▼ 媚薬‐01
──私は、ここで死ぬのかもしれない。
こんな汚いゴミ溜めみたいな所で。
私よりもさっさと死んだ方がいい無能人間なんてごまんといるのに。
どうしてこの私がこんな目に合わなきゃいけないの?
悲劇のヒロインなんて望んでない。
キラキラした世界で一生遊んで生きていくはずだったのに。
私がこんなに辛い思いをしているのに、のうのうと生きている奴らが憎い。
どいつもこいつも私以上に不幸になればいいのに。
全員死ね。死ね。金だけ私に預けて死ね。
この冷たい風も憎い。こんなに寒くなる秋が憎い。夜が憎い。
ああ、もう。何もかもが憎い。
……お腹空いた。
寒い。お風呂入りたい。
・ ・ ・ ・ ・
すっかり夜の闇に呑まれ人気のなくなった公園。
その一角にあるペンキの剥げたベンチに女はぐったりと横たわっていた。
肩まで伸びたブラウンの髪は艶を失い、枯葉が一つ絡まっている。
季節感のまるでない薄手の服。
露出している肌は土埃などで薄汚れている。
誰が見たって彼女が何か訳ありであることは一目瞭然だ。
そんな悲劇のヒロインオーラをあざといほどに醸し出している女の名は、伊東……光姫と書いてキラリヒメという。
もちろん彼女はその名を恥だと思っている。
そのため親には内緒で周囲には自分のことを光(ひかる)と呼ばせていた。
彼女の中では完全に、キラリヒメではなくヒカルが本名ということになっている。
そんな馬鹿げた名前をつけた両親は現在、行方不明。
光が悠々自適な生活から過酷な現実世界へと転落したのは2か月ほど前のこと。
親がいなくたってなんとかなる。
世間を知らない光は危機感なんてまるで持っていなかった。
大富豪と知り合って愛人にでもしてもらえばいい。
現実を舐めくさっていた光はそんな浅はかなことしか考えられなかった。
しかし、世間は、現実はそう甘くない。
……なぜなら光は、そんな人生の成功者たちの目を惹くほどの容姿は持ち合わせていなかったのだから。
良くも悪くも日本人らしい見た目の光。
それでも愛想さえよければそこそこ裕福な男性を射止めることはできたのかもしれない。
だが、彼女の何よりの問題点はその性格だ。
「貴方ってトイレでも飼ってるの? 顔が汚れた便座みたい。ペットと飼い主は似るってよくいうでしょ」
初めて勤めたキャバクラで、新人にはとことん優しいと好評の常連客を最悪な態度と言葉で大激怒させ、光は1週間でクビになった。
それからいくつかの店へと移り渡ったが、もちろん長続きするわけもなく、最終的には悪評が店から店へと伝わって光はどの店でも働かせてもらえなくなってしまった。
……私をコケにした奴ら全員、家が火事になって全財産失え。
寒空の下、ベンチの上で死んだように横たえている状況になってもその腐りきった性格だけは衰えることはないらしい。
私、本当にこのまま死んじゃうの? 誰も私の身代わりになってくれないの?
世界中の全てを呪いながら、光は意識を白く混濁させていく。
死ぬなんて嫌だ。二十歳になったばっかりなのに。
……まだ欲しいものもたくさんあるし、美味しいものだってもっとたくさん食べたい。
……嫌だ。
こんなところで、死にたくない……。
「ヒメちゃん!! やっと見つけた!あなたヒメちゃんですよねっ?」
「……は?」
意識が事切れそうになったそのとき、やけに騒がしい男の声が響き、光は少し苛立ちながら目を覚ました。
「よし!間違いなくあなたはヒメちゃんだ! まさかこんな近くにいたなんて、奇跡だね!ですよねっ?」
見開いた目で光の顔を覗き込む謎の男。
自分で切ってるようなボサボサの頭に太い黒縁の眼鏡。
よれよれのジーンズに、光以上に季節を無視した貧相なTシャツ。
本来なら声をかけられた瞬間、走って逃げ出していただろう。
それほどの怪しさに男は満ち溢れていた。
……なに、このキモい男。
光は眉間にしわを寄せて男を睨みつける。
自分を「ヒメ」と呼んでいるから恐らく店の客だった人間だろう。
でも他人の顔なんていちいち記憶していない。
「誰、あんた」
「覚えてないですか? ヒメちゃんの二の腕を噛んで出禁になった野菜男です!」
「……あぁ」
それを聞いて光はすぐに思い出した。
お酒は全然飲まずに狂ったように野菜スティックだけを食べ続け、最後に「本当は根菜じゃなくて君を食べたい!」と言って光の腕に噛み付いたトラウマ客。
そいつと目の前にいる男の顔……というより雰囲気がピタリと重なった。
「虫唾が走るから離れて。私に何か用?」
「あのですね、僕はずっとヒメちゃんを探していたんですよ! ヒメちゃんをさらって監禁してやろうと思いまして!」
「……何言ってんのキモい」
「あの日からヒメちゃんのことを想うと夜も眠れないんです!」
「気持ち悪い。死んで」
「まあまあ、拉致監禁というのは冗談でしてね。ヒメちゃんには住む家も身寄りもないという噂を耳にしまして。……それなら僕と一つ屋根の下で暮らせばいいんだよ!」
「……は? 私を囲いたいってこと?」
男はコクコクと激しく首を縦に振る。
光は男を品定めするような目で見据えた。
どっからどう見ても金を持ってそうには感じないみすぼらしい風貌。
家賃を限界まで切り詰めたボロアパートに住んでるに違いない。
……でもこの際、贅沢は言ってられない。
「わかった。じゃあさっさと連れてってよ寒いんだから」
「連れて行きますとも! さあ立って立って!」
両手を差し出してきた男を無視して光は自力で立ち上がる。
「よしっ、じゃあ行きましょう!」
男はめげることもなく軽快な足取りで公園の出入り口へと歩いていく。
そこには銀色のママチャリが一台放置されていた。
「はい、乗って!」
男はそれに飛び乗ると、満面の笑顔を光に向けて荷台を叩いた。
「……自転車!? あんた馬鹿じゃないのっ?」
「あ、ヒメちゃんは徒歩派ですか?」
「脳みそ腐ってんの? 普通車でしょ」
「僕車持ってないし免許もないんですよ」
「最悪。免許持ってない男なんて生きてる価値ないと思うけど」
「でもすぐ着きますから! さぁ、早く早く乗って、またがって、密着して!」
「……っ」
「おゎっふ!」
嫌悪感が限界に達した光は男の脚を蹴りつけた。
そうしてわずかに怒りを解消させた光はしぶしぶ男の後ろに腰を下ろした。
「しっかり掴まってね! ……もっと強く!ぎゅっと!激しく抱きしめて!」
「うるさい黙れ。早く進め」
再び脚を蹴ると、男はようやくペダルを漕ぎ始めた。
途端に冷たい強風にあおられ、光は忌々しく唇を噛み締めて冷え切った体を縮こまらせる。
「この辺、不審者情報が多発してて結構危ないんですよ。ヒメちゃんが無事でよかった。その不審者、全部僕のことなんですけどね!」
「……」
本当にこんな男にのこのこついて行って良かったんだろうか。
でも危なそうだったら隙をついて食べるものとかお金を盗んで逃げればいい。
……やはり光には危機感というものが全く備わっていなかった。
これから自身にどんな不幸が待ち構えているのか、光はまだ何も知らない。
言動の全く読めない男と、愚かな女。
様々な思惑を乗せた自転車は不気味な夜道を突き進んでいった。
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