誰も来ない屋上で煙草をふかす。冬がすぐそこまで来た、ただ青いだけの空を見上げた。そこには俺を興奮させるものも未来への希望もなくて、ひたすらにつまらなかった。透けるような青には何もない。何も。
「あーもう倉野くん、また授業サボって煙草吸ってー」
暢気な声が俺を思考の淵から引きずり上げた。それを若干不快に思いながら無愛想に山田を見る。この取り立てて言う特徴もない男は俺の担任だ。他の教師はボンボンで不良の俺を怖がって敬遠しているのに、何故か山田は俺にちょっかいをだしてくるのだ。莫迦なやつだ、と思う。正義感からなのか、それとも熱血教師を演じてる自己満足なのか。いずれにしても時間の無駄だ。くだらない。
「……なんの用だよ」
「何の用じゃないでしょー、俺の大事な教え子がグレちゃってんだから。注意しに来たんだよ。あ、一本頂戴」
山田はあっけらかんと笑って俺の隣に移動した。屋上のフェンスにおっかかり、奴は先刻までの俺と同じように空を仰ぐ。そこにはなにもない筈だった。なのになぜそんな、面白そうな顔ができるのか。
「あれ? この煙草もしかして日本製じゃない?」
「……」
「やっぱりね。すげー高い味がする」
山田はその小さな口でヤニを咥え、ふがふがと間抜けな顔して呟いた。はっきり言って大学生、下手したら高校生に見えかねない容姿の山田が煙草を吸っていることに違和感を覚え、俺はつい口を開いてしまった。
「…ヤニ吸うんだな」
「まぁね。俺も昔はやんちゃしてたんだよー。あ、喧嘩とかは全然できなかったんだけどね!」
嘘だろ。この地味で冴えない、生徒からもなめられるような教師が、?
「ねえ倉野くん」
「…んだよ」
───気を付けなよ。
山田はそう言ってふわりと笑った。柔らかい棘を孕んだ笑い方だった。雰囲気は笑っているのに視線は鋭い光を携えて、それでいて可笑しそうに歪んでいるのだ。
なにを、と言いかけた時には山田は背を向けて歩き出した後で。呼び止めるのも格好がつかねえ気がしたから舌打ちをひとつした。
空の魚と白昼夢
その日はやたらとネオンが目立つ、ひどく寒い夜で。
(クソ…)
歌舞伎町の隅の路地裏で、俺は激痛に顔をしかめた。痛え。腹が背が腕が足が頭が。あいつら、集団で囲むなんて卑怯じゃねえか。絶対ぶっつぶす。1人1人に報復してやる。
どうせ面は割れてんだ。敵対してる族の一派だろ。そういえば前俺のとこの族に入れてくれって言ってきた奴らだったか。即時却下したから逆ギレしたのか? ハッ、格好悪ィ。
また浅い息を吐く。
二酸化炭素はいつまでも白いままそこに漂っていた。
(…動けねえ…)
集団リンチで鉄パイプに刃物か。流石に1人じゃ辛かった。数人殴り倒してビビらせた所を逃げてきたが。
路地裏に転がり込むのがやっとで、とても歩ける状態じゃない。ずるずるとコンクリートに座り込むしかない自分が情けなかった。
「ちくしょ…」
徒に携帯を開いてみる。
暗い路地裏に無機質なディスプレイが眩しかった。
電話帳を軽く眺めるが、意味がないとすぐにポケットに戻す。こんな無様な姿を晒すのはプライドが許さない。
「っ…はぁ、」
意識が朦朧としてきた。歌舞伎町の裏なんかで倒れたらヤクザに売られるのは分かっていたが、どうにも体が動かない。誰かに情けなく頼るくらいなら野垂れ死ぬ方がマシ───
「あれ…? もしかして倉野くん? どうしたのこんなところで」
聞き覚えのある気の抜けた声が路地に響いて、はっと顔を上げた。そしてそこに立つ人物に愕然とする。
あり得ない。だってあり得ない。なんで、なんでこんなとこにコイツが。
「だから気を付けろって言ったんだよ?」
眉を下げて笑う山田は、いつものスーツ姿ではなく地味な私服に身を包んでいた。溶ける様な黒を着こなしている──いや着ているというよりは、夜にそのまま身を投じている様だ。
(気配がしなかった…)
「明日テストだから今日は早く寝るようにってHRで言ったんだけど…」
山田は苦笑して俺を引き起こした。身体中に走る痛みに眉をしかめながら、最後の意地で奴を睨みつける。
「要らねえ!」
「はい?」
「助けなんざ要らねえっつたんだよ!」
至近距離にあった頬を力いっぱい殴った。山田はそれをモロにくらい、壁に叩きつけられていた。いいザマだ。俺に無遠慮な偽善を押し付けるからだ、奴の自業自得だ。
「………」
さっさと此処から立ち去ればいいのに、俺は動けずにいた。怪我のせいだけじゃない。俯いている山崎の雰囲気が、何時もと違う。これを俺は知ってる───裏の世界を知り尽くした者が醸す色だ。
「もう…倉野君はホント不良だなあ」
「え…」
「でもそんな生徒を放っておくわけにはいかないんだよねー、一応俺教師だし」
次の瞬間にはころりと表情を変えて笑う。その黒にあまりにも不釣り合いな表情。ああそうか、こいつは只者じゃない。丹精に隠したその裏に、きっと何かを抱えてる。
───おもしれぇ。
今までただの背景だった男が好奇の対象へと変わる。数分前はこの教師に不快感すら覚えていたというのに、新しいオモチャを見つけた気分と似ていた。
「おい山田」
「え、なにどうしたの改まって」
ああ、口角があがるのが分かる。
「お前俺の担任だよなァ」
「…そうだけど」
俺が何を意図してるのか掴めないのか、山田が小首を傾げた。短めに結ったポニーテールもそれに合わせて跳ねた。
「俺今家に帰れねーんだよなァ。俺を放っておけねぇんだろ? お前ん家泊めろよ」
暴いてやる、その秘密。
「…りょーかい」
俺が挑発的な笑みを送ると、それに答えるように山田もニヤリと笑う。
悪そうな顔で口角を上げる山田を初めて見た。それは酷く奴の「黒」に似合っていて、ああ奴の本質はこちら側なのだと確信した。
「その代わり、明日のテストはいい点取ってよね」