Do not move

一人ソファに腰かけて深い息をつく。目を閉じて天井を仰ぎ、左右へゆっくり首を傾ければゴキゴキと音がした。肩へ手をやり解すと少しは楽になった。…といっても、筋トレが日常化しているので肩凝りも毎回重度にはならずストレッチをすればだいたい解消される。オルガ・イツカはどこへかけるでもなく、もう一度息を吐いた。疲れを見せることはないが、彼が仕事を初めてから軽く見積もっても22時間は経過していた。今の休憩が一度目。メリビットにデスクからほぼ無理矢理どかされて、こうしている。
その肩にトン、と軽く触れるものがあった。この男所帯にあって、あまり高くない温度には覚えがあった。

「風子…お前いつ入ってきたんだよ」
「さっき。ノックしたよ」
「…ああ、悪い気づかなかった。どうした、そっちでなんかあったか?」
「別に」
「お前なんか目元黒いぞ。シノと一緒に新人を扱きまくってるってユージンから聞いたが…ちゃんと休んでんのか」
「オルガよりは」

あまりにも素っ気ない返答にオルガの黄色い瞳が風子を見上げる。いつもと逆だな、なんて考える。それにしても機嫌が悪そうで、下手な言葉を選ぶととんだ仕返しに合いそうで緊張してしまう。そんな中、オルガは何か気がついたらしく、ああ、と声を上げた。

「…アレか?またシノに胸のことでも、おぶ?!」
「ああごめん、つい」

とんだ仕返しが来た。肩に置かれていた小さな手に豪速で口元を鷲掴まれ、オルガは情けなくも声を上げた。
流石MSパイロットは伊達じゃない。…いやまあそうではなくて。
早々に言葉選びを、しかも大いに間違えたオルガの背筋に冷や汗が下った。
鉄華団唯一の女性パイロットである風子はその性別を鼻にかけることなく、訓練に取り組み、新人を鍛え、作戦会議でも的確な意見をする。ただ、唯一。性別故に仕返しされないことを見込んで動くことがある。
罰を与える時だ。
女といっても彼女の拳は固く、鉄拳制裁にはとても向いた造りをしている。握ればごつごつと浮き出る拳を突き出すだけで鉄華団の男子たちを縮み上がらせるほどだ。男同士ならカッとなって反射的にやり返してしまうところを、風子が相手だとそうはならない。なので、彼女もそれを理解した上で必要に駆られれば必要なだけの鉄拳制裁を少年たちの脳天に落としてきた。
隊長、団長とトップの座にあり続けているオルガだが、彼も例に漏れることがないのは経験から理解している。
なので、ソファの前へ回った風子がオルガの片膝に腰を下ろした時点で彼の身体と脳は右往左往する暇なくフリーズした。

「疲れてるんだよね。大丈夫?おっぱい揉む?」

トドメを刺された。ものの、この一言とは違う部分がオルガを現実に引き戻す。
真っ直ぐな視線がオルガを見上げている。三日月と似た、あまりにも真っ直ぐで刺さるような視線だ。確かに普段から男女の壁を気にしていないような節があったが、だからと言って安易に性的な冗談を口にするタイプでもなかったはずだ。
オルガからすれば本当に意味を解って言っているのかあやしく感じる。
太腿に乗った尻の肉がやわらかいとか、そういったことに気を取られている場合ではない。そうわかっているのに、先制攻撃とばかりに言葉を発する風子に気を反らされてしまう。

「オルガの手は大きいから、私の胸じゃ揉み足りないかもしれないけど」
「…………………は?」
「…ああ、服邪魔?ジャケットくらいなら」

サイズ感を想像しやすい物言いに、オルガの脳内で黒い掌が彼女の白い胸元に添えられている場面が再生される。そんなことをした覚えはないので完全に妄想だ。オルガは映像を消そうと乱暴に前髪を掻いた。
駄目。駄目だ。手の届く距離に彼女がいるから、余計とこれ以上考えるのは心臓に悪い。企業経営に精を出すやり手の社長だがその中身は健全な年頃の男子なのだ。
鉄華団のジャケットの前を開こうとする小さな手を掴み、閉じさせる。彼女の行動は物理的じゃない分余計と質が悪い。
妨害を受けると風子は邪気のない顔で首を傾げた。

「…なんで?」
「それはこっちの台詞だ」
「おっぱい揉んだら元気になるよ」
「…そうじゃねえ、そうじゃなくてだな」

つい皺が寄った。先程から言葉が通じている気がしない上、なんとなく会話が噛み合わない。ここまできてやっとシノあたりが入れ知恵をした可能性に行き着いた。

「わかってねえだろ。相手が俺じゃなかったらどうなってたか」
「わかってるよ」
「わかってねぇよ、俺は男なんだぞ。もうガキじゃねえ。それなのに…」
「そうだよ。オルガは男で、私は女。だから、オルガじゃなかったら言わない」
「風子、」
「オルガならいいよ」

真っ直ぐだった風子の視線が不意に揺れる。オルガが不思議に思っていると、彼女の白い頬がふんわりと赤く染まった。

「というか、オルガがいい」

滅多に見られない変化にオルガは自身の理性にヒビが入る音をはっきりと聴いた。口を強く引き結ぶ。
やはり彼女はわかっていない、とオルガは思う。オルガが彼女に抱いている気持ちなど、恐らく想像もしていないのだろう。
オルガは舞い上がって突っ走りそうになる気持ちを必死に抑える。

「…バカ野郎、そんなこと簡単に言うな」

そっと小さな背中に手を伸ばすと、すかさず風子から指摘が投げられた。

「?、背中におっぱいはないけど」
「…いいからちょっと黙ってろ」
「わかっ、た」

身体を抱き寄せるタイミングで風子の言葉が切れる。腰にも腕を回し、逃げないように力を込める。顔を髪に埋められ風子は動くに動けなくなった。
痛みはない。むしろ、力が入っているのに優しく感じられる。

「オルガ…?」
「なんか勘違いしてるみてぇだが」
「…うん」
「…胸とか尻とか…“女”の部分じゃなくて、お前がいればいい」
「………そっか…」

風子はオルガの肩口で小さく呟く。そっと目を閉じオルガのスーツに頬を寄せ、小さく微笑む。
まるで花が咲いた時のような。美味しいものを食べた時のような。お風呂に入った時のような。けれどそれらよりずっと、苦しくなるくらい温かいものが溢れてくる。

「…なんかそれ、すごくうれしい…」

オルガの背中は逞しい。何人もの団員を抱えて、毎日毎日団員のことを考えて、そうして働いている。
いくら大きくて逞しいと言えど本当なら乗っかりきれない量を背負って歩いている。沢山のものを落とさないように、仲間の死さえ自分に縛り付けながら進んでいる。

「オルガも勘違いしないで」

見えないけれど、見える。全部。きっと三日月も同じなのだ。
オルガが持っているもの。抱えているもの。背負っているもの。カッコ良いところ、カッコ悪いところ。見えないと思っているところさえ見えている。

「オルガのためなら私の全部あげるよ。
オルガが戦うなら私も戦う。オルガが逃げるなら私も逃げる。オルガが眠るなら私も眠る。オルガを癒す。オルガを生かす。全部やる。オルガだけが、私を決めていい。なんの責任も道徳もいらない。オルガが決めて私が動くなら、その分全部私に投げて良い。
じゃないと、“オルガに全部を預けた私の筋”を通せない」

言葉に例えられなくても、表現できなくても。オルガの全てを分かるなら、自分の全てを彼に渡す。それは三日月も同じなのでは、と勝手に思っている。分からないと思っている部分さえ心の奥底では理解していると。だから、どんな言葉でも納得できる。「オルガがそう言うなら」の一言で済む。“だって、オルガが決めたから”で全て解決する。
オルガがそう命じるのは、預けた側がいるからだ。オルガが言葉にするのは、できると確信しているからだ。
オルガ。世界の中心は、オルガ・イツカ。
契約書にも地図にも書いていない。でも、それが当然なのだ。

重石が乗りすぎた背中に手を伸ばす。彼は三日月や風子を決して軽んじないから重く受け止めてしまう。自覚はあった。死んだ仲間の存在すらとんでもなく大きいのに、生きた人間ならどうなるかなんて考えるまでもない。
でもそれくらいの方が風子的には心地がよかった。
オルガのためなら死すら厭わない三日月と風子の在り方の証明には、調度良い。

大きな肩が揺れる。どうして揺れるのかはオルガにしかわからない。けれど風子はそれすらも分かった。オルガは何も気にするなと声をかけたところでその通りにする人間ではないから。
腕の力が強くなると、心地よさが増した。もっともっとと風子は心の底から望む。もっと命令を。もっと力を。オルガの言葉が、力が、生きていることを教えてくれる。
嫌なら行くなと命令すれば良い。オルガが俺の側にいろと一言発するだけで、彼女は戦わない。けれどオルガは風子を思えばこそ、それが出来ない。
オルガだけが、風子を動かす。オルガがいるから、オルガを全てと言いつつ彼女自身の意思で生きようとする。どうしようもない事実がオルガをまた縛りつける。
嬉しいけれど悲しい、本当のことだ。
オルガは引き結んでいた口を何か言わんとして開きかけた。

コンコン、とノックの音が響いたのはそんな時だ。ドアの外から聞こえたのは三日月の声だった。

「オルガ、いる?」
「ああああああああーーーー!??!!!?」

ガチャリと扉が開く直前、オルガはビクリと背筋を揺らし、風子から離れ彼女を隣のソファに置き、何故か元より緩めていたネクタイを正した。たった一秒の出来事だった。
オルガとしてはおかしな声と一緒に心臓が口から飛び出なかったのが不思議なくらい驚いたのだが、三日月は特に驚いた様子もなく扉を開けたところで止まっている。

「なんかごめん、邪魔した?」
「うん。今オルガにおっp」
「風子ー!!!!どどどどうしたミカ!なんか用かな!?」

いつもの調子で謝罪する三日月に対して、風子も三日月と変わらぬ口調で爆弾を落とそうとする。そうはさせまいとオルガはキャラクターを崩壊させながら問いかけた。

「風子に用があって。オルガのところにいると思ったから」
「…ん?あ、ああ、そうなのか。確かにいるけどよ」
「それで、効果はどうだった?」
「オルガはおっぱいに興味ないみたい」
「えっ」
「そっか。まあシノの言うことだし、博打みたいなもんだったけど…なんかごめん、余計なことしたかも」
「ううん、多分シノが単細胞なだけなんだと思う。仕方ないよ。わかってたことだし」
「そうだなあ…うん。確かにそれはわかってた」
「えっちょっ、お前ら」

例えるなら今日の天気について雑談を交わすような調子でとんでもない会話を始めた二人にオルガは動揺を隠せない。弟・妹分のような立ち位置の二人からいかがわしい言葉が飛び出たら誰だってこうなる。一回目はうまく妨害したのにこれでは全く意味がない。
三日月はオルガをじっと見つめたあと、くんくんと鼻を動かして風子を見た。

「いいとこだったのは本当みたいだね」
「すごい、三日月なんでわかるの?」
「オルガのにおい、風子からもする」
「ほんと?羨ましい?」
「うん。ちょっとだけね」

冗談めかして静かに笑う三日月にオルガは一人肩を落とした。
会話の流れからして、原因はシノだったとしても風子をけしかけたのは三日月ということになる。一瞬でもシノを犯人と考えていた自身の至らなさが恥ずかしかった。三日月にまで心配されるほど深刻に見えたのだろうか。

「オルガ、最近全然休んでないから」
「それ、私もう言った」
「ああそう?それで?寝るって?」
「ううん、私がいれば良いって」
「へぇ……オルガ、元気になった?」
「やっぱりおっぱい揉む?」
「いい加減にしろ」

似ているとはずっと思っていた。双子じゃないのかと不思議になるくらい。発言の調子も、視線も、命の預け方も。男女の違いはあれど、オルガに対する言動の全てが似通っている。
オルガは深い溜め息を吐き出した。

「ああー…もう考えてらんねぇ…お前ら俺の頭の中さんざん引っ掻き回しやがって…」

二人分の瞳が同時にぱちくりと丸まる。面白いなと思いつつ、オルガは「行くぞ」と声をかけ歩き出した。
三日月と風子はどちらともなく小首を傾げ、オルガを見上げる。

「どうしたの、オルガ」
「どこ行くの」
「…仮眠すんだよ。お前らの望む通り休んでやるから、責任もって寝つくまで話し相手になりやがれ」

オルガに見下ろされた二人は随分楽しそうに微笑んで、一人先に歩みを進める広い背中を追った。歩幅がそもそも違うが、オルガは背の低い二人に合わせて速度を調節している。
寂しがりだの、やっぱり誰かがついていないと駄目だのと後ろから声が聞こえる度に当のオルガは聞こえないフリを決め込むか「あーあーうるせー」なんて気のない言葉を繰り返した。
三人の口元は終始緩んでいたが互いにあえて指摘することを控えた。世辞にも秘密とは言えないながら“秘密”としたことは、三人の胸の内にだけ仕舞い込まれた。



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