落書き文

追悼は黄昏の風に

BM 2016.06.23 - 09:02

 晴れた夕刻。淡く澄んだ水色の空を、柔らかな橙色の光が満たしている。
 カディラ北東部、街の外縁にほど近い、とある一画。
 特に目立った商業施設などもなく、日頃から閑散としがちな地区だが、中でもさらに人通りのないその場所に、彼は一人佇んでいた。
 さらりと長い銀髪が、傾きかけた夕陽に透けて、金色に染まっている。
 その淡紅色の瞳が見つめる先には、旧く懐かしい名の刻まれた墓石があった。
 ここは、古くからこの地域で信仰される神を祀る神殿――いや、礼拝堂、という辺りが妥当なところか。その裏手にある墓地だ。
 整然と並ぶ墓と、その列の合間に敷かれた石畳の小道以外は、細く柔らかい草に一面覆われている。季節柄、ところどころに小さく花など咲いており、ずいぶんと長閑なものである。
 他に参拝者の姿はなく、辺りには緩やかな静謐が漂っている。遠くから微かに響く街の音と、草を揺らす風の音以外には何も聞こえない。
 彼がここに来たのは、実に十数年ぶりのことだった。
 今まで来なかったことには、特に思い当たる理由はない。そして、今日こうして足を運んだことにも別段理由はなく、ただふと思い立って寄ってみただけである。
 そもそも、来たところで大した意味もないだろう、と彼は思う。
 彼は、死後の世界というものには関心がない。
 元より信仰すべき教えは持たない身だ。その辺りの思想については、特に肯定するものはないが、あえて否定しようという意識もない。
 この地域で最も一般的な思想によれば、人は死後、世界を廻る流れの中に取り込まれ、世界そのものの一部となって循環するのだという。
 そういえば、故郷――夜魔族の国、エディンシーラで信仰されていた宗教にも、確か似たような考え方の部分があったな、と曖昧に思い出す。詳しいことはもう覚えていないが。
 ともかく。死者の記憶は世界の記憶として蓄積され、それらは時に、道を示し、生者を導く灯になるという。
 あるいは、死者は世界と同化しており、つまりいつでもどこでも我々を傍で見守っている、という見方もあるらしい。
 ――何にしろ、結局、生きている者の側からしてみれば。実際はどうであれ、死者との交信は常にこちらからの一方通行だ。
 墓の下にあるのは物言わぬ亡骸だけだし、語りかけたところで、言葉に頷く者はなく、問いに答えは返らず。もし仮に、届く先がどこかにあるのだとしても、それを確かめる術はない。
 かつての友人。
 そう、友人と呼ぶのが相応しい。
 目の前の石に刻まれた、その名前と、生きた期間を示す二つの日付けを目で追う。
 その期間の内、彼が関わっていた時間はほんのわずかだったが、当時のことは今でもよく覚えている。色々なことがあったが、あの頃は確かに楽しかったと、今振り返ればそう思う。
 人族の一生は短い。比べて遥かに長い時を生きる夜魔族である彼は、いつも置いて行かれる側になる。むしろいつ死んでもおかしくないような、そういうところにばかりいるくせに、だ。
 ――風が、彼の長い髪を梳いていく。
 気が付くと、浅瀬のような水色だった空は深さを増し、微かに宵の色を帯び始めていた。街を覆う膜のような結界に、うっすらと夕陽が映って、金色に揺らめいているのが見える。
 そろそろ仕事に向かう時間になる。相方も待っている頃だろう、と考えて、思い浮かべた宵闇のような青い目が、旧友のそれと僅かに重なった。
 旧友はもういない。いるのは今生きている者だけだ。世界と同化しきらない彼らの記憶は、生者の側が持っている。
 いつかは、自分が置いて行く側になる時が来るのだろう。
 わざわざ何か残そうという気はそれほどないが。せめて一人くらいは、憶えておいてくれてもいいと思うのだ。
 昼と夜の匂いが混じる風。どこからか飛んできた木の葉が舞い上がり、ふと見れば、東の空には月が顔を覗かせていた。
 ――さて、行ってくる、と。
 彼はそう呟いて、そして墓地を後にした。

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