14





カタカタ、カタ、とキーボードを打つ。ベランダをぽつぽつ叩く雨粒と、キーボードの音が重なって混じり合った。

昼すぎだというのに窓の外は薄暗く、空は灰色の雲に覆われている。
今日は一日雨だと、テレビの天気予報で言っていた。

「うーん……」

ダイニングテーブルに置いたパソコン画面を睨みつつ、無意識にうめき声が出た。一人だからかその声は妙に響く。
俺はいま、家でひとり、ノートパソコンに向き合っていた。
ビジネスメールや報告書で文書を打つくらいなら仕事でやってるし慣れてる。
けれど、ある程度テンプレートがあるものとは違って、自分で文章を考えるのは難しい。
単語をどうにかこうにか繋げてみてもすぐに手が止まる。今もまた、ぴたりと動かなくなった。
なかなか埋まらない画面がもどかしくて、「あー!」と叫んでテーブルに突っ伏した。

――休日の今日、俺がここでこうしているのには理由がある。

まずひとつ、リビングが使えないからダイニングにいる。
いや、全然使えないわけじゃないんだけど、ちょっと使いづらい。
それは昨夜、盛り上がりすぎた俺らがリビングをひどい状態にしてしまったせいだ。
テーブルにあった潰れたビール缶も中身が残ってたノンアル缶も、スマホまで床に落ちていた。手紙はかろうじて無事だったが。
ラグにはビールのシミが出来ていて、おまけに恥ずかしい体液まで散っていた。

とにかく散々な有様で、喜之と顔を見合わせて苦笑いした。
ふたりで片づけたあとベッドのほうでもう一回セックスしたけども。

朝になってソファーカバーも洗っちゃったからそっちを使う気になれなかったし、俺の自室にはデスクがないこともあってここで作業することにした。
キッチンのそばだから、昼に食べたカレーの匂いがまだ漂っている。

火傷してまで喜之が作ってくれたビーフカレーはすごく美味しかった。おかわりしてあっというまに鍋底が見えたくらいだ。
ちなみに喜之はいつもの調子が戻ったらしく、自分の皿に中濃ソースをたっぷりかけていた。そのままで十分おいしいのに。
それでも以前に比べて量は控えめだった。俺の忠告をちゃんと聞き入れてくれてるみたいだ。

「――守」

目の前に湯飲みが置かれてハッと顔を上げた。
昼食後、少しやることがあると言って自分の部屋に引っ込んでいたはずの喜之がそこにいる。俺がパソコンに集中してる間に来ていたらしい。

「どうしたの、そんなに難しい顔して。持ち帰りの仕事?」
「うーん……違うんだけどそんな感じのやつ。あ、お茶サンキュ」

湯飲みには淹れたてのほうじ茶が入っていた。
喜之は自分の分の湯飲みと書類袋を置きながら、テーブルを挟んで向かい合わせに腰かけた。

「コーヒーのがよかった?」
「いやいや。コーヒーは職場で飲み飽きてるからこっちのが嬉しい」

凝り固まった肩をほぐすため一回伸びをしてお茶をすすった。
香ばしい匂いが鼻を抜けると、作業が進まないイライラは和らいだ。
喜之のほうは、でっかい蜂蜜ボトルをさかさまにしてほうじ茶に入れてる。……砂糖じゃないだけまだマシか?
普段から頭を使う仕事なんだし糖分が必要なんだろう、うん。

「それで、『違うけどそんな感じ』って結局なに?」
「社内報に載せる原稿。社員に順番で回ってくるんだけど面倒……じゃなくて、会社でやる暇なくて後回しにしてたら、総務の人に週明けに出せって言われちゃってさ」

俺がここで唸っている最大の理由は、つまるところこれだ。
久保田さんのずんぐりした姿を思い出す。そのときに喜之の話題が出たことも。
そういえば例の女性週刊誌買うの忘れてたな。昨日は早く家に帰ることばっかり考えてたせいだ。まだコンビニに残ってるかな。

「書く内容は?テーマとか」
「『プライベートの過ごし方』。社員同士のコミュニケーション促進ってことらしいけど」

これは、社内報で近年はじまった企画だ。
バックナンバーを読むと、他の人は家族やペット、趣味のことだとかを自由に書いてあった。
ふだん関わることのない他部署社員の人となりを知る手段でもあり、上司部下間の会話のきっかけから同僚の趣味仲間の発見など、話題提供元としてなかなか活用されているようだ。
また、ひそかに縁結びに一役買ってるとかなんとか。
湯飲みの中身を混ぜるようにしてくるりと回した喜之は、続けて訊いてきた。

「どんなこと書くかもう決まってる?」
「先週行ったバス釣りのことでも書こうかなーとか思ってるんだけど」
「ああ、学生時代の友人と行ったっていう」

ライター仕事のほうが押してるという喜之のために、彼が集中できるように家を空けた日のことだ。
普通に気分転換したかったこともあって、専門学校時代の友達を誘って釣りに行ってきた。
ついこの前のことなのに細部が思い出せない。なんとなく遊んでるだけだとこんなにも記憶が曖昧になるものなのか。
どうにか思い出せたところで、それを文章にまとめるっていうのがこれまた難しい。

「あーあ、吉野雪城先生みたいにすらすら打てたらなぁ」

エンターエンターエンター、と人差し指で無意味にキーを連打しながらぼやくと、喜之は肩をすくめて笑った。
仕事中の喜之を見たことがあるのだが、画面をまっすぐ見据えたまま手だけがものすごい速さで動いていた。
俺みたいに打っては休み、打っては休み、なんてことはしない。淀みなく文章が綴られていくさまは惚れ惚れとした。

「進まないなら俺が見ようか?これでもライターだしアドバイスくらいはできるよ」
「いやー、いいって。プロに手伝ってもらっちゃ悪いし」
「そんなの気にしなくていいのに」

ふふ、と楽しそうに笑ってから蜂蜜たっぷりほうじ茶をすする喜之。
それを見てたら自分の口の中まで蜂蜜茶味になった気がした。悪い意味で。

「で、そっちの用事は終わったの?」
「ああ。――そうだ守。これ、どうかな」

喜之が書類袋から取り出したのは数枚の紙。
どうやら旅行会社のホームページ画面らしい。近場から遠くは海外まで、宿のプランがいくつか並んでいる。

「なにこれ?」
「守にプレゼントしたくて、色々選んでみたんだけど……ふたりで旅行にでも行かないか?」
「えっあ、い、行く!うっそマジで!?」
「本気で」

彼曰く、新人賞の賞金の使い道を前々から考えていたそうだ。
本気で俺にプレゼントするつもりで、手はじめに旅行プランをいくつかピックアップしたんだという。
俺は迷わず温泉旅館を選んだ。

「早いね。もっと吟味してからでも……そもそもこの中から選ばなくてもいいのに」
「色々見ちゃったら逆に迷って決められなくなるもん」

社報原稿の憂鬱なんてあっさり吹き飛んで、鼻歌まじりに『お二人様プラン』に続く文字を読んだ。
すると今度は袋ごと渡された。照れ笑いしながらそれを突き返す。

「だから〜、これ以上見ると迷っちゃうって!」
「いや、違うんだ。これは、次に出そうと思ってる短編の初稿なんだけど」

押し戻した書類袋の中から、喜之は、プリントアウトされたA4の紙束を取り出した。
それを目にした瞬間、硬直してしまった。
こんな状況は久しぶりだ。そして短編の初稿ということはつまり、昨日、一文字も浮かばなくなったっていう例の――。

「批評してくれないか、守」
「あの……それって、文芸誌の仕事のやつ?」
「そう」
「す、進んだ……?」
「問題ないよ。見栄じゃなくて本当にね。それどころか、今日になったら手が追い付かないくらい次々とインスピレーションが湧いてきて、あっという間に仕上がった」
「じゃあ昨日言ってた――」
「もう大丈夫。守のおかげだよ」

それを聞いて俺もホッとした。頭が真っ白になって書けなくなったのは一時的なもので終わったらしい。
もともと喜之は小説を書く前に入念な下調べと取材、そして打ち合わせといった準備をしてる。
それがあるから一定のクオリティは保てるし、昨日のようなことはそう心配する事態でもない。
とはいえ精神的な振れ幅で筆の乗りはかなり違ってくるそうで、心身ともに良好でいたほうが断然いいのである。
今の様子を見ていると、やっぱり俺は、書き物をしている喜之が好きだと心底思った。

「ぜひ読んでほしいんだ――世界中でいちばん最初に、お前に」

やや固い表情とともに紙束を俺に差し出してくる喜之。
昨日あんな話をしたあとだからか、彼の緊張が伝わってくる。

いつだったか、こんな風に有無を言わさず俺に押し付けてきたときがあった。
批評という名のやりとり。そうやって俺たちは言葉と気持ちを通わせてきた。作品を通してお互いの内面を見てきたんだ。
俺と喜之は出会いから年を重ねて、生活も環境も目まぐるしく変わって、それでもなお一緒にいる。
ずいぶん遠回りしたような気がするけど、俺は喜之のことをそのままずっと――いや、出会ったとき以上に愛してる。
だから、迷わず返した。

「うん、今すぐ読みたい!」

初稿を大事に受け取ると、彼の顔が優しく綻んだ。
世界中で誰より先に読めるのが嬉しい。でも、あとでも先でもなんだっていい。そんな些細なことにもう拘らない。喜之の紡いだ物語が読めるなら。
だって俺は、気の置けない友達でもあるし、作家としての喜之の最初で一番のファンだし、なによりパートナーだ。今、自信を持ってそう言えるから。

「社報の締め切りがもっと遅かったら旅行のこと書けたのにな。作家先生と巡る温泉旅!ってさ」
「面白そうだね。行ったら書いて俺に見せて、守」
「ええー、じゃあ喜之が書き方教えてよ」

時間をかけて、誰より深く、たしかに繋がってきた。それはこれまでもこれからも、ずっと変わらない。



end.


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