▼ 媚薬‐02
・ ・ ・ ・ ・
──キキッ
「はい、到着です!」
「……えっ、ここ?」
光は驚いた声を上げて目の前にある建物を見渡す。
意外なことに、そこは一軒家だった。
築30年以上は経っていそうな萎びた外観ではあるが、2階建てのなんの変哲もない平凡な一軒家。
汚くて小さいアパートばかり想像していた光は、思わず笑みをこぼしながら軽やかに自転車を降りた。
「これ、本当にあんたの家?」
「そうですよー」
「他に誰か住んでる?」
「お一人様暮らしです」
男はポケットから鍵を取り出し、ドアの鍵穴に差し込む。
ドアを開けると中の暖気がこぼれ出し、久しぶりに肌に感じた温もりに光はホッとため息をもらした。
そして居間へ入ると、光は男が電気を付けている間に一目散にストーブの前に駆け寄って座り込んだ。
ストーブに手をかざしながら光は室内を見渡す。
6畳程度の居間は越してきたばかりのように閑散としていた。
使用された様子がない台所。安物そうなテーブルと冷蔵庫と電子レンジ。目につくものはたったのそれだけだった。
「何か食べますか? それともお風呂? もしくはもう寝ちゃいますか? もれなく僕がついてきますけど!」
「食べるものちょうだい。お腹空いて死にそうだから」
素っ気なく即答すると、男は「了解です!」と従順な召使のように返事をして台所の戸棚を開けた。
「味噌と醤油どっちがいいですか?」
「……はい?」
「僕的には醤油の方がオススメです」
そう言って男は味噌と醤油味のインスタントラーメンを両手に持って光に見せる。
「はっ!? そんなものしかないの!?」
「ごめんなさいっ、塩も買っておくべきでした!」
「〜〜っそういうことじゃなくて! なんで私がそんなブタの餌みたいなもの食べなきゃいけないのよ!? あんた私がそんなもの喜んで食べると思ってたわけ!?」
「んっ。それは聞き捨てならないぞヒメちゃん! これは即席ラーメンの中でも美味しい方だよ!」
「知るか!! 私をここに住ますつもりだったんならもっと私が喜びそうなもの用意しておきなさいよ! このド低脳がっ!」
「あ、野菜スティックなら冷蔵庫に多分にんじんときゅうりが入ってるから作れますよ。いつ買ったか覚えてないけど」
「それはお前の好きな食べ物だろうが!!」
「僕そんなに野菜好きじゃないです」
「……っ」
この男とまともな会話をするのは不可能だ。
そう悟った光は吐き出しそうになった罵声をなんとか呑み込んで、熱の上がった脳内を落ち着かせる。
……しょうがない。本当はまともな料理を買いに行かせたいけど、その待ち時間さえももう耐えられない。とにかく、今すぐ食べられるものだったら何でもいい。
「どっちでもいいから早く作って」
「じゃ醤油にしますね!」
ため息を吐く光を背に、男は手慣れた手つきで水を入れた鍋をコンロに乗せて火をつけた。
グツグツと具材の煮え立つ音ののち、優しいスープの香りが部屋中に漂い始める。
その匂いに極限まで空腹をあおられ、光は待ちきれずストーブから離れてテーブルの前に座りなおした。
「はぁいっ、できましたー!」
乾麺をただ煮ただけの質素なラーメンが完成し、テーブルの上に鍋のまま直接置かれる。
酷く貧乏くさい見た目だが、飢えに飢えた光はそれを咎める気はもうないらしい。
男から割り箸を受け取ると、手早くそれを割って『いただきます』も言わずに勢いよく麺をすする。
「美味しいでしょ? でしょっ?」
感想を求める男を完全に無視して光は夢中でラーメンに食らいついた。
シンプルな風味が疲れた体に深く染み渡っていく。
高級料理にはない独特な安心感のある味だった。
……まぁ、豚の餌ではないわね。
そんな偉そうな評価をしながらもひたすらに麺を口に運び、鍋に口をつけてスープを飲み干してあっという間に鍋の中は空となった。
「ふぅ」
『ごちそうさま』の代わりに至福の吐息をもらしてそのまま床に寝そべる。
どこまでも行儀の悪い女だ。
「ここ、お風呂はあるの?」
「ありますよー」
「じゃあシャンプーとトリートメントとボディーソープとバスタオル買ってきて」
「石鹸もタオルもありますよ?」
「あんたが使ったものなんか使うわけないでしょ」
「なるほど!」
男は素直に納得して別の部屋へと駆け込んでいく。
そしてすぐに財布を手にして戻ってくると、「行ってきます!」とだけ言って玄関に消えていった。
……物わかりがいいんだかわるいんだかよくわからない男だ。
でも、好きなだけワガママ言っても許されそうだし、この家も古臭いけど普通に住めるし、悪くはないかも。
他にイイ男が見つかるまで利用させてもらうか……。
光は大きくあくびをして目を閉じる。
満腹感に満たされた体は今度は心地よい睡眠を欲していた。
ていうかあの男、仕事は何やってんだろ? 金は持ってなさそうなのにこんな家に住んで……。もともと親のものだったとか?
そんなことを適当に考えていたが、たちまち睡魔に意識を捕らわれ、光は深い深い夢の世界へと引きずり込まれていった。
・ ・ ・ ・ ・
「……ん……っ」
妙な暑苦しさに襲われて光は目を覚ます。
時計がないせいでどのくらい眠っていたのかはわからないが、男がまだ帰ってきていないからまださほど時間は経ってないらしい。
この暑さはストーブのせいかと、気だるい体を起こしてストーブを見たがおかしな様子は何もない。
肌で感じる限り、部屋の中の温度は正常だ。
室内ではなく光の体内が激しく燃えるような熱を発していた。
「……っは、ぅぅ」
熱だけではない。
今まで感じたことのない、疼くような感覚が身体のあちこちをザワつかせていた。
「なに、これ……っ」
息を乱しながら光はテーブルにもたれかかる。
どんどん大きく早くなっていく鼓動。
意識が霞むような眩暈と浮遊感。
ジリジリと身を焦がすような疼き。
何かおかしな病気にでもかかってしまったんじゃないだろうか。
尋常じゃない体の異変に不安がよぎり、光は荒く上下する胸をぎゅっと押さえる。
……どうしよう。なんでこんなときに限って誰もいないのっ?
さっさと帰ってきなさいよ、あのノロマ……っ!
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