない。糸雨の心情としては、薄気味悪いので世話をされること自体遠慮したいが。

どうやら彼らは喋れないらしく、白手袋をつけた手でぎこちなく身振り手振りをするだけだった。
館の案内役らしい残りの一体の骸骨が廊下の奥を恭しく指し示す。珍しく帽子もマントもない書生姿になった一ツ目鬼が、「ついて来たまえ」と言いながら先頭に立った。
一ツ目鬼のあとを主が慣れた様子で歩く。糸雨は彼のすぐ傍に付き従った。何かあれば彼の盾になれるように。本音としては未知の不安を拭うように。

真っ暗な廊下は、一ツ目鬼が進むごとに明るくなっていった。廊下の両側の壁に燭台が等間隔に設えられており、それらが一ツ目鬼の歩みに合わせて順に点灯しているのだ。
廊下を歩いている最中、どこからともなく数人の男のブツブツとした不穏な呟きが聞こえてきた。ときおり足元に生温い風が掠めていく。
背後からぺたぺたと裸足が歩くような音が追いかけてきて、姿はないのに足音だけが多い。
主がそれらを何も気にしていないということは、この程度は普通のことらしい。

ついに廊下のつきあたりが見えたと思えば、途中の左側にかね折れ階段があった。
階段の手すりには唐草模様の透かし彫りが施され、段に赤い絨毯が敷かれている。しかし一ツ目鬼はそちらには目もくれず、まっすぐ先に行く。
糸雨は階段の前を通りすぎる時、上階がどんなものかと興味をそそられて何げなく横目で見た。

「……うわっ!?」

視界に入ったものにぎょっとして、悲鳴を上げながら体を仰け反らせた。すると、すぐ傍にいた主にドンと肩がぶつかってしまった。
鉄柱のごとく主はびくともしなかったが、怪訝そうな顔で足を止めると糸雨の視線を追った。そして深く眉をひそめる。

階段は十段ほどのところで直角に折れ曲がり、踊り場となっている。その折り返しの狭い空間に、天井から等身大の何かが吊り下げられていたのだ。
『等身大の何か』と糸雨が思ったのは、それが人のようで正しい人の形とは違っていたからだ。
まず、それは逆さにぶら下がっていた。さらに人体にあるべきものがない――首から先がなかったのだ。頭部のない人間が、逆さ吊りになっている。
荒縄で全身をきつく締めつけられた首無しのそれは、艶めかしい紅色の襦袢一枚を纏った男の体だった。未成熟な体つきからして、糸雨よりも幾らか年下の少年に見えた。

踊り場を見上げたまま静止した糸雨と主に、一ツ目鬼が今気づいたとばかりに芝居がかった仕草で振り返り、大仰な声を上げる。

「おっと、イヤハヤお見苦しいものをお見せして申し訳ない。なに、昨晩その者が粗相いたしましてな、折檻の最中というわけですよ。どうぞお気になさらず」

首無しの少年は振り子のようにかすかに揺れており、ぎし、ぎし、と縄が軋む音がする。
頸の切断面は青白い皮膚に覆われていて肉や骨は見えていないので、少しだけ不気味さが軽減されていることだけが救いだ。
その場で固まってしまった糸雨に対し、主はすぐさま階段を上ると、踊り場で首無し少年に向けて人差し指をすっと軽く上に動かした。
少年の全身を食い込むほどきつく縛りあげていた太い縄が、その動作ひとつで縦一直線に切れる。拘束を解かれて力なく落下してきた体を主は軽々受け止めた。

「一ツ目よ……そなたの小姓といえどかような仕打ち、宴の日に止さぬか」

ぴしゃりと言い放った主の厳しい叱責に、一ツ目鬼がつまらなそうに鼻白む。

「これはこれはお優しいことで。貴殿がそうおっしゃるのならば、折檻はここまでにしておきましょう。――下がれ、口無し。慈悲深い主殿に感謝したまえよ」

主が華奢な体をそっと床に下ろすと、クチナシと呼ばれた少年の、頭部があるべき場所に小ぶりな火の玉が浮いた。そしてどことなく申し訳なさそうに腰を折って主にお辞儀をする。
死体のようだと思っていた少年が普通に動き出したことに糸雨は内心慄いた。
しかし踊り場でふらつく口無しが糸雨にも行儀良く一礼したので、糸雨は澄まし顔で頷き返した。

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