籠鳥恋雲

「酷い事をしますね、兄さん」

潮風を全身に受けながら目前の海原に浮かぶ白鯨を見遣った
兄の一言で倒れ込む芥川にやれやれと息を吐き、薫子は車から出ていく。危機から街を救った探偵社の活気を帯びた空気に薫子の足音が冷水をかける
静まる空気を微塵も気にせず歩み寄る薫子に、太宰は静かに対峙した

「…部下を、回収しに来ただけです」
「まだ何も言ってないよ」
「そうですね」

ふ、と息を吐いた薫子に太宰はにこやかに笑いかけた

ずぶ濡れ状態の芥川、敦…そして鏡花
薫子は此方を警戒するように見つめる鏡花と真っ直ぐに見合った
自らの異能を憎み、闇の中芽吹いた花はいつしか光を望み、そしてとうとう自分の手でそれを掴み取った。この先、歩む道がどれだけ茨に包まれたとて彼女は決して今日の事を後悔する日は来ないだろう。それがどれだけ尊く、稀有であるか…
薫子が鏡花と過ごした時は僅かだ
それでも、嘗ての部下の門出は祝福すべきである

「おめでとう、鏡花」

「…っ」

「貴女が歩むこの先の道に、光り輝く幸があらんことを」

僅かに笑んだ薫子は直ぐに芥川を起こすべくしゃがみ込んだ。その姿に鏡花は張り付いた喉を震わせ言葉を紡ぐ

「…貴女のこと、誤解してた」
「ふ、間違ってないと思うわ。…”氷の女王”だなんて呼ばれる位だもの」
鏡花はふるふると首を振った
「…貴女は初めて会った時から誰よりも優しくて、…どこか陽だまりの香りがした。なのに、私は見ないふりをしてた」
「…気の所為よ」

鏡花の言葉を一蹴し、意識朦朧としながら目覚めた芥川に手を貸しながら薫子は表情の無いまま背を向けた
「薫子さん!
貴女は鏡花ちゃんに優しい言葉を掛ける事が出来るのに、何故マフィアに居るんですか!」

敦の叫びに芥川から殺気にも似た怒気が吹き出す。それを片手でいなし、もう一度彼等に向き合った

「中島敦君
鏡花を救ってくれてありがとう。私や紅葉の姉様には決して導く事が出来なかった道を、貴方は示してみせた。…だけどね、私の望むものは違うの」
潮風が彼女の髪を浚っていく
「────────── 」

強風に遮られた言葉は敦の元には届かなかった
その代わりすぐ傍で聞いていた芥川は驚愕の表情を浮かべたまま動けずに薫子を見つめていた
それには応えず薫子は穏やかな表情を浮かべる。そして、立ち去る間際に太宰はある物を薫子に投げて寄越した

「Qの監禁場所の情報を寄越したお礼だよ…ま、探偵社には世界一の名探偵がいるから余計なお世話だったんだけどね」

投げられた物を見つめ、微かに郷愁を滲ませると今度こそ薫子達はその場を後にした



車に乗り込むと兄から渡された物を見つめる。
この持ち主と共に幾度も川に流されたのだろう、どこか草臥れた燐寸には嘗てあの四人を結びつけた場所の名前が刻まれている。そっと引き出すと紙片が収まっていた
数字と名前は逢い引きのお誘いだろう
きっとこれだけで薫子は来ると分かっているのだ
「こんなの、癪だろうと行くしかないではありませんか」
本当ならば一刻も早く帰宅して、金糸雀を逃がしてしまったと落ち込む可愛いあの子と共に居たいのに。今は兄からの誘いに心惹かれてしまっている。
…致し方あるまい、仕事の一環だと言い聞かせて濡れ鼠であった芥川を助手席へと出迎えた

「しっかり絞った?」
「…問題ない」
車がびっしょりと濡れるのを嫌がった為、芥川にせめて余計な水気は抜いてくるようお願いしたのだ

「…貴女は、」
「ん?なに?」
緩やかに動き出したエンジン音に掻き消される程の声量で芥川は口を開いた。薫子が聞き返すと少し黙ってから再び問う

「…貴女の中には、まだ奴がいるのか」
「そんな事聞いてどうするの」
「僕にとっては重要な事だ」
「いるわ」

即答した薫子に芥川は閉口した

「死ぬまで消えない
貴方にとって、”太宰治”が師でポートマフィアで生きる理由で在り続けるように。」




──「死ぬ時に逢いに来て欲しい人がいるの」



芥川は静かに悔しさを滲ませる
太宰さんも、薫子も。
決して僕を一番にはしてくれない
潮風に浚われ人虎に届かなかった言葉は、深々と僕に思い知らせた。戦果を捧げようと、組織に貢献し信を得ようと、薫子から欲しい目は僕に向くことは無いのだ




閉館後の美術館に二人分の足音が響く
壮年の紳士を引き連れてやって来た彼女は一枚の絵画の前を見つめる男の横に座った
「お待たせ致しました」

そんなに待ってないよ、と返す男の表情は何処か物憂げだ。兄妹の邂逅に寄り添うように広津は薫子の後ろに控えている
その広津に太宰は感謝の意を述べた
どうやら芥川の白鯨潜入は兄によって誘発されたものだったらしい、と薫子は理解する。…そう迄して中島敦と龍を結びつけようとした兄の思惑も
…横浜に、これから何が起ころうとしているのか。この兄にすら読めない事態に陥るというのか
だが薫子には動揺も焦燥もなかった
変わらない表情で静かに、ただ無心で絵画を見つめ続ける。薫子の心を動かすものは数限られているのである。もうとっくに、横浜という場所は瑣末な事になっているのかもしれない

「薫子、君はこれからどうするんだい」

「どういう意味でしょうか」
兄からは珍しく、意図の読めない漠然とした質問だった
「いや、最近君が小鳥を飼い始めたと知ってね」
明日も生きてるなんて保証のない場所に居るのに随分無責任じゃないかな
そう続けた太宰に薫子の目は驚愕で見開かれる

…何故兄さんがあの子の事を知っている?
もしかして金糸雀を逃がしてしまった事と関係あるのか…否、確信はないままで、ただのハッタリかもしれない。

薫子はぐるぐると思考の渦に陥ったまま動けなくなった。二人の後ろで広津は話の展開が読めず、沈黙を貫いている


「昨夜、Qの奪還任務が終わる頃に私の許へ一羽の金糸雀がやって来た。…あれは君の保護下にいる異能力者じゃないかい?」

薫子は瞠目した
…やられた
私は知らないと答えなければいけなかったのだ。動揺を悟られ、会話の成り行きを見守っていた広津さんの反応から推測が確信に変わり、私が答えに困窮した時点で兄は全てを見透かしてしまった。
あの子は、…晶は昨夜、異能力で金糸雀に憑依して兄に会いに行ったのだ。だが『人間失格』で異能は無効化され、ただの動物である金糸雀だけが兄の元に残された…そういう事なのだろう。

「その様子だと、広津さんも知らされていないみたいだね」

首を僅かに傾けて問い掛ける太宰に広津は静かに頷いた。薫子は未だ口を開かず大理石の床へ視線を向けている
「…あれは、子供だね」

きっと兄の…否、広津さんの脳裏にも同じ男が過ぎっていることだろう。意図した訳でもないが、私は正に彼の人と同じ道を往こうとしている

「孤児かい?」


「…あの子の父親は私が殺しました
長崎へ出張に赴いた際に出会って、それが偶然目的の男の娘だった」
母親は。短い問に薫子は黙って首を振った
「異能力を有するが故にずっと秘匿されて生きてきたそうです。兄さんも出会ったならお分かりでしょう?」
「…そうだね、偵察・暗殺。森さんは欲しがるだろうね」
薫子は無言でコクリと頷く


ずっと足元の大理石を見つめていた薫子は背もたれへ深く座り込み天井を仰いだ
窮屈な籠から空を恋しく思うように。




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