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父さんに外泊の連絡をしたら、特に詮索されずに了承の返事が来た。妹と違ってこういうとき放任なのはありがたい。
碧翔も誰かに電話をしてひと言で切った。本当はこのあと自治会青年部の酒盛りに加わる予定だったけど断ったとのこと。
そうして碧翔の車の助手席に乗せられて、到着したのはレトロな一戸建てだった。
「あ、てか家の人いるんじゃ……」
「いないよ。僕、ここで一人暮らししてるんだ。ここ親戚の家でさ、何年か前までばあちゃんが一人で住んでたんだけど、県外の娘夫婦と同居するっていうんで空き家になったんだよ」
それを、家の管理も兼ねて碧翔が借りてるんだという。家は人が住んでいないとすぐ朽ちるから。
とはいえ居住スペースとして使っているのは一階部分のみ。二階は掃除のときにしか行かないそうだ。
「お兄さん上がって」
「じゃあ、失礼しまーす」
ガラガラと引き戸を開いた碧翔のあとについて、広い玄関スペースで下駄を脱いだ。
履き慣れない下駄のせいで、鼻緒から開放されると血の巡りが良くなって足がひりひりとした。
「あれ?鼻緒のとこ擦れてる。痛そうだね」
「うん、慣れなくて。まあ別にこんくらい平気だけど」
「そう?お兄さん、中入って。好きなとこ座ってて」
促されて居間にお邪魔した。碧翔はお茶を淹れてくると言って法被を脱ぎつつ台所に行ったもんだから、その間にきょろきょろ見回した。
畳の和室は広く、飴色の家具が置かれていた。そこにパソコンや座椅子といった新しいものもあり、部屋によく馴染んでいる。
全体的に品良くまとまっていて、古くさいというよりはモダン。ここで碧翔が普段の生活を営んでいるんだとすぐわかる。
ああ、本当に生きてるんだ――斜め上のそんな感想が浮かんだ。
数分前まで無人だった室内は空気がこもっていて暑く感じた。
縁側があったから、別室の碧翔に向けて大声で「窓開けていい?」と聞いたら、「いいよ」と声だけが返ってきた。
サッシを開けた瞬間、夜の湿った空気が部屋に流れ込んでくる。大きく息を吸い込んで草木の匂いを味わった。
板の間にあぐらをかいて空を見上げる。居間の照明は縁側まで届ききらずに薄暗い。おかげで夜空もよく見えた。
網戸越しに月と星がくっきりと見える。若干雲がかかっているところもなかなか趣があった。
初めて来た家なのに居心地がいい。それはきっと碧翔が本当にこの場所が好きで、そういう空間に作り上げてるからなんだ。
車の音も電車の音もしない。草木が揺れる音と虫の音が騒がしいのに、静かだと感じる。
昨日から今日にかけて歩き回ったり驚いたりしたせいか、ドッと疲れて体が重い。
ぼんやり外を見ていたら隣に碧翔が座った。傍らに置かれた丸い盆に、氷の入ったグラスが二つ乗っている。麦茶じゃなくて緑茶だ。
「喉渇いてない?よかったら飲んで」
「ありがと。めっちゃ渇いてる」
水出し緑茶は冷たくて甘くて、夢中でがぶ飲みした。昨日、八年前の碧翔からもらった水と同じくらい美味しかった。
飲み終わってもまだ物足りなくて、氷をひとつ口に含んで舌の上で転がした。
「涼しいな」
「朝晩はね。お盆過ぎればもっと涼しくなるよ」
気がつけば近くで扇風機が回っている。それと蚊取り線香の匂いも漂ってきた。
こんな昔ながらの和室なんて馴染みがないのに、ホッとして、そして懐かしいと思ってしまうのはどうしてだろう。
「いいなこの家。住みたい」
ぽろりとそんな言葉が口をついて出た。すると、床に置いた手に体温が重なった。手の甲を指でなぞられ、そのまま俺の手に絡んでくる。
びっくりして、小さくなった氷が喉の奥に滑り落ちた。
横を向いたら真剣な顔の碧翔がいた。年上らしい精悍な表情だ。
すっかり気を抜いていたから、突然のことに鼓動が速くなった。だけど雰囲気を察して、絡んだ指を俺もギュッと握り込んだ。
しかし碧翔はすぐに手を解くと、ポケットから小さいボトル容器を取り出した。
ドラッグストアでもよく見かける軟膏薬だ。
「足出して。傷に塗ってあげる」
返事も聞かずに、碧翔はあぐらをかいている俺の足首を掴んだ。仕方なく彼のほうを向き、膝を立てて足を差し出した。
碧翔が軟膏を掬って、足の甲の赤く擦れた箇所に薄く塗りつける。
なぞるような動きがくすぐったくてもぞもぞと膝を動かした。彼の指先が熱い。
薬を塗る作業はほんの数秒だった。しかし碧翔の手はそのまま俺の足首をさすり、浴衣の裾から入り込んでふくらはぎを撫で上げた。
熱をもった男の手のひらに、ぞくぞくとした感覚が湧き上がる。
二人きりだ。あのバス停のときのように。でも今度は時を隔てたりしない。
「碧翔……」
小さく名前を呼ぶと碧翔の体が伸び上がってきて、俺の唇を柔らかく塞いだ。
かすかな吐息が唇にかかる。間近にある碧翔の整った顔と、熱っぽく絡みつく視線に息を呑んだ。
「――お兄さん。僕は、ひと夏の……みたいなので終わらせる気はないからね」
「うん」
わかってる。でも今は、何も考えず衝動に身を委ねてみたい。あれこれ言い訳するつもりもない。
俺は、バス停での続きを期待してここに来た。碧翔もそのつもり……だと信じたい。
興味があるかと聞かれて頷いた。碧翔も俺に興味があると囁いた。つまり、そういうことだ。
引き合うようにしてもう一度唇を重ねる。今度はしっかりと、深く。
「ん……あのさ碧翔、なんでバス停であんな……いきなり、キスとかしたんだよ」
「だってお兄さんがすげーエロい目で僕のこと見るから、その気になっちゃったっていうか。それにお化け相手だったら何してもいいかなーって思って」
「うわクズい」
「途中で止めてあげたんだから許してよ」
絶妙に図々しいおねだり口調。碧翔のそれは、憎めないどころか癖になる。
引き際を弁えているとわかるだけに、そのぶん甘やかしてやりたくなる。長年培ってきた兄心がくすぐられてしまう。年上相手なのに。
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