落書き文

仄暗い穴の底から

BM 2016.10.27 - 16:59

 ある日の夕刻。
 ライザ・ウェンリスは、自宅であるアパートのキッチンの前で、呆然と立ち尽くしていた。
 彼の視線の先には、三つの蠢く異形の姿。
 ゼラチンのような半透明の躯を、不気味に震わせながら床を這い回るそれは、ヤラカーナという名の――あるいはネコイムと通称される、世界最弱として名高い魔物だった。
 魔力属性によって個体ごとに異なるという淡い色合いの体は、大きいものでおよそ三十センチメートルほどの高さがあり、形としては概ね円錐。例えるならば、容器を返して皿に出したプリンやゼリーに似ている。
 ヤラカーナという正式名称は、オルノウェイスの古語で『なめくじ』を意味する。しかし、その質感と、まるで猫の耳のようにも見える二つの突起――これは感覚器官であるらしい――が頭頂部にあることから、ネコスライム、略してネコイムという俗称のほうが広く知られていた。
「な……なんでうちに、こいつらが……?」
 信じられない、といった様子で呟くライザ。
 このネコイムたちは、出現条件は不明だが、魔力の流れが滞って堆積するような環境、つまり日当たりや風通しが悪く、湿気が多いような場所を好むと言われている。
 要するに、一般家庭の室内においては水回りや物置きなどが要注意だ。とはいえ、ある程度清潔にさえしていれば、通常はほとんど現れることはない。
 彼は、自宅の掃除はそれなりにきちんとしているつもりだった。何か特殊な薬品や、魔術関係の試料などを扱ったようなこともない。にも関わらずこの有り様である。わりと傷付く。
 ゆるゆるとした奇妙な動きで、キッチンの床を徘徊する二匹。
 流し台の中にいる一匹は、じっとして動かない。四方を囲まれているので、安全だと思っているのかもしれない。蛇口から時々落ちる水滴が当たる度に、ぷるり、ぷるりと微かに揺れていた。
「うう……何なんだ、くそう……!」
 唸るように言いながら、ライザは一旦居間へと退却する。
 ネコイムは、攻撃されてもさほど痛くもない上に石でも投げつければ死ぬような、とにかく弱い生き物なのだが、しかしそれでも魔物は魔物。これ自体はほとんど無害だとしても、数が増えれば別の魔物を引き寄せることがあるため、早急に駆除する必要があった。
 実は、ネコイムの体は魔術の触媒や薬などの材料になる。捕まえてギルドに持って行けば買い取ってくれるし、役に立つものではあるのだが、道具も持たない素人の手では、捕獲しようにもあまりにすぐ死ぬので逆に難しい。
 というか、何よりまず面倒なので、やはり退治してしまうに限る。
 間もなくの後、ライザは丸めて棒状にした新聞紙を手に、再びキッチンへ戻ってきた。
「――って、増えてる!?」
 目を離している間に、流し台のネコイムが二匹になっていた。
 思わず大声を出した拍子に、床を動き回っていた方の二匹が反応する。
 口のような穴が現れ、体が縦に長く伸びる。そして、シャー、とも、ミャー、ともつかない謎の音を発しながら、こちらを向いて上下に伸びたり縮んだりし始めた。
 彼らなりの威嚇、あるいは戦闘態勢である。が、しかし。
「か、可愛い……」
 全く迫力のないその様子に、ライザはついそんなことを口走った。正直、むしろ話題の種としては最高なので、写真を撮って友人宛に送信したい。
「いやいや、でも!!」
 それどころではない、と気を取り直し、固く巻いた新聞紙の棒を構えて近付くライザ。イメージは、仕事の時にいつも目にしている、魔狩人である友人の剣の構えだ。かっこいいのでとりあえず真似しておくことにする。
 ネコイムは引き下がることなく、みょんみょんと揺れながら彼を威嚇し続けている。
「――てりゃあ!」
 右の一匹をめがけて、大きく一歩踏み込み棒を振り下ろす。
 動きの鈍いネコイムは、鈍いにしてもさすがにどうかと思うほど避けもしないので、当然のように脳天に命中した。べちん、といまいち締まらない打撃音が響く。
 意外と弾力のある感触。柔らかくはあるが見た目から想定するよりは存外強く反発する、その手応えが、妙に生々しい。
 ミャアァァ、と何とも言えない哀れな鳴き声を上げながら、みるみる融けて崩れるネコイム。
 瞬く間に色付きの水溜まりになってしまったその姿に、彼はとても申し訳ない気分にならざるを得なかった。
 心の中で「なんかごめん……」と謝りつつ、左のもう一匹も叩く。
 二つ目の水溜まりが床にでき、罪悪感に苛まれながらも「さて次は」と流し台へ目を向けると、なんとネコイムが三匹になっていた。
「うわーっ!? また増えてるー!!」
 ショックを受けて思わず叫ぶ。
 しかも、よく見ると全て体の色が微妙に違うということに、彼は今更ながら気が付いた。
 ネコイムは分裂して増えることがあるが、その場合、魔力属性は元のまま引き継がれ、同じ色になる。それが異なるということは、分裂したのではなく、別の新たな個体がどこからか現れたのだということを意味していた。
「なんで!? やめてよ! くっそぉぉこの前掃除したばっかりなのに……!」
 納得がいかない。いつも綺麗にしてるのにと憤慨しながら、彼はどう対処したものかと考える。
 奴らは一匹見かけたら百匹はいる、などと言われていたりもするが、あくまで言葉の綾だと思いたい。本当にそんなに潜んでいたら、それはさすがに洒落にならない。
 どこかに発生源があるのか。現れる瞬間を見ていないため、これは何とも判断し難い。
 今見えている三匹を潰したところで、このままではどうせまた出てきてしまうだろう。きっちり根絶しなければ。
 ぶつくさと独り言を言いつつしばし悩んだ後、彼はおもむろにポケットから携帯を取り出した。
「もう、こうなったら最終手段だ……」
 流し台を撮影し、画像を文書に添付する。
「プロを呼ぼう」
 呪文のように言いながら、送信ボタンを押下した。
 揺れるネコイムを眺めながら少し待つと、携帯に着信があった。
「もしもし!! 画像見た!?」
 すぐさま繋いで言うライザ。
 友人宅の一大事に、通話の相手――魔物退治のプロである魔狩人のハーウェンは、緊張感のない声で所感を述べた。
「見た見た。ウケる」
「笑いごとじゃないよぉ!!!」
 その温度差に抗議しつつ、ライザは状況を説明し始める。かくかくしかじかと手短に言った後、「どうしたらいいですか……」と、すがるような気持ちで訊ねる。
 その声音から、真面目に応じることにしたのだろう、ハーウェンは少々黙って考えた後、ぽつりと言った。
「漂白剤……」
「漂白剤」
 意外なアイテムの登場に、ライザはつい繰り返す。
「塩素系のやつな」ハーウェンは補足するように続ける。「とりあえず表に出てるやつは全部潰してから、排水口に流すといい」
「え、そんなのでいいの? ……これ、排水口の中から湧いてるってこと?」
「それ以外ないだろ。わりとよくあることだよ。漂白剤は洗濯用でも掃除用でも何でもいい」
「うん……あのさぁハーウェン、なんかすごい適当なこと言ってない?」
 口調が何となく雑な気がしてやまないので、不安になって訊ねてみる。すると、彼は少し笑って、そして答えた。
「まぁ、うん、とりあえずやってみろよ」
「何それ!?」
 安心できるわけがない返答に、「本当? 本当に効くの? 大丈夫なの!?」と詰め寄るライザ。
 ハーウェンがこういうところで変な嘘をついてくるような奴ではないことは分かっているが、それにしても色々と気になる。
 しかしハーウェンはそんなライザの気持ちを知ってか知らずか、疑われているのも大して気にせず応じる。
「大丈夫だって。大体、お前の家にありそうな物で考えたらそれしかないし。二時間くらいは水流さないで放置しておけよ」
「そんなカビみたいな扱いでいいの……!? 本当に大丈夫!?」
「ははは、がんばれー」
「うっわ、待ってハーウェン! ねぇ!」
 遠ざかる気配を察知して呼び止めるも、ハーウェンはそのまま通話を切ってしまった。
「ちょっ、お、……えー!?」
 予想外の冷遇に愕然としながら、携帯の画面を見る。
 通話口からは、もう通信終了を示す無慈悲な電子音しか流れてこない。通話時間二分三十七秒の表示。
「くっ……ハーウェンのバカー!!」
 このやろう、と携帯をポケットに突っ込み、それから内心途方に暮れつつ、憎きネコイムトリオに目を向ける。
「はぁ……どうしよ……」
 ため息が出る。仕方がないので、とりあえず言われた通りに試してみることにする。
 手順その一。まずは表に出ているネコイムを叩く。
 通話で散々騒いでいたので、戦闘態勢になるかと思えば、ネコイムたちは相変わらず大人しく流し台に収まっていた。
 僅かに揺れる以外は微動だにしない上、微妙に先程より高さが縮んでいる。隠れているつもりなのかもしれない。確かに、真横から見れば流し台の縁より低くはなっているが、敵であるライザの視点は当然ながらそれより上だ。
「うん……さすがに生き物として、どうかと! 思うけど! えいっ」
 言いながら、新聞紙棒で三匹とも順に叩き潰す。
 鳴きながら崩れて液体化し、排水口にねっとりと流れていくネコイムの残骸。
 とても悪いことをしている気分になるので、せめてもっと反撃の姿勢を見せるとか、もしくは、もう少し魔物らしく禍々しい姿になってくれてもいいのではないか、などと思ってやまない。ついでに、こんな様子で外ではどうやって生きているのだろうかと疑問が浮かぶ。
 念仏を唱えながら、手順その二。
 風呂掃除用の洗剤を持ってきて、それを排水口に直接注ぎ込んだ。
 粘度の高い半透明の液体が、ネコイムの残骸と混ざり合いながら、暗い穴の奥にゆっくりと流れ落ちていく。
「これくらいでいいかなぁ……」
 少し多めに注いだところで止め、しばし排水口を見つめる。見た目には、特に変わった様子はない。
「……ふむ」
 本当に効くんだろうかという疑念に眉をひそめつつ、身を乗り出して覗き込む。
 光の届かない、黒々とした真円の穴。
 その奥底から、塩素の匂いと共に、微かな音が立ちのぼってきた。

 ――ミャアァァ……

「……!?」

 ――――ミャアアァァアァアアァァァ……

「う、うわわあああ」
 ぞっとして流し台から飛び退く。
 か細いながらも合唱のように重なって響く阿鼻叫喚の鳴き声に、彼は「どどどうしよう怖い!」と動揺しながら左右を見回し、流しの横に置いてあった布巾と鍋の蓋を手に取ると、排水口に布巾の端を突っ込んで栓をした上に鍋蓋を半ば叩き付けるように被せた。何でもいいので塞いでおきたい。
 若干聞き取りにくくはなったものの、悲壮感溢れる鳴き声は、まだ微かに漏れてくる。
 さらに、ごぼ、ごぽん、と淀んだ沼のような不穏な音が下の配管から聞こえ始め、流れているのか詰まっているのか分からないがとにかく怖い。
「おお……うわ、うわあ……」
 キッチンの端まで後ずさりながら、こんなことになるなんて、と複雑な思いで流し台を見つめるライザ。
 突如出現した地獄。まさに地獄である。
 想像するに、沢山の小さなネコイムが潜んでいたとか、そういうことなんだろうか。大虐殺もいいところだ。
 いや、害獣なので駆除すべき対象ではあるのだが、なにしろ弱すぎる上に見た目が可愛いせいで、どうにも割り切れない部分がある。こちらが悪者のように思えてきてしまうのだ。
「ごめんネコイム……でもそんなところに出てきた君たちが悪いんだ……」
 可哀想だが、これでいい、問題はないのだと自分に言い聞かせる。
「…………」
 そうして、少し落ち着いてみたところで、ふと思う。
「……おなか空いた……」
 そういえば、そもそも最初にキッチンに向かったのは夕飯の準備をするためだった、と思い出す。 冷蔵庫の中では、使う予定だった食材が解凍してあるが、なんだかもう料理をする気力が出てこない。疲れた。というか、こんな薄気味悪い背景音楽が流れる中で料理なんかしたくない。それに流し台もどうせしばらく使えないので仕方ない。
 そんな風に考えて、彼は肩を落としてため息をつくと、ひとまず片付けてしまおうと、床の二つの水溜まり、もといネコイムの残骸の掃除に取り掛かるのだった。


 排水口から未だ漏れ聞こえる断末魔の合唱が、夕闇に溶けて消えていく。
 ライザは念を押すように追加の漂白剤を流し込んでから再度蓋をして、それから財布と鍵を手に玄関へと向かった。
 行き先は当然、宿屋〈銀の蝙蝠〉、つまりハーウェンの家である。
 今はちょうど夕食時なので混雑しているかもしれないが、それは知ったことではない。
 先程の雑な対応に苦情を入れて、ネコイムの阿鼻叫喚ぶりを報告し、それはそれとしてハーウェン作のむやみに美味しい夕飯を食べるべく、彼は部屋を後にした。

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