一週間。何だかんだとこの街らしく忙しない日々を前に新居を探す暇さえ作れないまま、ミシャは今宵も宿泊先であるスティーブンの家へ帰った。
最初は段ボール一箱分程しかなかった荷物も、今や三箱ほど。さらにはゲストルームのクローゼットを借りるまでになっていた。ソファの端へ腰掛けて項垂れながらミシャは大きな溜め息を吐く。
事務所に泊まっていた最初の一週間は衣服や消耗品を調達しつつ、作戦に駆り出され体力を消耗する、の繰り返し。スティーブン宅へお邪魔してからの一週間は、寝ずに働いた日もあって新居探しはまるで進まず、ギルベルトが調べてくれた部屋の確認すらできていない。
もっと体力をつけとくんだったなぁ、なんて、背凭れに頬擦りをしながら抱きついていた。シャワーを浴びたばかりなので、拵えのいいソファを化粧で汚す心配もない。男のアパートメント、それもシャワー室に女性向けの化粧落としやら洗顔剤やらシャンプーやらが増えていく様子は見ていて何だか申し訳なくなりながら。他人(どころか職場の上司)の領域を自分色に染めていくようで、初めて並べてみたときなど、ミシャはそのアンバランスさに背筋がぞわぞわとしたものだ。

「まあまあ。…ほら、どうだい、一杯」

激務の間に投げられる書類整理にも一因があることを自覚しているのか、スティーブンは、はは、と短く笑いながら、大きなロックアイスがおさまったグラスをテーブルに置いた。カラン、と耳に心地の良い音が響く。
ソファが軋み、ミシャから離れすぎずくっつきすぎもしない距離にいたスティーブンがくすりと笑う。「すみません、家主よりぐたぐたしてて」「いいって、気にしないで休んでな」なんてやり取りもほぼ毎日だ。

「君、ヴェデッドに酒の趣味を話したろう。桃と洋梨の果実酒を見かけたから君に、ってさ」
「…でも、明日も仕事ですよ」
「と言いつつもちょっと楽しそうだぞ」
「だって、」
「好きなんだろう?どうする?」
「…いただきます」

あの日以来、以前ほど抵抗なくミシャはスティーブンから買い与えられるものを受け入れたり、細やかでも逆に物を請うようになりスティーブンは気分がよかった。「それってスティーブンさんのお金では?後で払います」とか「性別で金銭云々のやり取りを曖昧にしたくないんです」とも言わなくなった。よってスティーブンも「僕は男なんだし、払いたいときもあるんだよ。そういう生き物なんだ。堪えてくれ」と言わなくて済むようになった。
なんでもそうだが、ミシャは酒を飲む際ロックを好む。何でも、あまり水分を取りすぎると腹を下す体質らしく、若い女子がよくやるソーダ割りというやつもやりたがらない。甘く強い酒をロックでゆっくり楽しむ、と言うのが彼女のスタイルだった。と言っても大人しそうな顔をして(チェインほどではないにせよ)ザルなので、果実酒程であれば一瓶くらい空かしてしまう。
ミシャが体を伸ばし、ソファに座り直す間にスティーブンはグラスへ果実酒を注ぐ。甘ったるくも芳醇な桃の香りが広がった。二人してグラスに口をつけると、イントネーションの違う「んー」という声が漏れた。「どうですか?」なんてミシャが問うものの、スティーブンは甘い液体を舌の上で転がしているようだった。

「ホントに桃の風味がする」
「アランさんは好きじゃないです?」
「どうだろう。美味いとは思うよ。甘過ぎず適度に酸味もあって、なのに癖はないから飲みやすい。アルコールの喉を焼く感じがなきゃジュースみたいだ」
「ですよね、わたし、甘い酒が好きで。子供っぽいですよね。ザップにも笑われました」
「そういう意味じゃないよ」
「わかってます」

瞳を丸めるスティーブンに、もう一度ミシャが「わかってます」と風呂上がりの火照った頬で笑う。ぱちぱちと瞬く男の顔が面白いのか、女の笑顔がさらに深くなった。
ミシャは滅多に酔わない。顔色も変わらないし、しこたま飲んでも記憶がはっきりしている。だからか、飲酒を娯楽や現実逃避の手段として捉えない。その事をスティーブンはよく知っている。誤魔化すように「珍しいね、酔ったのかい」と声をかけると、先程までの笑顔が嘘のように小さな頭が船を漕いでいた。

「…眠る?」
「……」
「ベットへ行こうか」
「………う…う…?」
「ミシャ、」

細い腕が厚みのないバスタオルを抱き締めている。先程もソファの背凭れを抱えていたし、枕を抱いて眠る姿を何度か見た。ミシャの癖なのだろう。
ちゃっかりグラスを空にしている彼女の体に手を伸ばす。「持ち上げるよ」と声をかけながら、スティーブンは彼女の背中と膝裏を支える。知ってはいたがミシャは大変軽い。というか、最近さらに痩せた。
もともと肉がつきにくい体質らしいが、食に関心が向かないとも公言していた。

ミシャには寿命がある。
生きているならほぼ間違いなく存在するだろうが、彼女の寿命は延びもしないし、治るようなものでもない。現時点で、あと数年で彼女は確実に死ぬと決まっている。

三年前。この街で初めて出会ったとき、彼女は気を失った弟を抱えて泣き叫んでいた。ミシャを見つけたクラウスとスティーブンは腕の中の少年が命を落としていると誤認し彼女へ駆け寄ったが事実はまるで違っていた。両親を目の前で降ってきたビルに蟻のように潰され、彼女も弟と共に死にかけ、その日に己の寿命を提示され、危機を切り抜けた安心と弟を残して早々に死ぬことが決まった絶望とで、当時のミシャはぐちゃぐちゃになっていた。
彼女がその日に手に入れた能力は、普通に過ごしていくにはあまりにも異質なものだった。異世界と関わり続けるために植え付けられたようなものだった。それを、彼女は良しとした。
弟や誰か愛する人をみつけて穏やかな時間を過ごすよりも、己の能力を生かして金を無心することに決め牙狩りになり、今日に至る。
当時、ミシャの境遇に特に胸を打たれていたのがクラウスだった。スティーブンが抱いた感想はせいぜい「そうか、それは不幸だったな。まあ今死ななかっただけでもいい方なんじゃないか」程度のものである。クラウス自身プレッシャーに強い性格ではないのに、泣き喚くミシャの手をとったあの日から、三人でミシャの余命を数える毎日が始まった。



大切なメンバー以上の感情をいつの間に覚えてしまったのか、スティーブン自身わかっていない。きっかけはあったのかもしれないが覚えてはいなかった。プライベートを侵食されることを好まないスティーブンが、自宅に憎からず思っている女を泊めて手も出さずこうして大切にしているなんて。自分でも意外すぎて実は驚いている。

「僕はズルい男だ」

あーだこーだ理由をこじつけて、冷静で落ち着いていて余裕のある大人の仮面をつけている。そりゃあいつ死ぬかなんてHLにいる限りわからない。一秒後かもしれないし、一分後かもしれないし、一時間後かも知れないし、明日かもしれない。それでも生きていけるのはその時が決まっているわけじゃないからで、抗う手段や時間、様々な術を与えられているからだ。
その手段が今の彼女には欠片もない。けれど、今日も何だかんだありながら、ミシャは笑うのだ。死ぬまでの日常が幸福でも不幸でも、結果は同じだと彼女は知っている。気づいている。もし彼女の寿命を縛る呪いが消え去ったとしても。
君がそんなんだからだぞ、気づいてくれよ。そんな風に耳元に吹き込んでみても瞼は開かない。開かないとわかっていて、気づかないと知っていて、スティーブンは笑った。

あんな顔をされてしまっては、今が良いならばと、片付けてしまいそうになる。クラウスもスティーブンもまだ諦めていないしこの娘も根っこの部分では同じだと知っているのに。
ゲストルームのベットの上に彼女を横たえる。枕を腕の中に納めてやると、ぎゅっと抱き締めていた。
指の背で頬をなぞれば、ん、なんて小さく呻く。おやすみ、とらしくもなく甘く囁いた。
このまま同じ布団に入ったらミシャは怒るだろうか。それとも、困らせるだろうか。ここ一週間毎晩考えている想像が今宵も頭を過る。

スティーブンは思う。俺だったら、君の命を諦めたりしない。出来る限り守りたい。君に何かあっても、君の家族を捨てるような真似もしない。そう言ったら、男の前で不用心にも眠りこけるこの女はどんな顔をするのか。取って食われても文句を言えない状況で、安心して眠る姿が痛ましくさえ思えてしまう。
信頼の現れだとして、スティーブンが呼び込んだ状況の一つだとしても、よろしくない。
男に頼る生き方をしたくないと公言しているミシャに男を頼らせて。酷く不恰好だ。
スティーブンの歳どころか、今のままではクラウスの年齢まで生きられない女。愛に生きることも、年相応に着飾ることもなく、弟のためならその短い寿命さえ切って捨てるような。
あの日がなければ彼女には出会えなかった。けれど、あの日が、彼女をこんな風に歪ませた。

ヒト一人も救えずに、世界の救済などなし得ない。
もう何度も世界を救ってきたクラウスがそう言う度にスティーブンはハッとした。世界のための時間を“既にない命”のために使うなんて馬鹿げていると宣う彼女を、救われることを望まない彼女を、救うと叫ぶ度。
世界は救われたがっている訳じゃない。誰に請われているわけでもない。けれどクラウスは、必ず世界を救いに行く。誰が助けたかも知らず、誰の血が流れて救われたかも知らない人々は、前日と同じようにベットに入り、朝を迎える。
ミシャもそんな人々と同じように、越えられない夜を越えてほしいとスティーブンは思っていた。




After days : fast asleep


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