三日月魚
 暗闇に沈んでいく呼吸の広がりに、安寧に潜む崩壊の形象に、僕を陥れようとする影が潜む。僕はそれに気づかないふりをして、半透明のドアを開いた。
「入るよ」
 無遠慮なまま濡れた床を踏みしめれば、白い靄に隠された顔が驚きの色を乗せる。
「…なに、サカナ、また来たの」
 どこまでも硬質な声だった。
 彼がかつてのチームメイトに向けるものとは全く違う。少しばかりの苛立ちを胸にじとりと睨んでやる。
「来ちゃあ悪いか?」
「別に…」
 彼はふいと顔を背けて、居心地悪そうに体を隠した。入浴中に乱入されたら当然の反応なのだろうが、僕らの仲では今更だ。
「でも、どうして俺…ンンっ!」
 うるさい口は塞いでしまうのが早い、と、気付いたのはいつからだろう。
 僕は彼の口内に舌を差しこんだまま、ずるりと上顎を舐め上げた。
 彼も彼で最初は身を固くしていたのだけれど、暫くすると向こうから舌を絡める余裕も出てきたようだった。さりげない手付きで僕の腰を引きよせ、何も見につけていない下腹部が触れ合う。どきりと心臓が跳ねるのを誤魔化すようにくちびるを噛んでやった。
 そうして痛みに口を離した彼は、なんでもない様子で問う。
「また俺に抱かれに来た?」
 からん、と投げ捨てられたシャワーが転がる音。
 僕と彼、ミカヅキは、所謂セフレの関係だった。








「う、…ッ」
 彼の指がこりこりと乳首を抓る。軽くシャワーを浴びた僕は彼を引き摺りながらベッドに向かうと、投げるように押し倒した。ミカヅキの部屋は狭くて汚くて落ちつかないが、このベッドだけはまあまあだった。スプリングもシーツの肌触りもギリギリ及第点と言ったところだろう。最も、そうしたところが気に入ったから彼とこうした関係になったのではないけれど。
「サカナ、触り辛い」
 ミカヅキはベッドに寝転んだ体勢で、僕が彼に跨るような体勢になっている。腕を伸ばし続けなければならないのが気に食わないらしく、彼は眉間にしわを寄せた。なんだ、ミカヅキのくせに。
「……うるさい」
 だったら触らなければいいのだ。
 元より彼がマグロでも何ら支障はない。僕は僕で好きにやらせてもらう。
「せめて腰もっと前に出してよ。後ろ解せない」
「君の手出しは必要ない」
 冷えた声色で言い放ち、黙ってそこで見ていろと視線を送る。彼は諦めに似た色を浮かべて溜息を吐いた。
 ここに来る前に準備していたそこは、もう十分に解れているはずだった。念の為にローションを垂らして指を入れてみる。緊張のためか、少し入り口が強張っている感じがする。薄い焦燥のみが喉に貼りつく。
「………」
 ミカヅキが黙って俺を見ている。何を考えているのかもう僕には分からない。ただじっと視線を寄せられてからだが震えた。早くしなければ。早くしないと、彼が萎えてしまう。
「…ぅ、く…ッ」
「そんな触り方したら傷つくよ」
「うるさい…っ」
「やっぱりサカナに任せておけない」
 ミカヅキは強引に起き上がると、くらりとバランスを崩した僕の身体を支えた。触れたところから熱が伝わってもう戻れないような気持ちになる。いけない。すぐに彼から離れなくては。
「ほら」
 ミカヅキは僕の腰に手をまわして身体を支えて、もう一方の手で入り口を擦った。ローションを注ぎ足して滑りを良くしているみたいだった。僕の方はというと、入口を何度もこすこす触られてたまらない。いつまでもそんなところにいるんじゃない、はやくいれてくれ。
「…分かってるって」
 ミカヅキは小さく笑うと、ぐっと二本の指を突き入れた。内側が悦楽で波打つ。身体が紛れもない歓喜に染まっていくのを、彼だけには感づかれないようにしなければ。そうだ、何か別のことを考えよう。今更な気もしないではないが、例えば僕と彼との関係性について。
(どうして彼は、僕と…してくれるんだ)
 はじまりは僕からだった気がする。いや、僕から以外にはありえないのだと知っている。たぶん彼にしこたま酒類を飲ませて、無理矢理勃たせてヤッた。翌朝覚えていないと宣う彼を言いくるめて脅して、体だけでもいいから責任を取れだなんて言って。いや、はじまりはもっとずっと前のことだったのかもしれない。僕らがまだ制服を着てヤンチャしていたころ、チームの中での呼び名でお互いを月と魚に見立てたりしていたころなのかもしれない。あの頃から僕は、ミカヅキのことを、
「っふ…ぁ、」
 ぬぷっ、ぬぷッという卑猥な音が下から聞こえる。もう中はぐちゃぐちゃに溶けていることだろう。頭に白靄がかかって、もう僕は声を我慢することしか考えられない。みっともなく啼くのだけはいやだった。
「じゃ、いくよ…」
 ぬろぬろになった秘部に、ミカヅキの雄が入ってくる。圧迫感に少し泣いた。これももう何度目だと言うのに、いつまでもこの感覚には慣れなかった。
「は、ぅ…ッ」
「サカナ、ねえ、身体硬くしないで」
 そうしてミカヅキは落ちつくまで僕の背を撫でてくれた。それにほうと息を吐いて、控えめに頬を擦りよせる。彼は、こんな時だというのにひどく優しい。一番に僕を気遣ってくれる。そういうところに泣きそうになりながら、ただ言葉に出来ない気持ちだけを抱えていた。僕はこの感情の名前を知らない。
 この、ひどく優しいだけの彼は。
 何故僕を嫌いにならないんだろう。なんで、こんな、連絡もろくにせず押しかけてセックスを強要する僕を、拒絶しないんだろう。貞操観念はしっかりしていそうだけれど、もしかして誰とでもこんなことをするのだろうか。…いや、そう思われているのは僕の方か。
「ああ、サカナ、もうこんなになってる。ひくひく動いてるの、自分で分かる?」
「くッ……、ぅ…」
「ほら、逃げようとしないで。どこにも行かないで。俺だけ見てて」
「ン、ぁん……っ」
 彼の熱に、彼の言葉にどんどんと蕩かされていく。唇の端から涎が垂れる。彼と向き合ったまま挿入しているわけだし、もう真っ赤に溶けだした僕の顔は見られている筈だ。俺だけ見てて、なんて、どれだけ甘い言葉なんだろう。媚薬のように浸透し、僕の脳内を駄目にしていく。ただのリップサービス、もしくは憐れな僕を揶揄っているのかどちらか。
 分かっていても抗えない。
 ミカヅキは優しくて酷い男だった。
 もう、いい。こんな恥ずかしいとこを見られているんだ、ミカヅキには何を見せたっていい。そうに違いなかった。
「な、ぁ…今度星を見せてくれないか」
 ぽつり、汗の代わりに何かを落とす。何かを喋っていなければおかしくなりそうだった。何かを勘違いしてしまいそうだった。そう、例えば彼が僕に好意を抱いているだとか、そういう類の妄想だ。
「星?」
「そ、だ…どこか人のいないところがいい」
「ふぅん」
 ミカヅキは冷たい声で鼻を鳴らして、見透かしたみたいに乳首を噛んだ。
「海と山、どっちがいい?」
「んんぁ…っ」
「言っとくけど俺、お前みたいな財力ないから電車移動基本だけど」
「あっン、へい…き…だ、それくらい」
「サカナ二時間も小田急乗れる?」
 こくこくと頷く。ミカヅキが噛んでいる、右の乳首が気持ちよくて何も考えられない。びりびりと電気を流されているみたいだった。それに呼応するように、中もきゅうきゅう締め付けてしまう。これではミカヅキに喜んでいることがバレバレじゃないか。
「それから?」
 ミカヅキはゆるく腰を揺すりながら、真っ直ぐ僕を見上げてくる。
「もう無いの?」
 ミカヅキはもう分かっているみたいだった。
 僕がどうしてミカヅキに抱かれにくるか。
 僕は、つまり、きみに抱かれている時しか素直になれないんだってこと。
「お…」
 泣きそうになりながら唇を動かす。
 屈辱なのか快楽なのか、もう分からなかった。
「なに?」
「おでん、食べたい…」
 ぐちゃりと腰を回されて、引き攣った悲鳴が喉に貼りつく。たちどころに全身が痺れる。下半身が溶け出したように気持ちが良かった。
「ま、待て、今動くな」
 じわじわと理性が焼き切れていく音がする。今めちゃくちゃにされたら、僕は何だって我慢できる気がしない。
 だって、気持ちいい。
 ミカヅキに抱かれるのが、気持ちいい。
 彼が、僕の中に入っているというそれだけで、世界が終わる気がする。
 だから、待って。
 もう少しこのままで。
 あと三秒だけでいいから、ゆめを見させておいてくれ。

「待たないけど?」
 けれど無情なミカヅキは、世界を終わらせるための律動を再開する。揺らされるタイミングに合わせて軽く腰を前後に動かすとちょうどイイトコロに擦れるみたいだった。くい、と腰を回せば脳天が痺れる、汗が噴き出る、背筋がしなる。気づいてしまえば、カクカクと腰を振るのを止められなかった。僕が腰を動かすたび、勃ち上がった性器がふるふる揺れる。彼の視線の先で。
 お尻に性器を入れられて、だらしなく勃起しているのを、彼に、見られている。
 それがひどく気持ちよくて、気付いたら人差し指で尿道を押していた。
「ンぁう…!」
「ふ、俺でオナってるみたいだね」
「ぁ、あ、…あぁっ」
 涙と涎でぐちゃぐちゃで、僕は君にしがみついて馬鹿みたいに腰を振って、それでもおねだりを続けてしまう。
「キス…し、ろ」
「はいはい」
 ミカヅキは僕の前髪を掻き上げて、汗に濡れた額を拭ってから、顔中にたくさんキスをくれた。おでこ、ほっぺ、みみたぶ、それからくちびる。
 じんわりと何かが埋まっていく気がする。一番大事なものに気づかないふりをしているのに、それでも一時は満たされるのだ。
 馬鹿なミカヅキ。
 僕なんかに利用されて。
 僕なんかを抱いて。
 ストレスのはけ口にされてるのに気付かないで。
 僕の願いばかりを聞いて。

 ねえ、僕の知る未来の話をしようか。
 ミカヅキはきっとこの先純朴でやさしい彼女を作って、どこか田舎で式を上げ、凡庸だけど幸福な家庭を築く。
 その未来に僕はいない。
 どこにもいない。
 まるで最初から交わることのなかったみたいに、僕らは綺麗な軌跡を描いて沈んでいく。
 知っている。すべて分かっているんだ。
 だからこんなにも、嬉しくて悲しい。
 彼に抱かれているのに、満たされているのに、僕はずっとずっと切なかった。



 暗闇に沈んでいく呼吸の広がりに、安寧に潜む崩壊の形象に、僕を陥れようとする影が潜む。それは太陽よりもやわらかく、また明け方の紫陽花のように艶やかでうつくしかったため、すべての始まりがそこに起因するのではないかと、愚かな僕は夢見ていたんだ。そうだ、僕を陥れたそれは、きみの確かな贖罪であり、同時に僕を貶める恐怖であった。きっとやさしい言い方をしてしまえば、僕と言う一個体が失われてただの人間に作り替えられていくということになる。と同時にこれまでの現在を原罪として受け入れることになり、イカロスが翼をもがれることと等しい。いま僕は普遍を求めてきみの胸の花を摘む臆病者でしかなかった。ぐしゃり、また君を傷つける音がする。真夜中のユニコーンがもし泣いているのなら、それは僕の耳にも届く哀かもしれないと思った。


「なあ、サカナ」
 すべてが終わって、ミカヅキの狭いベッドに二人して倒れこんで、携帯の着信音をぼんやり聴いていた。何も言わずに家を飛び出してきたから、それなりに叱責は受けると思うのだけれど、今それについて考える余裕はない。ただ怠惰で淀んだ空気を舌で転がしていた。
「なんで俺がお前を抱くのか分かってないだろ?」
 ミカヅキの乾いた腕が瞼を撫でる。僕を寝かせようとしているのかもしれなかった。
「…キミに行動原理などない。すべては僕が望んだからこうなったんだ」
 ここで眠るわけにはいかない。熱い指先を振り払って、あと三十分で戻らなければ、と考える。考えるのだけれど、存外に居心地よくて瞬きの速度が鈍る。
「人間の手のひらは二つしかない。その面積も限られている。ひとが生きるうち所持できるモノの数は限られている。君はたまたま人よりも早い腕と、人よりも大きな手のひらを持っていたから、全知全能であるような気がしただけだ」
 眠気と共に繰り出される話は要領を得ない御託ばかりで、ミカヅキの話は今ひとつはっきりしない。
「喩え話は嫌いだな」
 欠伸を噛み殺して呟く。
「手に入るモノと、手に入らないモノを見誤るから、サカナは馬鹿なんだよ」
 その日、都合の良い男であるはずのミカヅキは、なんだか違う顔をしていた。それは死のような退廃であり、生のような劣悪であった。しかし同時にその鋭利さに惹かれたのも事実。
「……ミカヅキ、僕は見誤ってなどない」
 少しだけ笑う。
 そう、ミカヅキは知らないが、僕はちょうど少し前に結婚したのだった。
 相手は十年来の婚約者だった。
 お互い恋情など抱いてはいないただの政略結婚だが、それでも僕が失くしたものは大きい。
 たとえばそう、キミとの未来とか。
「……こら、何をしている」
 ちゅうと唇が吸われるのに気付いた。重たい瞼を抉じ開けて、目の前の彼を睨む。
「何って、いいでしょ、もう一回」
 彼はへらりと笑って、僕の濡れた髪を掬う。その指先があんまりにも熱いから、瞼の裏まで熱くなってきてしまった。視界の彼が揺らいでいく。いっそこのまま溺れてしまえればいい。
「…一度だけなら」



 着信音は鳴り止まない。
 電波の向こうの誰かの激昂。
 勘違いしたばかなミカヅキ。
 すべてに知らないふりをして、ただ瞳を閉じようとする僕こそが、いちばんの愚か者なのかもしれなかった。


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