恐怖は消せぬ
「……それにしても、大変なことになってしまったな」
晴明が、大胆に隠すこともなくため息を吐いた。
そして、何を言うでもなく、ちらりと俺に目を向ける。
――しかし、俺はそんなことよりも。
「…神楽。無理に俺と一緒にいる必要はねーよ。今だって、怖ェならどっか逃げてくれりゃいい。俺は気にしねェから」
「……大丈夫アル。気にしないでヨ銀ちゃん」
「……神楽」
「銀時の言う通りじゃ。何かあれば、遠慮なく逃げよ。名字さんはああ言ったが、恐怖に打ち勝つことは常人には難しいことじゃ。逃げるのが最もな得策であろう」
「…逃げたら、銀ちゃん傷付かないアルか」
「んなヤワな心してねーよ。…お前が無事ならそれでいいわ」
「…ありがとう、銀ちゃん」
神楽が、涙をぽたりと垂らしながら俯いた。
そこまで追い込んでいたのかと、胸が少しぴり、と傷んだ。
「…いい家族愛じゃな。久しぶりに本音で話せたのではないか」
「だろ。つーかお義兄さんももう家族なんだから、お互い本音で話そうぜ」
「誰がお義兄さんじゃ。いい加減クリステルから離れろ貴様」
「離れねーよ生涯」
「生涯って貴様…」
「…あの、お前には銀ちゃんに何が憑いているように見えるアルか」
神楽が顔色を窺うように、晴明に尋ねた。
俺に、憑いているもの。
なぜか背後がぞわりと寒くなり、吐き気を催すような急に嫌な気分になる。
そうじゃな、と晴明が顎に手をやり俺を見る。
「ぼんやりと、大きい黒いものが背後にいる。背後というか、背中にじゃな。じっと、くっ付いている。わしにはこの背後のものが何なのか詳しくは分からぬが、銀時がここに来てからうちの式神たちが姿を消している。それが相当、恐ろしいものなのじゃろう」
「……おっかねェな」
「…そうアルか。本当、銀ちゃんどっから持ってきたアルか、それ…」
「……知らねーよ。知りたくねェけど、知らなきゃいけねェんだろうな」
普段仲良く話す俺たちが、話したくない話題を仕方なく話している。
お互い、仕方なく苦笑を作る。
それが億劫で面倒くさくて、何でこんなことになってんだろとふと我に返るほどだった。
――しかし、悠々とそんなことを考える時間はなかった。
「――銀時?」
唐突に、晴明が声を発した。そして、俺の名前を呼んだ。
細い目をかっ開いて、俺を見る。しかし、目が合っていない。
「どうした?」
「……不味い」
そのとき、遠くから声が聞こえた。ぎゃあああ、とうるさい、低い男の声が耳に入った。
悲鳴だ。
晴明が舌打ちをしながら勢いよく立ち上がり、唇に指を当てながら何かを呟く。
何かを唱えている。
緊張が、部屋中を支配する。
「……晴明?」
「………女、神楽。逃げろ」
「え…」
「早く逃げろ。銀時は残れ。早く」
神楽はおろおろとしながらも、逃げようと立ち上がった。
しかし、またもや悲鳴が聞こえ、神楽よりも先に晴明が部屋から飛び出て行った。
神楽、逃げろ。と、俺も言う。言ってみる。
きっと、やばいんだろう。
「かぐ……」
どくん。
「――あ」
どくん。
どくん。
どくん。
「――あれ」
何が起きてる。
目の前が、あれ。先生?あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。あれ。
あれ。
あれ。
先生。
ぎんちゃん。神楽がこっちに来る。
来るな。くるな。くるな。
「―――神楽。晴明の言ってることは嘘だ」
俺の声が、聞こえた。
***
「神楽。逃げろ」
「でも銀ちゃ、」
「かぐ……」
銀ちゃんが突然目を大きくして、その場にうずくまる。
自身の手を動かして、目の前にかざして、何かを確認しているように見える。
そして、銀ちゃんがどこかを見ながら涙をこぼした。
銀ちゃんの頬に伝う涙を見て、どき、とする。
――何が、あったのか。
「銀ちゃん?」
近付いてはいけないと分かっている。
心の底では。
でも、心配なのだ。
「銀ちゃ」
「……んせ」
「…え?」
銀ちゃんが何かを呟いた後。直ぐ後だ。
銀ちゃんの、目の色が変わった。元に戻ったのだ。
こちらを見て、銀ちゃんが言った。
「神楽。晴明の言ってることは嘘だ」
――。
――まさか、とは思った。
信じてはいけない。
私は、こいつを知っている。
「神楽。一人で逃げると化け物に食われんぞ」
寒い。寒気が全身を駆け巡る。
汗が、湧き出てくるのを感じる。
――やばい。
「……ぁ…」
声が出ない。
どうしようもなく怖いのだ。
あんなに注意されたのに。警告されたのに。
強いって、褒められたのに。
強くない私は。
だって、こんなにも手が震えている。
呼吸もできないくらい、全身が萎縮している。
「神楽?」
怖い。
「神楽?あれ?違う?神楽ちゃん?」
怖い。
「逃げようぜ。逃げよう。逃げようよ。一緒に。外は一人だと危険だよ」
どうか。
誰か。助けて下さい。
恐怖で、涙がとまらない。
「だ、誰か……」
「神楽。神楽ちゃん。神楽。どうしたの。どうしたの」
「いや、いやだ、ごめんなさ」
逃げなければいけない。
逃げればよかった。
私は、馬鹿だ。
馬鹿で、弱い。
早く逃げないと。
逃げないと。
「神楽。神楽。かぐら。カグラ」
誰か。誰かお願い。ごめんなさい。
怖い。怖い。
足が動かない。
いやだ。
無理。
いやだ。
あれが、私の震える肩を掴む。
顔が、目の前に来る。
あんなに好きだった顔が、声が、気持ち悪くて、
「かぐらちゃあ外に行こぉよ」
いや、
だ。
食われ、
ぐにゃり、とそれはそれは、楽しそうに
笑っていた。
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