32


誠二が居眠りしながら読んでいた本を、何故か自分の部屋に持ってきてしまった。
ベッドの上でごろごろと転がりつつ読めない本をめくってみる。
挿絵もなく細かい字が並んでるばかりでさっぱりわからん。学術書なのかエロ本なのかすら判別できない。

「はー……」

本を枕元に投げて溜め息を吐いた。金太郎はもう眠ってる。
――距離を保つっていうのは大切なことだ。いくら気を許した仲だろうと、踏み込んじゃいけない領域がある。
さっきはその一端を覗いてしまったような気がして、俺はずっと落ち着かない気持ちでいた。
もう一度本を開いてみる。文字列の中から数字だけ探していたら、やがて隣から物音がした。続けてトントンという控えめなノックも。
しかし隔たりは一ミリも動くことなく、低く柔らかい声がドア越しに聞こえてきた。

「彰浩?もう寝たか?」
「お、起きてる」
「そうか。あんまり夜更かしするなよ。おやすみ」
「うん、おやすみ……」

向こうの部屋から消えた本について聞かれるかと思ったのに、それだけだった。

俺は、元の世界にいたときは常に時間を気にしていた。手元にはスマホ、どこへ行っても時計があって時を知らせてくれるから。
なのに今はそれがなくなっても案外不便に思わない。
こっちに来てから時計を見ていない。存在しないのか高級品で普及してないのかは知らないけど、だいたいの時間は街の鐘が教えてくれる。
今も、遠くで鐘の音が鳴った。街の人々の多くは眠りに就く時間だ。

この国では照明技術がそれほど発達してないから、燃料節約のため暗くなったらさっさと寝る。そして日の出とともに起きて明るいうちにめいっぱい活動する。
これが本来あるべきリズムなんだろう。この世界に来る前の俺は、夜に慣れすぎていた。

「…………」

――眠れない。目を閉じてもまた開けてしまう。暖炉の火は消えかけていて『寝てしまえ』と誘っているのに。
もうずっと、同じことばかり考えてる。だから眠れないんだ。

金太郎を起こさないようベッドからそっと抜け出した。ルームシューズを履いて、抜き足差し足で隣部屋のドアへと向かう。
二回ノックしてみる。けれど向こうからは何も返事がなかった。

誠二はとっくに寝てるんだ。さっき居眠りしてたくらい疲れてるんだから。
彼のために眠りを邪魔しちゃいけないと思うのに――そう思うのに、この孤独感に耐えられず、思い切ってドアを開けた。
隣部屋の暖炉の火はすでに消えて、薪が燻っていた。

「……誠二」

誠二は案の定ベッドの中で、こっちに背を向けて横たわっている。それでも近づいてもう一度呼びかけてみた。

「誠二、なぁ、もう寝た?」
「……寝てないよ」

言う通り、寝入りばなの声じゃなかった。一度仮眠から覚めたら目が冴えちゃったのかもしれない。

「俺も、ちょっと寒くて眠れそうになくてさ。そっちの布団入っていい?」
「……ああ」

緊張気味の声で返ってきた。誠二からしたら「どういうつもりだ」って言いたいだろう。俺も自分で自分にそう言いたい。
掛け布団をめくって潜り込む。二人分の体重を受けてベッドがたわんだ。
昨日のあの話のあとじゃ、どうやっても緊張する。俺も誠二に背を向けて遠慮がちに距離を取った。

「…………」
「…………」

暖炉の赤は消えて、かわりに部屋の中は青で満たされていた。
窓から差し込む月光は鮮やかで寂しげな群青だ。この世界の月の色は、あまりに青すぎる。

不規則に呼吸が浅くなる。
口の中に唾が溜まって仕方ないから何度もごくんと飲み下した。その音がやけに大きく耳に響いて、誠二にも聞こえてそうな気がして恥ずかしく思った。
自分で寒いと言ったくせに、握った掌にはじっとり汗をかいている。

誠二は一向に寝返りを打たない。深くゆったりとした寝息もたてない。俺と同じで眠れずにいるらしい。
こうしていても埒が明かないし、意を決して話しかけた。背を向けたまま。

「……誠二」
「……なんだ」
「お前は、帰るつもりないのかよ」

どこへ、とは言わなくても伝わるはずだ。――元の世界に。答えはわかりきってるけれど、それでも聞いておきたかった。

「帰らない」
「そっか……」
「ああ」
「じゃあ、俺も帰んない」

もぞ、と背後で布が動いた音がした。

「どうして?」
「だって、なんか俺、わりとこっちの世界楽しんじゃってるんだよ。だから別に無理して帰らなくても、このままでいいかなぁって思って。誠二もいるし」
「……けどお前、向こうの家族や、大学とか、友達は――」
「忘れるんだろ?俺のこと」

消えた俺が心配で泣き暮らすわけじゃないなら、それでいい。
俺の長所は悩みが長続きしないことだ。そう思えるならまあいいかって、いつものお気楽思考で結論づけた。
ところが誠二が慌てたように言葉を重ねてくる。

「そうは言ったけど、あくまでオレ個人が考えた仮定の話で絶対ってわけじゃ……」
「どーせ向こうにいたって確実に就職できる保証もないし、そもそも大学だって留年とか中退してたかもだし」
「お前……そういう問題じゃないだろ」
「それにうちの家族ってわりと放任でさ、ほら、ここには無期限の留学に来たって思えばいいんだよ」

なんせ三人の男兄弟だ。自立したら親に全然顔を見せなくなってたかもしれない。
友達にしろ、なにも俺だけが友人ってわけじゃない。
こんなに俺を求めてくれる友達は――親友は、誠二だけなんだ。昔から。

「この世界には誠二がいる。留まる理由がそれじゃ駄目なわけ?」
「……言っただろ。オレは彰浩のこと、そういう目で見てるんだって」
「わかってるよ」

だからその答えを言いに来たんじゃないか。
背後に向けてごろりと体をひねった。すると誠二も俺のほうを向いていた。
布団の中でお互いに横たわったまま、視線が絡む。教会の集会所で、寒さに震えたあの夜のように。

「俺、こっちに来てからすげえ体験いっぱいしてさ、剣と魔法なファンタジーとか、ペガサスとか、ドラゴンとかモンスターとか、お城とか」
「ああ……」
「やばいよな。空想以上のことをリアルで体験して、もう腹いっぱいってくらい不思議なことの連続でさ」

この一年でたくさんのことがあった。
その毎日が刺激的で、怖いことも多かったけど、今まで自分が信じていた常識をことごとくひっくり返された。だから――。

「だから、親友から好きって言われたくらいで、今更そんな驚かねーよ」
「…………」
「生まれてこの方、俺ってほんとモテなかったんだよね。でもさ、考えてみたら積極的に彼女作ろうともしてなかったんだわ。親友といるのが楽しすぎて、それで満足だったっていうか」

高校、大学に進学したあとも、いざ女子と接してみたところで「何か違うな」と思ってすぐ距離を取ってしまう。彼女らを友達としてしか見てなかったのは俺のほうだった。

「それにだよ?お前は俺をこっちの世界に呼び寄せたって言ってたけど、違うかもしんないじゃん」
「……違う?」
「逆に考えてみろよ。実は俺のほうから世界の壁を乗り越えてきちゃったんじゃないかな。――誠二に会いたくて」

そう言うと、青く照らされた誠二の瞳がわずかに潤んだ。瞬きの回数が増えていく。

「そんなこと、あるわけ……」
「忘れてても記憶がなくなるわけじゃないんだろ?そういう俺の潜在意識が奇跡起こしたのかもよ。や、絶対そうだって!」

彰浩、と掠れた声でつぶやかれる。その切なく優しい声音に、胸の奥が痛いくらい疼いた。

「だからさ、『オレのせい』なんてあんま自分を責めんなよ、誠二。俺が勝手に来たんだから」
「…………」
「たいして取り柄もない俺だけど、会いたいってそこまで想ってくれるのはお前だけなんだよ。で、俺はそんなお前に会いにきた。なあ、これってもう運命みたいなもんじゃん」

言いながら体中がじわじわと熱くなってきた。
こんな大げさな台詞連発しちゃって恥ずかしいし照れるけど、不思議といい気分だ。それはきっと本心だから。
そうして一度滑り出したら言葉は止まらなかった。

「あのさ、俺、誠二のことすごいって思ってんだよ」
「オレが?」
「うん。お前ってめっちゃ物知りで周りともいい関係築いてて、それに特大跳びネズミを倒したときなんかマジでかっこよかった」
「…………」
「元の世界でも色々大変で長いこと我慢してたのに、こっちでもいっぱい努力したんだなってわかる。誠二のそういうとこ、俺ほんと尊敬する」

それに比べて特別なものを持ってるわけでもない俺に、何ができるかわからない。
でも誠二の支えになりたい。親父さんと約束した通りに。ここじゃない世界で生まれて育ち、身代わりなんかじゃない誠二の本当の姿を知ってるのは俺だけだから。

「あと、お前に抱き枕にされたり手ぇ繋ぐのだって気持ちいいし、安心するし、正直ドキドキもした」
「それはその……ごめん」
「いやごめんじゃなくて。いいって言ってんの。俺、ずっとお前とは『友達』って意識でやってきたし、そんなすぐ切り替えるのは難しいかもしれないけど……」

ベッドの中をもそもそ移動して、誠二のすぐそばまで近づいた。
誠二が軽く息を止める。かまわずに至近距離で向き合って、透明感のある瞳の中をのぞきこんだ。

「俺も誠二のこと好きだし、一緒にいたいよ。――この世界で」

言いながら、ベッドの中で誠二の手を探して握る。その手は俺と同じように汗ばんでいた。
これが恋愛感情なのかどうかはっきりとはわからない。こんな気持ちは他に知らないから。
それでも、誠二と離れたくないっていう気持ちだけは強い。だったらこれが俺なりの恋心なんだろう。

握った大きい手がかすかに震える。
誠二は、止めていた呼吸をゆっくり、静かに吐き出した。

「夢みたいだ……」
「夢じゃないよ」

夢じゃない、夢になんかしてやらない。この世界も、誠二も。
手に力を込めてギュッと握り込む。すると同じ力で握り返された。それから、どちらともなく鼻先をすり寄せた。

「……オレ、昨夜はあのあとほとんど眠れなかった。お前に変なことばかり言ったせいで嫌われたんじゃないかって、後悔して……」
「じゃあ今夜からぐっすりじゃん」

ちょっと照れくさくなってそうやって茶化したら、誠二も小さく笑った。
彼女……も彼氏もいない暦イコール年齢の俺だけど、それは誠二も同じだ。だけど今夜、今このとき、その記録に終止符を打つ。

――そういう流れで、いいんだよな?

唇を尖らせて、柔らかいところにかすかに触れる。そしたら向こうからもムニッと押し付けられた。
鼻がぶつかったり、接する部分が変にずれたりを繰り返す。
経験ゼロってのはやっぱりうまくいかない。でも相手も同じだし、なにより誠二だし、気取ったり見栄を張る必要なんてない。

そうやって布団の陰に隠れながら、俺たちは何度も不器用なキスをした。


prev / next

←back


×
「#エロ」のBL小説を読む
BL小説 BLove
- ナノ -