中編 | ナノ


▼ 第3話‐02

数メートル先に見える宗太くんも当然傘なんかさしてなかった。

がむしゃらに走り続ける彼を見失わないように私も必死に後を追う。

住宅街を抜け、小さな公園へと入り、そこで力尽きたのか宗太くんは弱々しい光を灯す街灯にもたれかかりながら地面に膝をついた。


「はあっはあっ、はあ…っ」

ヘトヘトでこのまま倒れ込みそうになる体をなんとか気力で支えて、大きく肩で息をしている彼の後ろ姿を見下ろす。

「もう…、逃げないで…っ」

激しい雨が疲労した体を容赦なく打ち付ける。

徐々に奪われていく体温。

でもそのおかげで沸騰していた頭の中も冷ますことができた。

私は一度深く深呼吸して彼に問いかけた。

「2人のこと…どうしても認めてくれないの…?」

「……」

聞こえてくるのは雨の音ばかりで宗太くんはうずくまったまま動かない。

でも私は無理に答えを急かさず、彼から口を開いてくれるのを待ち続けた。

そしてしばらくの沈黙の後、ザアザアと降りしきる雨に掻き消されていくほどのか細い声で宗太くんはゆっくりと語り始めた。


「…母さんは…どっか抜けてる性格で…、家事下手だしすぐ怪我するし物忘れ激しくて、何をするにも危なっかしくて、いつも俺が面倒見てた。


ドジなくせに毎日体壊すんじゃないかってくらい働いてんのを見て、俺は…俺が守っていかねーと、って粋がって、自分が母さんの一番の支えになってる気になってた。

…ずっと…こいつには俺がいないとダメなんだって、勝手に思い込んでた…」


少しずつ語られていく彼の本心。

震える声に胸を締め付けられながら、私は黙って宗太くんの話を聞き続けた。


「母さんに男がいたって知った瞬間、目の前が真っ暗になった。お前の父親と一緒にいる母さんは、俺に見せたことのない安心しきった顔をしてた。それを見て、俺なんか必要なかったんだって思い知らされた。

…それから、もう何もかもぶっ壊れちまえばいいってガキみたいにトチ狂って、自分でも何やってんのかわかんねーくらい暴走してた。お前に怒鳴られて、やっと目が覚めた」

「っあ! あれは…っ!」

彼にぶつけた言葉を思い返して私は慌てて声を張り上げた。

「ごめんっ、私興奮してて…ったくさん酷いこと言っちゃって…」

「いや、何も間違ってねぇよ。謝るのは俺の方だ。お前やあの家を散々めちゃくちゃにした。お前の気が済むまで、どんなことをしてでも償うよ」

「……っ」

何もかもを諦めたような、抜け殻になってしまったような渇いた声に私は何も返すことができなかった。

宗太くんは今までずっと、お母さんの為だけに生きてきた。

自分の目の前にいた、か弱い1人の女性を守るために、甘えるのもワガママを言うのも我慢して、たった独りで

お母さんを支えてあげることが自分の何よりの役目なのだと盲信して…。


これっきり、もう彼は私たちに何も手出しはしないだろう。

関わることすら避けてしまうのかもしれない。

心が空っぽになってしまったまま、独りきりの世界に閉じこもってしまうのかもしれない。

目の前にある丸まった背中は小さな小さな子供のように見えた。

雨に打たれる地面みたいに、頭の中がグチャグチャで何も考えられない。

胸の奥がズキズキ痛んで熱い。

この泣きたくなるような感情はなんだろう。

彼への同情? 哀れみ?

違う、そんな冷めたものじゃない。

彼をこれ以上独りにさせたくない。

愛に飢えた彼の悲痛な姿が堪らなく愛おしく思えた。


私に彼を癒してあげられる力なんかない。

わかってる。
激しく拒絶されるかもしれない。
また嘲笑われるかもしれない。

それでも私は彼のことを無性に抱き締めてあげたいと思った。


彼の前に膝をついて、ずぶ濡れになった頭を抱き寄せる。

背中に腕を回すと、宗太くんの方だがビクッと強張った。

「な、…っ!」

混乱してるのか、宗太くんは困惑したような声を漏らしたきり固まりつくしてしまった。

私はそのまま彼の髪をそっと撫で、込み上げる想いを呟いた。

「…ありがとう」

「……っ」

「ずっと、一人で頑張ってたんだね」

「…っ俺は、何もしてない」

「そんなことない。だってお母さん、私に会うたびいつも言ってたよ。宗太は自慢の息子だって。宗太がいたからここまで頑張れたって」

「…俺がいなくたって…」

「そんなことないってば」

私は更にギュッと彼を抱き締めて、強張っている背中をポンポンと叩いた。

「宗太がずっとお母さんを守っててくれたんだよ。ありがとう。宗太は、いい子だね」

“いい子だね”
そう囁くと彼の肩がピクリと跳ね上がった。

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