9・37《朝》

※本編49話までのネタバレが含まれますので、未読の方はご注意ください。

高校時代の誠二。





まぶたを開ける――それがオレにとっての『朝』だった。目が覚めたときが朝、それ以上でもそれ以下でもない。
目覚ましのアラームなんて鳴らない、家族の誰かが起こしに来るわけでもない。本やドラマなんかでよく見るような『普通の朝』の風景は、オレの日常にはなかった。

オレが起きてまず確認するのはスマートフォンだ。通知だけを頼りにこの日の行動を決める。
そこに表示されたメッセージ通知に自然と口元がほころぶ。メッセージ発信元は『彰浩』。
もっとも、今オレがこの端末でやりとりをしているのは彼一人しかいない。中学時代、それなりにいたはずの友達と連絡が途絶えて久しい。
オレが、彰浩にしか応答しなかったからだ。

この端末を操作するのも本当はつらい。慢性的な頭痛と吐き気で画面を見続けるのが厳しいし、そうなると指がうまく動かせない。
それでも彰浩にだけはなんとか返事をしていた。
メッセージ内容は他愛のない話。今日の授業で当てられそうでダルいとか、昨夜の音楽番組に出ていたバンドの話とか。それがオレにとってなにより嬉しい。まだ生きていていいのだと思わせてくれる。

そこではじめて現在時刻を見た。
……九時三十七分。もう学校はとっくにはじまっている。

彰浩からの送信時間は早朝。部活の朝練前に送ってくれたみたいだ。最後に添えられた『そっちはどう?』という文面を見て、少しの間考えた。
それから数分後に、『おはよう。朝は忙しくて返事できなかった、ごめん。古典だったんだけど、授業中眠くなって大変だった。』と送る。
我ながら嘘が上手くなってきたと思う。今日、古典があるかどうかもよく知らない。

……ああ、また来た。ずきん、ずきん、と鼓動のリズムに合わせてだんだんと強くなる頭痛。そして全身に重石を乗せられているような感覚。
寝ている間と起きた直後はマシなのだが、意識がはっきりするとすぐにこうだ。
昔はそれほどでもなかった。なのに今は、起き上がることも難しいくらいの症状に見舞われる。頭痛に限らず、体の不調が日毎ひどくなってきているのを感じる。

息苦しい。はっ、はっ、と浅く呼吸を繰り返すが追いつかない。どうしてここはこんなに酸素が薄いんだろう。
ずきずきと苛む頭痛に耐え切れず目を閉じると、きぃんと耳鳴りがする。どこかから工事現場の機械音が響いてくる。自転車のベルの音や、鳥のさえずりまで耳をつんざくようだ。
喧しい。静かにしてくれ。どうして世界はこんなにうるさいんだろう。

寝返りを打って数分後に、握りこんだスマホが短く震えた。
『彰浩』の文字を見て意識がそっちに集中したら頭痛が和らいだ。脳内で彰浩の声で文章が読み上げられる。
小気味いいテンポの喋り方。明るい声質。声変わりしてもそれは変わらなかった。

『おはよー。俺は朝イチ英語で当てられて散々だった。誠二がいてくれたら教えてもらったのに!』

オレもそう思うよ、ずっと彰浩の傍にいられたら良かった。ずっと、お前の隣に――。

「……会いたいな……」

何百、何千回と繰り返したこの台詞を一人つぶやくのも、いつものことだった。


この時間、家の中には誰もいない。父親は仕事でいないし、母親は近頃家に帰って来ない。両親は離婚秒読みで別居状態だ。
兄は国立大学に通っていてそっちで一人暮らしをしてるから、そもそもここに住んですらいない。
広々とした家の中は人の気配がない。夏のはずなのにどこか底冷えがする。生活感が著しく欠如しているからか。
通いの家政婦が隅々まで清掃をしているので家の中は常に綺麗だ。潔癖すぎるほどに。
家政婦とは一度も喋ったことがない。顔を合わせたところで、オレはいないものだと思われてるらしい。父親からそう聞いているんだろう。『引きこもりで出来損ないの馬鹿息子は無視しろ』とでも。

おそらく冷蔵庫の中には家政婦の手料理が並べられているのだろう。温めたらすぐに食べられるようなものが。
けれどオレはそこを素通りして洗面所に入った。
顔を洗ったあとに鏡を見る。そこには着古したスウェット姿の、陰気な顔つきの男が映っていた。

「……伸びてきたな」

髪も、髭も。まばらなざらりとした髭に、肩につきそうなほど伸びた髪。
自分の部屋に一旦戻り、以前コンビニで買ったはさみを棚の中から取り出した。
洗面所でスウェットを脱ぎ、頭髪にざくざくと適当にはさみを入れる。最近前がよく見えないと思ったら、こんなにも髪が伸びていたのか。
白い洗面台に落ちる髪は枯葉に似た黄褐色だ。どれほど伸びようと、この色は変わらない。そして憎らしいほどに艶がある。

夜になればまた家政婦が来るはずだから、散らばった髪をそのままにして風呂場に入った。
洗面台に落とし損ねた髪をシャワーで洗い流しつつ、髭も剃って体まで洗った。

洗面所に備え付けられたオレ専用の棚を開けると、そこには自分で洗濯したタオルや下着が入っている。
たたんでおいた下着を取り出そうとして、枚数が少ないことに気づいた。おおかた家政婦の仕業だろう。
手癖の悪い家政婦はたびたびオレの物をくすねているらしい。そこにどんな意図があるのかは知らないが、ただただ気持ち悪い。
他にも家の金品の類が盗まれているかもしれない。そのことを確認する気も親に報告する気もないが。オレにとってはどうでもいいことだ。

吐き気を抑え込んで下着を穿いた。それから、ウォークインクローゼットに収納されている制服を取り出す。
クリーニングのビニールがかけられた夏服は、まだ新品同然だった。それもそのはず、普段あまり袖を通していないから。
それでも入学当初は毎日律儀に高校に行っていた。彰浩みたいな友人ができるかもと期待して。
けれど望んだものは何も得られず、やがて週に二、三日の登校になり、進級してからは週一になって――今は月に一度だ。

早く家を出たかった。なのに両親が世間の目を異様に気にするものだから、高校卒業まで自由になるのを許してくれない。世帯収入が少ないと周囲に疑われたくない親は、アルバイトなど言語道断だと厳しく禁じた。
ここまで家庭崩壊しているのに滑稽だ。両親ご自慢の優秀な兄がいるんだ、オレなんかいなくなっても構わないくせに。

下着姿のまま、のろのろとした足取りで自分の部屋に戻る。
冷蔵庫のなかの料理は気持ち悪くて食べたくなかったから、深夜にコンビニで買ってきた惣菜パンを烏龍茶で流し込んだ。
味が濃いばかりで特にうまいと思えないそれらを腹に収めたあと、クリーニングのビニールを破って制服を着た。

――今日、久々に学校に行こうと思い立ったのは嘘のバリエーションが尽きてきたからだ。

彰浩は、オレが当然のように毎日学校に行って、至極まっとうな生活を送ってると思っている。
本当につまらないプライドだと自分自身に呆れるけれど、彰浩にはそう思っていてもらいたかった。
『親友』のオレが引きこもりの不登校状態なんて知ったら、彰浩はきっとがっかりする。なによりこんな自分の姿を、彼にだけは知られたくなかった。

だから、オレが学校に行くのもほとんど彰浩のためだった。それ以外に学校に行く必要性をあまり感じない。
勉強は、家で教科書を開いて自力でやっている。つまづいたところはビデオチャットでフレンドの誰かに聞いたりするから、特に不便だと思わない。
学校行事なんてもってのほかだ。不調を抱えているのに他人に合わせるのが苦痛でたまらない。
体調が悪くなったらいつでも横になれるこの環境のほうがはるかに楽だ。

カバンを開いて少し考える。今日は何の授業があるんだろう。
しかしすぐにどうでもいいと思い直して、スマホと財布と電車の定期券、ペンケースとノート一冊、気休めの鎮痛剤、それとハンドタオルを入れてファスナーを閉じた。
部屋を出る前にふと足を止めた。はさみを取り出したあと、棚の引き出しが開きっぱなしだった。
引き出しを閉めようとして、そういえば、と思い出す。

一ヶ月前に学校に行ったとき、帰りに変な店に入った。そこで目に留めた『願いが叶うブレスレット』。
どう考えても子供騙しの硝子玉の安物なのに、手に取った瞬間、まるで磁石のように吸い付いてきた。
値段がいくらだったかも今はもう思い出せない。ただ落としてしまわないようカバンの中に入れて、何事もなく帰宅した。
そうして購入したきりつけることもせず、引き出しの中にしまい込んだままその存在を忘れていた。

引き出しの奥のほう……ああ、あった。青緑の、透き通った硝子玉が嵌まっているチェーンブレスレット。
この腕輪は願いを何個まで叶えてくれるんだろう?――目の前にぶら下げながらそんなことを考える。

「オレは――」

本気で馬鹿なことを言ってしまいそうだったので、そこで口を閉じてブレスレットを手首に着けた。藁にでも縋る思いで、お守りがわりのつもりで。
リビングを通りかかったとき、テーブルの上に置かれている茶封筒を見つけた。父親からの小遣いだ。
家政婦に中身を抜き取られているかもしれないが別に構わない。それほど使うあてがあるわけじゃないし、今まで受け取った金だってたいして減っていないから。
中を見ないまま封筒をカバンの中に押し込んで、オレはようやく家を出た。

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