小説 | ナノ




柴田勝家 隣を歩まない代わりに背を守るから

苛烈な戦をし、悉くを撫で斬りにすると言われる織田軍。
そして、その織田軍に於いても「鬼」と呼ばれ恐れられているのが、鬼柴田こと柴田勝家である。
寡黙で、ただ武によってのみ己が志を示し、主君信長を支える。
ある日、そんな彼の居城から何故か楽しげな笑い声が聞こえていた。

「●●! この前の叔父貴の戦振りを見たか!? やっぱ鬼柴田が軍の魂、半端じゃねぇぜ!」
「もちろん! 叔父貴殿の勇士、いつだってこの目に焼きつけてる。 はあ……、叔父貴殿。この前もやっぱりカッコ良かった……」

興奮した表情で、胡座をかきながらも前のめりで語るのが前田利家。
かつて信長の側近を殺めた際、勝家が信長に直談判し、罪を執り成した。そのことに利家は深い恩義を感じ、以来ずっと勝家を「叔父貴」と呼んでは慕っている。
そして、その利家の前に少し崩した正座で座って恍惚とした表情を浮かべているのが、●●である。
利家たちと同じく織田軍に属し、女だてらに織田の苛烈な戦場を駆けていた。

「俺が言うのも何だがよ、お前もホント叔父貴のこと好きだよなあ」
「何を今更。確かに私の主は信長様だけど、志を捧げているのは叔父貴殿ただ一人。私は一生、叔父貴殿に付いて行くの」
「お、おお。そりゃあ、俺だってそうだけどよ……」

真っ直ぐな瞳で、何の躊躇いもなくそう口にする●●に、何故か利家のほうが照れくさくなって頬を染めた。



●●は、元々織田家に属するとある武家の一人娘であった。父を戦で亡くし、跡取り足り得る男子もいない。本来ならば、●●が婿を取るか嫁に行き血筋を残すことを優先するはずだが、彼女は父の跡を継いで戦場に立つようになった。
●●は父を大層慕っており、父が息災の頃はよく剣術を教わっていた。父に筋が良いと褒められ、母に怒られ、父と共に苦笑する。そんな時間が大事であった。
父を亡くし、始めて戦場に立った時である。どこか虚ろな心のまま、ただ父に褒められた剣技だけで人を数人切った。

「見よ。女子が戦場なんぞに立ちおって、忌々しい」
「大殿の戦の邪魔よ」
「あれの父もなかなかの武辺者ではあったが、死んでしまっては終わりよ。それも男子がおらぬとは、気の毒なことだ」

嗚呼、煩い。合戦場だというのに、何をごちゃごちゃと言っているのだろう。
何故かよく耳に入ってしまう、味方のはずの人間からの罵声。
刀を握る手が震えているのが、怒りからなのか、それとも初めて人を斬り戦場にいるからなのか、●●にはよくわからなかった。
そんな時である。

「ごちゃごちゃと煩いわ!!」

まるで大筒が近くで発砲されたんじゃないかという衝撃のある一声。
思わず吃驚して、●●も周りの兵たちも肩を跳ね上げて目を瞠る。
声の主は、鬼柴田であった。
馬上の勝家は、再び大きく息を吸うと喝と叫ぶ。

「黙して戦え! ただ目の前の敵を討てい!!」

頭を叩かれたような思いであった。
そういえば昔、柴田殿の話を父から聞いたことがあった、と●●は思い出す。
自分よりも少し若く、無愛想故武骨者と思われがちだが、真っ直ぐで実は気持ちのよい奴だ。そう言って、父が笑っていた。
黙って、目の前の敵を討つ。
慕っていた父を亡くした自分に、一番単純で、生きるために一番大切な道がそこに示されたような気がした。
●●刀を握り直し、勝家に返事をするわけでもなく、自分の悪口を言っていた者たちを一瞥することもなく、ただ前へと駆けた。その目は少し、光を取り戻して。

「ふん、それでよいのよ」

その背中を見送った勝家はほんの一瞬だけ目を細め、自身もまた馬の腹を蹴り戦場を駆けた。




以来、●●は勝家を密かに慕うようになった。
勝家にとっては、戦場でのいざこざが目障りだっただけのことかもしれない。それでも何故かあの人の言葉が自分には響いたのだ。
未熟ながらも必至に生き続ける日々の中、あらゆる場面で勝家を目で追った。
その頃は、ただ孤独の中で密かに親しみを感じる人を追いかける迷子のような、そんな気持ちだったのかもしれない。
そのうち利家とも親しくなり、勝家とも顔を合わせたり少々の会話を交わすことが増えた。
自分が利家と仲がいいからか、それともそれ以前からだったのか、勝家が自分を気に掛けてくれているのは気のせいではないと●●は感じている。
まだ戦場に不慣れだった頃、幾度か肝を冷やす場面もあったが、その度に何故かいつも勝家の助けが入った。家中の者に嫌がらせに犯されそうになったときも、急に怒鳴りこんできた勝家にその者たちが投げ飛ばされたこともあった。
心底恐ろしい目に遭った直後に、いつも勝家が助けてくれる。
いつしか、尊敬や親しみ以上の感情が生まれた。

「まあ、お前が叔父貴を慕う気持ちだけは疑いようがねえよ。なあ●●、俺とお前でこれからも叔父貴に付いて行こうぜ」

●●が過去に思いを馳せていると、利家がふっと優しい笑みを零しながら声を掛けた。

「無論。あの方の、叔父貴殿の背中は絶対守る。ずっと付いてくよ」

叔父貴殿。そう口にするのも愛おしい。
柴田様と呼ぶのは、なんだか距離を感じた。かと言って、勝家様などと口にするのも気恥ずかしい上に無礼な気もした。
なればと、ふと隣で「叔父貴、叔父貴」と元気にあの人のことを呼ぶ利家に倣って叔父貴殿と呼ぶことにした。
勝家も別段それを批難も拒否もせず、会話の最中そう呼ばれてもそのまま返している。
自分のような小娘で、柴田勝家を叔父貴殿と呼べている者は居ない。
●●は密かにそんな優越感を抱いていた。
それでも、ちゃんと自分は知っている――

「わぬしら、いい加減にせぬか。やかましくて敵わん」
「叔父貴!」
「叔父貴殿」

ふと襖が開かれ、そこに勝家が立っていた。
どうやら二人の会話が廊下にまで響いていたらしい。会話の内容まで聞かれていたのかはわからないが、少々気恥ずかしい。
利家と●●は、二人揃って苦笑いを浮かべた。

「特に利家、わぬしの声は大きい。武士ならば力は言葉に込めず、己の武に注げ」
「とは言われてもよ、叔父貴……」
「これはもう利家の性分だよね。この前も「柴田殿の犬がよく吠える」って馬鹿にされて……」
「なっ、誰だ!? そんなこと言ってた奴ぁ!」

初耳だったのか、利家が腰を上げながら前のめりで聞いてくる。
利家の前でそんなことを言えば殴られるのは目に見えているので、●●が聞いたのも陰口の部類だった。
「気にすることはないよ」と言いながら、顔が近いと●●は軽く利家の肩を押し返した。

「ふっ、元気なのはわぬしの取り柄でもあるが、犬が吠えるなどと言われたくなくば、今少し控えるのだな、利家」
「犬千代だけに、ですね」
「ちっ……なんだよ、俺ばっかり」
「わぬしもだ、●●」
「えっ」

お叱りの矛先がこちらにも向いたと、●●は目を開いて口を歪める。

「わぬしの声は高い故、よく響く」
「う……」

だから控えろ、というのは皆まで言われなくてもわかった。
勝家も、●●が申し訳なさそうにしているのが見えると、それ以上は言わなかった。

「それにしても叔父貴、なんでこんなところに居んだ? 信長様に呼ばれでもしてるのかよ?」
「否、今日はお市様に用あって参った」

お市様。
勝家の口からそう紡がれて、●●はどきりとする。それから、そっと勝家の顔を見た。
ああ、やっぱりそうだ。

「へえ、お市様かあ。珍しいな。秀吉のやつが聞いたら羨ましがりそうだぜ。な? ●●」
「あ、う、うん」
「馬鹿を申すな。……すぐに参らねばならぬ。わぬしらも、いつまでも町娘のように世間話に花を咲かせているではないぞ」

まるで親のように忠告すると、勝家は来た廊下に戻ろうとする。
やっぱり、叔父貴殿はお市様のこととなると目が優しくなる。そう、ちゃんと私はわかっている。叔父貴殿の特別は、お市様だと。自分はちっぽけな優越感を大事に抱えているだけだと。
行って欲しくないような、寂しいような気持ちになりつつ、●●は知らぬうちに膝の上に置いてあった両手をきゅっと握った。
そして、勝家が部屋を出ていこうとした時だった。

「なあ、叔父貴。俺が犬ならよ、●●は喩えるなら何になんだ?」
「ぬ……?」

急に利家にそう問われ、足を止めて振り返る勝家。
一瞬怪訝そうにしたが、先程の「利家は幼名が犬千代故、騒いでいると犬が吠えていると言われる」という話のことだろうと捉える。
軽く腕組みをし、少しだけ考えると勝家はそっと●●を見やった。

「……小鳥だな」

小鳥?
そう口にしたつもりが、何故が口からは出ていなかった。
しかし、●●だけではなく利家も理由を聞きたそうにしているのがわかる。

「わしのところでは、親鳥を亡くした小鳥がよく囀るのよ」

それだけ言って、勝家は表情も変えずすぐさま去って行ってしまった。
まばたきを二、三度したところで、●●は体温がボッと上がるのがわかった。
堪らず足を崩して、畳に両手を付く。

「お、おい、どうした●●。大丈夫かよ?」
「う、うん。利家……」
「うん?」
「是非も、なし」
「なんで信長様!? いや、それ信長様のつもりかよ!?」

そう突っ込みながらも、少しだけ心配そうに、そして少しだけ嬉しそうに●●の頭をポンポンと叩く利家。なんだか少しだけ兄のようであった。
やっぱり、叔父貴殿は見守ってくれていたのだ。
それに、目が優しかった。
それに、小鳥だなんて、なんだか可愛くて嬉しい。
十分過ぎるくらい、幸せだった。
だから――



だからいつでも、叔父貴殿の為に命を捨てられると思った。

「利家。きっとそれは貴方もしたくても出来なかったことでしょ……?」

賤ヶ岳の戦い。
戦況は既に決したも同然であった。
要所を守っていた利家の軍は撤退。戦の最中、独断でご出馬された市も負傷の後撤退してきた。
瀕死というわけでもなかったが、血を流し帰ってきた市の姿を見て凄絶な雄叫びを上げる勝家の姿を、●●はただ見つめるしかなかった。
本陣は、羽柴軍の精鋭に囲まれていた。

「●●! わぬしはお市様を連れてここから去れ!」
「!? 馬鹿な……嫌にございます!」
「わしの命に従わぬか! お市様にこれ以上何かあっては、わしは信長様に顔向け出来ぬ! 最後の命じゃ、去れい!!」
「ご無礼ながら、お断り致す!」
「わぬし!」

そうこう言い合っている間に、後の賤ヶ岳七本槍と呼ばれる猛将たちが飛び込んできた。
敵の攻撃を躱しながら、勝家と●●は距離を取らされる。

「っしゃああああ!! 鬼柴田あああ覚悟おおおおお!!」
「馬鹿、油断するな。相手は鬼柴田だぞ」

勝家には加藤清正と福島正則が二人掛かりで付いていた。
少し遅れて、総大将羽柴秀吉と清正たちと同じ子飼いの石田三成が現れる。
秀吉は●●の姿を見つけると、すぐに対峙した。

「秀吉……!」
「●●、お前さんまだこんなところで戦っとったんか……」
「総大将自ら敵前に現れるとは、余裕だな」
「そう怖い顔をせんどくれ。わしは、利家だけじゃなくてお前さんのことも……」
「くどい!」

予てより●●のところにも和睦の打診が来ていた。
利家と親しくしていたのだ、秀吉とも交流が無かったはずがない。まつやねねの顔も浮かぶ。
しかし。
一瞬だけちらりと後ろで戦っている勝家を見やる。
私が守るのは、あの背中だ。
ずっと追いかけて来た、あの背中だ。

「我らが総大将鬼柴田の首が欲しくば、私を殺していけ! 潔く私と戦え! 秀吉!」
「ぬう……!」
「さもなくば、その首私が頂く!」
「そうはさせぬよ!」

振り下ろした刀を、三成が受け止める。
そして、意を決した秀吉が棍を振るう。
後ろに飛び退きながら棍を刀身で受け止めるが、その隙に今度が三成が斬り込んでくる。
避けようと体を動かすが、秀吉の打撃を受け止めた分対処が遅い。
三成の鉄扇が、●●の右腕に朱い線を走らせる。

「っ……」

深くはないが、浅くもない。
さらさらとした血液が腕を伝わり落ちる。
それでも●●は少しだけ目を細めるだけで、大きく表情を変えることはなかった。
すっと息を吸うと、すぐさま再び秀吉たちに斬り掛かる。
ただ目の前の敵を斬る。
その言葉に従うように、一心不乱に戦いに挑んだ。
だが、相手は多勢に無勢。三成以外の武将も秀吉を援護していたし、●●には息をつく間もない。
みるみる●●の姿が血に染まっていく。
それを見て、遂に秀吉が大きく顔を歪めた。

「●●! もうええ! いい加減、降参しとくれ!」
「っ……はあ、っ…はっ…」
「なあ、●●! もうええじゃろ? わしはお前さんのことをこれ以上……」
「煩い」

ようやく来た呼吸の機会に、●●は肩で息をした。どっと汗が噴き出る。心臓が煩い。眩暈がするようだ。
それでも、その眼は秀吉を毅然と睨み返す。

「私は、鬼柴田の軍に属する●●だ。っ……喚くな猿め、黙して、黙して戦え……」
「●●……」
「私と戦ええええ!!」

瞬間目が見開かれ、その奥の“何か”が秀吉を捉える。
思わず、唾を呑んだ。

「鬼、じゃ……。さすがは鬼と呼ばれる柴田殿の……まるで鬼姫じゃ……」

そう秀吉が、まるで独り言のように呟くと、ふと一層低い声がした。
低く、この場にふさわしくないような優しい声がした。

「ふっ、鬼じゃと? 笑わせる。これは小鳥よ。わしの為に必至に囀る、ただの可愛い小鳥よ」
「叔父貴、殿……?」

急に肩に温かな重みを感じ、●●は首だけ振り向く。
そこには自分と同じく血を流した鬼柴田が立っていた。

「し、柴田殿」
「猿」
「は、はっ」

もはや敵同士であるというのに、それまでの癖で畏まって返事をしてしまう秀吉。
いや、勝家に何か底知れぬ迫力を感じたせいかもしれない。
だが、戦場では鬼と呼ばれし彼の者の表情は酷く穏やかだった。

「この戦、わしの負けでよい」
「なっ、叔父貴殿!?」
「柴田殿……」
「その代わり、これを連れて行け」

そう言うと、勝家は手を置いていた●●の肩をトンッと押した。
満身創痍と言っていい程傷つき疲労していた●●の身体は、ふらりと前に揺れる。
慌てて秀吉がその体を支えた。

「叔父貴殿!?」

支えてくれた秀吉のことなど構わず、なんとか身体を勝家に向けて声を荒立てる。
だが、勝家は●●と目を合わせてはくれない。

「◯◯殿から預かった大事な小鳥よ。わぬしらと共に、次代に連れて行け」
「叔父貴殿!」
「この戦に、……否、古き時代に殉ずるのはわしだけで十分」
「勝家様!!」

ようやく、この口からその名を呼んだというのに、視界は霞んでしまって愛しい顔が見えない。
嫌だ嫌だと手を伸ばしても、勝家は掴んではくれない。
それでも、空気で勝家が笑ったのだけはわかった。

「●●、よくぞ今までわしに付き合うた。これからは、わぬしらの時代を生き、自由に飛ぶが良い」

そう言うと、勝家は静かに踵を返し、●●に背を向けた。
止めなくては。あの背は私が守らなくては。
ましてや、自分の為にあの「鬼柴田」が屈していいはずがない。鬼柴田の軍の魂、私が汚してなるものか。
そう思っても、突き放されたようで胸が潰れるように苦しく、喉から何も出てこない。
言葉にならない想いが、今にも子供じみた嗚咽となって零れ出そうだった。
そんな時だった。

「お待ちなさい、勝家」

凛とした、女性の声が響く。
そこに居たのは、先程負傷して戦場から離脱していたはずの市であった。数カ所に手当ての跡が見られる。

「お、お市様!」

驚きつつもどこか嬉しそうな秀吉の声がする。
それに続いて、足を止めた勝家が静かに振り返る。

「……お市様」
「いい加減に、●●の、そして自分の気持ちに向き合ったらどうですか」
「何を仰られる」

互いに真剣な視線を交わす、市と勝家。

「猿」
「ははっ!」
「この場は……、私に免じて収めてください」
「お、お市様、それはその……」
「代わりに、私が羽柴軍に降ります」

その言葉に、●●も勝家も秀吉も目を見開く。

「何を馬鹿なことを!」
「勝家……、私はもう、嫌なのです。乱世に巻き込まれて、大切に想い合う者同士が別れていくのは」

震える声でそう呟く市に、声を荒立てていた勝家も言葉を飲んだ。
市が心底愛した長政のことを言っているのだと、誰もがわかった。

「ただ、傍に居られるだけでいいのです。ただ、それだけでよかったのです……」
「お市様……」
「それに、わかっているでしょう? ●●が、別に親鳥を求めて鳴いていたわけではないと」

市にそう言われて、勝家はちらりと●●を見やる。
身体はボロボロで、未だ秀吉に支えられている、弱々しい娘が涙を流しながらそこに居た。
勝家は、自分でも無意識にぐっと拳を強く握る。

「ぬぬぬぬぬ……わかり申した!わかりましたぞ!」
「っ、ひ、でよし……?」

急に後ろで大きな声を上げた秀吉に吃驚して、目を瞑る●●。
振り返って顔を見れば、こんな状況だというのに何やら嬉しそうな顔をしている。

「大丈夫じゃ、●●。わしにいい案がある!」

そう言いながら●●の頭を撫で、彼女をそっと市の方へ預けた。

「お市様、●●をお願い致しまする。柴田殿、我らの戦に決着をつけましょうぞ」
「……」

勝家は無言で目を瞑ると、斧をぐっと握り込んだ。



***



それからそう時も経たぬうちに、秀吉は天下を治めた。
あの賤ヶ岳の戦いは、羽柴軍が勝利を収め、鬼と名高き柴田勝家も時代とともに散った。
そう言い伝えられている。

「叔父貴殿、朝餉の支度が整いました」
「……そうか」

凡そ人が立ち入らぬとある山の森の中、散ったはずの鬼の姿があった。
勝家は薪割りをしていた手を止める。首から下げていた手拭いで、静かに汗を拭った。

「……」
「……」

無言で、山小屋の入口の方へ向かう二人。
●●は勝家の数歩後ろを歩いていた。

あの戦、市との言葉と●●たちの気持ちを汲んだ秀吉が、終戦にあたって色々と細工をしていた。
世間的に、柴田勝家は既に死んだことになっている。●●も同様に。
●●は秀吉と最後に交わした会話を思い出す。

「二度と会えんかもしれんが、お前が笑っちょればそれでええ」
「秀吉……」
「何せ、わしが目指しとるのは皆が笑って暮らせる世、じゃからな! わしが見とらんところで、友のお前さんに泣かれとったら敵わん」
「……」
「●●、たっしゃでな」

そう最後は友としての言葉を贈ってくれた。

程なくして今の地に至り、勝家と二人暮らすようになった。
あれからますます勝家は言葉数が少なくなったが、不思議と居心地は悪くない。
あの日力になれず、彼の誇りを傷つけてしまったことに申し訳無さは尽きないが、この背中を見ていられるというだけで仄かな安心と幸福を抱く。
ふと、数歩先を歩く勝家の足が止まった。

「どうかされましたか……?」
「……わぬしは、いつもわしの後ろを歩くと思うてな」
「そうですね、昔からです」
「もうわしは武士でも家老でも大名でもない。わしを敬う必要もなかろう」

そう言われて、●●はぽかんとしてしまう。
いや、本当を言えば申し訳ない。その状態にしてしまったのはきっと自分のせいだ。
言葉に困っていると、勝家は少しだけ振り返る。
視線が交わったことで、反射的に●●は頭を下げた。

「申し訳ございません」
「何を謝る」

自責の念は抱いていた。
けれど、それを口にしては自惚れもいいところだと●●もわかっていた。
実際に、恐らくは察しているのであろう勝家の声が微かに怒気を帯びたのが感じ取れた。

「……いいえ、何でもございません」
「……」
「ですが」
「何だ」
「叔父貴殿は勘違いをされています」

勝家はそのまま無言で●●を見つめ、続きを促す。

「私が叔父貴殿に付いて回るのは、叔父貴殿が織田家中にて力のある方だったからではありません」
「……」
「叔父貴殿だったからです。叔父貴殿が、ずっと目指すべき背中を見せていてくれたから、私は生きてこれたと思います」
「……そうか」
「それに」
「まだあるのか」

照れくさいのか、こういう話が苦手なのか、声と表情に微かに動揺が見えて思わず目を細める●●。

「はい。また叔父貴殿に勝手に置いて行かれては困りますので、今度こそはこの背を逃さぬよう見張っております」

そこまで行って、●●は小さく笑い声を漏らした。
あの日、本当にあのまま勝家が自分を残して逝ってしまっていたらと思うとゾッとする。恐らくは自分を後を追っただろうが。
何にせよ、あの日の光景は●●にとっても忘れがたい悪夢であった。
●●にとっては軽い冗談であり、しかし事実も潜ませた言葉だったのだが、どうにも勝家は真顔のまま反応を示さない。
しまった、いくら二人で暮らした時間が多少あったとしても不躾なことを申しただろうか。
不安になって彼の機嫌を伺うように除くと、次の瞬間、勝家の目がすっと細められた。
●●も驚くような、見たことのないような優しい目であった。

「このわしを見張る為に、と申すか」
「あ、や、あの、叔父貴……」
「●●」

落ち着いた、けれど威厳のある声で●●を呼ばれて留まる。
●●は軽く混乱していた。
そんな彼女の目の前に、すっと手が差し伸べられる。
●●はますます測れなかった。

「わしはもう、二本の斧を持つこともそうなかろう」
「そう、ですか……」
「わしの背を追って飛び回らずとも、こうすればよい」

そう言って、勝家はそのまま手を伸ばし、●●の手を取った。

「お、叔父、叔父貴殿……!?」
「か弱い」
「そ、そんなことありません! 腕っ節には……」
「●●」
「は、い」
「お市様に言われたことを、ずっと考えておった」
「……はい」
「……わしはもう鬼でも親鳥でもない。だが、ただの男として言う」

そう言うと、勝家は少しだけその手を引く。
●●は逆らうことなく、一、二歩勝家に歩み寄った。勝家のすぐ横に立ち、じっと彼の顔を見つめる。

「これからは、わぬしもただの女子として、……わしの隣を歩んではくれぬか」

驚きのあまり言葉を失い、やけに森が静かに感じた。
見開いた目で勝家を見つめて、そして自然にその目から滴がこぼれ落ちる。
しかしそれは、やけに暖かく優しい感触がした。

「はい、勝家様」






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