“ほの暗い気持ちになりやすいらしい彼女にとって、この街のはちゃめちゃな日常は人生における最も感謝すべき彩りなのかもしれない。”

そう言った目の前の男に対して、スティーブンは一瞬だけ呆然とした。あまりにも認識の差が大きすぎて、次の瞬間には内心で、ああ、と悟り諦め、同時に同年代の男として失望していた。
恐らく彼女がどんな事情を背景に、どんな性質で、どんな人間で、何を思い悩むのか。男は一ミリたりとも理解していないし想像することすら怠っている。そも知らないのかもしれないが。言外に彼女を罵る唇がコーヒーカップを食む。
ブラックコーヒーの少しの苦さが混じる芳ばしい香りがカフェテリアに満ちている。
スティーブンの機微を拾えない男は自覚も悪気もなくそれが自然のことのように笑った。上っ面だけであるが一応友人である男の言葉だ。何も思わない、と言えば嘘になった。
それじゃ、僕はこれで。そんなふうに別れを告げスティーブンは席を立つ。居心地が悪いとか、そういうことではない。けれど、虫の居所が悪くなったのは確かだった。



「おーい、ミシャ、起きてるかい?」
「ん、あ……アランさん」
「こんなところで寝こけてる場合じゃないんじゃないか」

一人がけのソファで寝落ちているミシャを背面から覗き込むと、スティーブンと彼女の目が面白いくらいにぴったりとカチ合った。働き口の事務所で一人睡眠を貪るなど、つい先程まで大怪我で入院していた女としては誉められた行動ではない。が、倫理観やモラルこそ持っていても、自分の性別を認識していないらしい数々の問題発言を披露する。それに連日連戦が続き、彼女は前線へ出突っ張りであったことが重なり、トドメに先日の大怪我である。有事の際に対応できるようにと、住まいにも寄らずに事務所へ訪れたはいいが体は回復しきっていなかったのだ。当然だろう。
スティーブンはあまり期待せず、早々に彼女へ声をかけた目的を遂げようと携帯を翳した。

「チェインからの報告なんだが、君の住まいが一連の騒動に巻き込まれて爆散していたそうだ」

なんでもないように告げた副官に、ミシャは飛び起きた。あまり普段から感情の起伏を表に出さない彼女も、流石に吃驚仰天らしい。
スティーブンの携帯には、崩れ落ちたアパートメントの写真が写し出されていた。

ぎゃはははははは、とザップがロングソファで顎を突き上げて大爆笑を始める。涙を溜めて顔を真っ赤にし笑い転げる様には素直に殺意を抱いたものの、ミシャは事実の確認と現状把握を優先した。

「運ないなあ、おい!陰毛頭から貧乏神でも譲り受けたんか!」
「ホント人の不幸をなんだと思ってんすかアンタ…」
「最低ですね、女性の住まいほど大切なものもないでしょうに…どうしてこれまで生きてこれたのか心底不思議です」

口々に溢される批難にも打たれず、ザップはレオナルドの髪を掻き回しながら爆笑を続けている。できることなら今すぐにでも消し去りたいBGMをそのままに、ミシャはスティーブンに詰め寄る。

「あの、え、もしかしなくても全部…? 粉微塵…?」
「写真を見る限り」

事実を突き付けられ、ミシャはつい放心した。ザップへの殺意もぶっ飛ぶほどの衝撃だった。
ソファの上に力なく崩れ落ちたミシャの姿にクラウスが一番おろおろし、励まそうとしては失敗している。

「しかし本当に大問題だ。ミシャはレディなのだし、病み上がりで休める場所もないなど…」
「…事務所もレオの臨時ホテル化していたし、わたしも肖るしかないかなぁ…」

いいですか、クラウスさん。なんて半ベソ顔を晒しながら弱々しく問うミシャに、クラウスは「う、うむ…それはもちろん構わないが…」と答えるしかない。
誰かの家に泊めてくれ、と申し出ないあたりが大変彼女らしい。そんなことを思いながら、スティーブンは立候補するタイミングについて考えていた。何をって、自然かつ、違和感を与えずにミシャをスターフェイズ宅へ招待する機会を。
そんな時、チェインが爆笑するザップの脳天へ出現した。一転、痛みに喚き散らす姿にレオナルドが意地悪く口角を上げて「ザマァ」と溢す。

「とりあえず、ここで寝起きして物件を探しましょ。私も手伝うわ。あと、これ」
「?」
「ミシャの私物でしょ?これだけころっと転がってたから、取り敢えず持ってきたの」
「チェイン…!!」

ミシャはチェインが持っていた十センチ角の缶を改めた。ライブラの面々もズイっと覗き込む。普段自分のことを語りたがらず、そういう話題を然り気無く(けれど明らかに)避けている彼女の顔が何の躊躇いもなく綻ぶのだから、そりゃあ気になって当然だった。
壊れるんじゃなかろうか。そんな不安さえ抱かせる怪音を上げながら蓋が外れる。中には金属のライターと小さなルビーが嵌まった指輪、折り畳まれた紙が入っており、ころりとか、かさりとか音を立てた。
クラウスとスティーブンは何か察したようで、口元を引き結んだ。
安堵に息を吐きながら、ミシャは迷わず紙に手を伸ばす。

「なんだよ、質屋にも拒否られそうなボロじゃねえか…金策は失敗だなあ。なあ陰毛、お前も価値くらいわかんだろ?」
「ミシャさん、それって…」
「…無視たあいい度胸じゃねぇかオイコラ」

「黙んなさいよクソモンキー」「どこまでクズなんですか同じ流派として恥ずかしいです」とチェインやツェッドから追撃も聞こえる中、ミシャが手にした紙を広げると、夫婦らしい男女の間に髪が長い少女と幼い男児が写った写真であることがわかった。

「そうだよ、形見」

ミシャは穏やかに笑って、よかった、これ一枚しか残ってなかったんだ、と呟いた。写真の中の女の指は缶の中に鎮座する指輪と同じもので飾られているし、髪の長い少女は今写真を広げている彼女で間違いない。髪の長さこそ違っても顔の輪郭はそのままで、見間違いようがない。
家族写真だったのだ。ミシャと、亡き家族の。



・・・



可哀想、なんてのは個人の感覚で測った不幸度にすぎない。けれど確実に可哀想な人間とそうじゃない人間は存在する。比喩でも例えでもなく、不幸は誰にでも降りかかる可能性があり、たまたまそれが彼女を襲ったにすぎず、まさに偶然だったのだろう。
この街の狂騒は今となっては間違いなく日常であり、むしろ騒々しさが消えた日にはもっと恐ろしいことが起こるのでは、と根拠のない胸騒ぎさえ感じるほどである。そんなものを彩りと捉らえられるのは感覚の狂った異常者だけだ。
人間にとって、この街で起こることのほとんどが脅威であることは間違いない。
彼女にとっても勿論そうだ。

スティーブンが把握する限りでも、彼女は異常者と呼ぶには普通すぎて、とても当てはまらない。そのきらいもない。同年代の娘にはあまりみない嗜好を持ってこそいるものの、それは常識の範囲内だ。決して道を外れるものでも、人間として糾弾されるものでもない。
騒がしい方が、賑やかな方が、嫌なことを考えなくて済む、くらいに考えていて、世間一般で言う騒々しさではなくHLのような強烈さでなければ紛れないような大きさの傷を抱えている、というだけ。自分を保つために思考を完全に放棄できるほどの異常を求めざるを得ないだけなのだ。
だから、彼女を物好きな変人と言わんばかりだった男の言葉をスティーブンは受け入れられなかったし、理解しようともしなかった。
彼女のことを欠片も理解していない男の言葉など気にしなければいい。そうわかっていても、スティーブンの腹は煮えてぐつぐつと煮え立つ。…はぁ、とスティーブンは自分の腹を撫でた。

「…僕、こんな人間だったか…?」

自分に問うてみても答えはなく、代わりに、ぐぅ、と腹の虫がなった。我がことながら垂れた眉尻がぴくりと反応する。

「…腹が減ってイライラするなんて、ガキじゃああるまいし」
「アランさん、」
「…はぁ…飯の時間かあ…」
「アラン先生!」
「?」

至近距離から呼ばれ、オフィスチェアごとスティーブンが振り替えると紙袋を手にしたミシャといつの日かのように視線がカチ合った。

「アランさんの分ってわけでもないんですけど、食べないと、ザップに全部取られちゃいますよ」

ナプキンに包まれたドーナツを細い指で挟んだミシャが、コーヒーと共にスティーブンへ差し出していた。「ああ、ありがとう」とスティーブンは受けとる。タイミングが良いなと思ったが、耳が良いのもミシャの長所だ。恐らくスティーブンの腹の虫が上げた鳴き声を聞き付けたのだろう。
ギルベルトを除いた他の面子にはなかなか難しいだろう気遣いに、スティーブンは心の中だけで感嘆に息を吐いた。改めて確認しなくても、良い子なのだ。スティーブンの腹の音などまるでなかったかのような然り気無さを全面に出せるあたりといい、健気としか言いようがない。
おい見習え。お前のことだ。なんてザップに視線を投げても、銀髪の男は呑気にドーナツを貪っている。

「君は食べたのか。ザップに取られたりしてないかい」
「はい。猿もグループ行動しますから本の少しの助け合いくらいならできるみたいで」
「そうか。それくらいの理性はあったんだな。よかったよかった」
「アンタたちは俺をなんだと…」

「そのままの意味かと」と付け足すツェッドとザップの額が重々しい音を立ててぶつかった。間にいたレオナルドはテーブルに向かい身を乗り出すことで巻き添えになるのを逃れている。
ミシャは自然な動きでデスクに身を傾け、上着のポケットに手を突っ込んでいる。まるで、視線を気にする恋人のために目は反らすけれど距離は取らない、的なスマートさだ。
ズズ、とスティーブンはコーヒーを啜る。飽くまで例えであって、スティーブンとミシャは恋人関係ですらないけれど。
ザップの大人気なさに苦笑している彼女に向けて、「ところで」とスティーブンが口を開いた。

「新居探しの方はどうなんだ?」
「全然ですよ。ギルベルトさんの手も借りてるんですが、なかなか見つからないです」

あれから一週間が経つが、事務所には彼女の私物らしい掛け布団が端の方に畳んであった。

「そろそろソファで寝るのも体が痛いから、早いとこベッドで寝たいんですけどね…ははは…」
「いっそ誰かに世話になったらどうだ?」
「それも考えたんですけど…」

ミシャは事務所で騒ぐ面子をみやり曖昧に笑う。

「K・Kさんはご家族がいるから忍びないし、レオはそもそも広さ的に問題があって。ザップは、」
「論外だろう。チェインは?」
「…まあ、いろいろと問題が…」
「ツェッドは水槽だしなぁ…。クラウスはどうだい? ラインヘルツの屋敷ならゲストルームも充実しているだろう。君一人くらいなら、賄い飯を出すより金がかからないんじゃないか?」
「それは…はい…。ごもっともなんですけど…なんと言いますか、格式が違いすぎて、こう…」
「…なるほど」

言外に落ち着けない、と言わんばかりだ。モルツォグラッツァの料理に耐えきるレベルと言うだけで、ミシャからすればクラウスは天上人に等しい存在になっている。そんな家でクラウスの知人としてゲストルームに通されたらどんな厚待遇を受けるかわからない。ピンからキリまである中流階級の中でも俗に言う底辺で育ったミシャは、想像するだけで精神的に耐えられないのだろう。上流階級の生活に憧れもあるだろうに、いざ経験できるとなると引け目が勝つのは大変ミシャらしかった。
スティーブンも資産的に見れば金持ちに分類されるが、ラインヘルツのそれには遠く及ばない。クラウスの経済力を持ってすればメンバーの一人に衣食住を提供するくらい難なくやって退けるだろうが、提供される側の精神が追い詰められるならどんな厚意や待遇も意味を失ってしまう。
そこで、スティーブンは「それじゃあ、僕は?」と名乗りを上げた。

「どうかな」
「あー…、ええと…家政婦さんがいる時点でお邪魔しにくいです」

おお、分かりやすいくらい動揺したな、今。スティーブンはいつもより随分とあっさり反応を返してくれたミシャへさらに言葉を重ねる。ここ一週間は自炊もできずジャンクフードばかり口にしていることをスティーブンは知っている。だから今のミシャにとって最高の誘惑を叩き付けてやる。

「今連絡すればウチのお手伝いさんが用意してくれるぜ。やわらかあいベッドとあったかい家庭料理がここ数週間の疲れを癒してくれるんだ、最高だろ」
「うぐぅ…なんですかそれ…さいこうです…」
「そうだろうそうだろう。好きな食べ物は?」
「いちご…ホットサンド…クリームパスタ……っハ!誘導尋問ですよこれ…?!」
「ははは」

彼女のようなタイプは、不安にさせるより先に案ずるポイントを押さえて先手を打たなければいけない。より軽く、けれど適当すぎない調子で。欠片も迷惑に思わないなら、それもきちんと伝える。
冗談に聞こえたら最後、ミシャはどれだけ欲していた言葉も流してしまう。内容と気持ちが伴って初めて、ミシャは対象を意識する。
なので、スティーブンは成功したのだ。気を抜かせ、疲労したところを押しただけだが、哀れかな。ミシャは一度転がってしまえば、なかなか状況から抜け出せない。一枚どころか百枚は上手なこの男が相手ならまあ必然である。「あの、待っ」と慌てふためくミシャをものともせず、スティーブンはポケットから携帯電話を取り出した。一瞬だけでも甘えてしまったら、なんだかんだ言っても拒否することなど彼女にはできなくなる。
ミシャはそういう、不器用な女だった。

「今夜のディナーとデザート…ああ、明日の朝飯も決まりだな」

そうスティーブンが微笑むと、ミシャは口元を戦慄かせた。




After days : lost home


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