熱の条件 | ナノ






唇に付いているパイをティッシュで丁寧に拭われ、桜介は本当だと照れ笑いをした。
俺も食べよっと、とアキラもカレーパイに齧り付くが、彼は桜介のように口の周りを汚すこともしないし、パイのカスをポロポロと落とすこともしなかった。
だから「食べるのが下手で恥ずかしい」と言うと、優しい笑顔で「そんなことないよ、とても可愛いよ」と頭を撫でられた。
これだけの何気ないやり取りなのに泣きそうになるくらい幸せを感じる。

「アキラくん、テストが終わったら二人だけで旅行に行きませんか?」
「え?」

だから桜介は彼にお礼がしたかった。

「テスト終了くらいの時期から、母が出るドラマの撮影がスタートするんです。舞台が箱根なので、暫くそこで過ごすみたいで、時間がある時に会いにおいでって昨日の夜言われました。ホテルは星尾ホテルだったかな、後で確認しておきますね」

本当はこの土日にでも会えればいいと思っていたのだが、佳代子は舞台挨拶やテレビ番組での映画宣伝で忙しいらしくスケジュールが合わなかった。
だから、テストが終わってから箱根においでと連絡が入ったのだ。

「いいのかい?母子水いらずの所にお邪魔してしまって…」
「いいんです。東京だと中々母に会えませんし、アキラくんを紹介したいんです。でも、二泊三日目しか泊まれませんが大丈夫ですか?」
「充分だよ!はあ、嬉しいなぁ。ありがとう!」

誰にも邪魔をされない場所で、アキラと伸び伸びと過ごしたいし、普通の恋人同士のようなデートもしたい、させたい。
秘密の部屋で過ごすのも楽しくて好きだけど、もっと羽を伸ばさせてあげたいし、自分のために色々と動いてくれている彼にお礼をしたかった。

「そんな予定入ったらテスト勉強、俄然力入るなぁ!終わったら桜と旅行なんて考えると絶対に赤点なんて取れないしね」
「ふふふ、アキラくんは赤点なんて取らないじゃないですか。
それまでには怪我も治ってるはずですし、目一杯楽しみましょうね!」
「勿論さ。あ、ガイドブック買っておこうかな」

嬉しくなって頬にキスをすると、少し驚いたように目を見開きすぐにはにかんでお返しのキスをくれる。
アキラは何も聞いてこない。鷹臣とのことや、何で怪我をしたのかも聞かずに察してくれる。こんな姿を見て嫌な気分でいるはずなのに、何処までも優しい。
もう心配はさせたくない。だから自分に出来ることは何でもしようと桜介は心に誓った。

ほら、大丈夫じゃないか、ともう一人の自分に言いながら。

***

中野島直人は、青いリボンが結ばれた紙袋を雨で濡れぬように丁寧に抱え、あるアパートの部屋の前に居る。ロックテイストのTシャツに制服のズボンという格好の彼は、額に浮かんだ汗と、雨で濡れた裾を払うように拭った。
因みに今日の眼鏡は、太いフレームとツルの部分が蜘蛛の巣のような繊細なレースになっているデザインだ。

『やば、変にキンチョーすんだけど、キモ』

普段は全然緊張なんてしないのに、何だか妙に胸がそわそわしてしまい、直人は焦った。手のひらにも汗が浮かんできて慌ててズボンで拭い、乾かすようにパタパタと空気を叩くが、湿気と三十度を越えた気温のせいで、すっきりとはしなかった。
汗臭いかもしれないと危惧し、制汗スプレーも体に吹きかけた。

『バカじゃね。キンチョーすんなっつの』

そんな自分に呆れながら、深呼吸をして古い型の呼び鈴を押す。

−ピーンポーン…

「はぁい?」

扉の向こうから聞こえる間延びした綺麗な声。良かった、不在ではなかった。

「はーい…あれ、マサトくん?」
「…っス」

あの時と変わらない笑顔を見せて扉を開けた、幾森花織の姿を確認すると、緊張の糸が更にピンと張ってせっかく拭った手のひらには再び汗が浮かぶのであった。


部屋にあげられると、すぐに冷たい麦茶を出してくれた。行きのバスの中でペットボトルに入った飲料水を飲んでいたから大丈夫だとは思ったけれど、梅雨時期特有の湿った暑さと緊張していたせいか、とても美味しく感じられ一気に飲み干してしまう。
それを見ると花織は「今日は蒸し暑いよねー」なんて笑いながらおかわりをそそいでくれた。
しかし、部屋はエアコンがついておらず扇風機の微かな風だけで暑いまま。汗は引かないし花織だって汗をかいている。もしかしたらエアコンが壊れているのかもしれない。

もしそうなら長居したら迷惑だろうと、早速紙袋を花織へ渡した。

「あの、ソレこの前のお礼です」
「お礼?」