渋谷に森はないのに、どこからか蝉の声が聞こえている。ぼけーっと座るハチ公を見上げると、あごから首筋に汗がつたう感触。

「あずみ。ごめん、待った?」という声がした。

振り向くと、高尾和成がいた。それだけの事実に目眩がしそうになるのは8月の日差しのせいか。

「ううん。行こ」
私の声は内心に反してそっけない。
「ほんとごめんって。昨日飲み会で起きられなかった」と高尾は言い訳くさく言った。
「べつに怒ってないよ。久しぶり」
「前回会ったのって、受験中だっけ?」と高尾は言った。
「そう、読経が趣味の彼女の話をしてた」
「よく覚えてんな」と高尾は気遣うように、私の隣にやってきて、さりげなく顔色を伺う。

うっとうしいような、くすぐったいような心持ちになりながら、スマホを開いて目的地までの地図を出す。
「オムライス屋さんってこっから遠いんだっけ」と高尾は私のスマホを覗き込みながら言った。

スクランブル交差点はまだ変わらない。高尾の後頭部は黒から茶色に変わっていた。
「髪、染めたの?」
高尾はゆっくりと顔を上げ、こめかみの横から1束、指先で取って、自分の目のところまで持っていった。

「そ。大学入ったし? 先輩にどやされることもねーし、バイトも居酒屋だから全然オッケーよ」と高尾は言った。それから私に口を挟ませず、バイト先の素っ頓狂な先輩の話を始めた。

正直、私はほとんどその話を聞かなかった。高尾のまぶたが落ち着きなく開閉するのを、満ち足りた気分で見ていた。
信号は青になり、するすると人波が動いていく。宮益坂か、と言った高尾の声は少し震えていた。

高尾を呼び出したのは私だった。
2人で会うような口実はあってないようなものだったが、高尾に断る理由はなかった。
だってただの幼馴染だから。何年も異性として見られているなんて露ほども思わないはずだから。


いま自分に言い聞かせておこうと思う。
今日、高尾に会うのは、私の恋心を伝えるためではない。
終わらせるのだ。
中学の卒業式から枯れないチューリップを。ぬるくつよいあの風を。長い春を、すべて。


「花が咲いてる」という高尾の言葉に、はたと我に返った。
高尾は歩道脇に並ぶプランターを指差した。何でもないような小さな青い花が植わっている。
渋谷で街路樹以外の植物を見かけたこと自体より、それをわざわざ言及した高尾に驚きだった。
私の何かが筒抜けだったのではないか、とすら思った。

「タカ、お花とか好きだっけ?」
すると高尾は切れ長の目をさらに細めた。
「その呼び方、中学んときに戻ったみたいだな。懐かしー」と高尾は言いながら、私を見つめた。
私は言葉に詰まった挙句、視線を逸らし、「あ、お店ここじゃん」と言いながら高尾の前に出た。


店はそこそこ混んでいたが、席にはすぐに通された。
高尾は辺りをぐるりと見回して、「やたらかわいい内装だね」と言った。
私は頷きながら、内心それどころではなかった。
少なくとも、高尾の話に上の空だったのはバレていた。
喉元に切っ先を突きつけられたような感触を、ショートパンツのポケットに突っ込んだ。

「え〜、どれも美味しそう。迷うなあ。タカはどうすんの?」
「俺は決めたよ」と高尾は言って、メニューの左端にあった、デミグラスソースのオムライスを指差した。一番オーソドックスな奴だ。
らしいな、と思った。こういう場所で冒険しない男だ。
「じゃあ私もそれで」
「デザートはつけねーの?」と高尾はふと思い出したように言った。
見れば、プラス数百円でデザートセットになるらしい。
ふむふむと思いつつ、その選択肢にティラミスがあるのを見つけて、私は凍りついた。
「あずみ、前回会ったとき、ティラミス食ってたよな。そう言えば」と高尾は言った。


“あとは咀嚼して、飲み込むだけだ”

なんて、どうしてあの時思ってしまったのだろう。
どうして一言、「タカが好きだった」と言えなかったのだろう。

あれから1年、くすぶり続けた恋心は、事あるごとに心の奥底に焦げ付いて、私を苦しめた。
忘れるチャンスは何度もあった。
バイト先の先輩からの告白、友達からの紹介、サークルの飲み会。
でも、無理だった。

恋心は伝えなければ未練に変わるだけなんて知らなかった。
そんなこと知りたくなかった。

「よく覚えてるね」
「そりゃあ。あのとき、あずみの様子が変だったから。ティラミスの側面眺めながらさ、『こんなに綺麗に積み重なってるんだ』とか言ってたじゃん。あの意味、ずっと考えてた」と高尾はまっすぐに私を見つめた。

鋭すぎる高尾は、また私を追いつめながら、わずかな逃げ道を残しておいてくれる。
私が「特に意味はないよ。注文したいから店の人呼ぼう」とでも言えば、この話は終わる。
けれど、今度はもう逃げない。
今日はそのために来たのだから。

「タカはさ、結局、その意味は分かったの?」

「俺なりの答えは出したよ。でも、それが正しいかは分からない」と高尾は言った。
「じゃあ答え合わせしようよ。今、ここで」

私の顔を見て、高尾は目を見開いたが、こくりと頷いた。
私は息を深く吸い込んだ。

「タカのことがずっと好きだった。でも言えなかった。そのうちに苦いところだけ増えていって、ティラミスみたいに、飲み込んじゃえば終わるって思ってたけど、ぐしゃぐしゃになっただけだった。
今でも」

胸から喉にかけてヘラでかきだすように声を絞り出すと、くらくらと視界が揺れた。
こんなに緊張したのは生まれて初めてだった。

「今さら嫌いになろうったって無理で、好きだけどただ苦しいだけで。私はどうすればいい?」

高尾は表情を動かさずに、指先だけで水の入ったグラスをくるくると回していたが、ふと私から目を逸らした。

「全部知ってた」と高尾は言った。
ピンポンピンポーンと白々しい声が聞こえた気がした。大正解。高尾和成くんにはちょっと簡単すぎたかな。
私はバツが大きく書かれた床の上に立っていて、残念でしたの声とともに、奈落の底へ落ちてゆく。

「知ってたのに、ずっと知らない振りを。だって友達でいたかったから。悪い気もしなかった……自分でも最低だと思ってる。俺に責任は取れない。ごめん」


「もう、あわないことにしよう……」
私の口から、そんな言葉がぽろりと落ちた。
高尾は泣きそうな顔で頷いた。
卑怯だ、と心底思った。

どうして高尾が泣いているのだろう?
私は何をしていたのだろう?
ガラガラと音を立て、丁寧に丁寧に積み重ねてきた過去が崩れてゆく。
絶望感の中で、私は立ち尽くした。
目を逸らすな、と心の中で何度も叫んだ。

「タカは、私を好きだったこと、ある?」

高尾は弾かれたように顔を上げた。
しばらく逡巡していたようだったが、意を決したように口を開いた。

「ずっと友達だと思ってた。今でもそうだ、けど……中学の卒業式の日、おぼえてるよな?」と高尾は言った。
私は頷いた。あの日を境に、私たちの直接の関わりは切れてしまったのだから、当然だ。

「あずみさ、俺の名前初めて呼んだろ。それ以来聞かないから、最初で最後なんかな。あのとき、制服の第二ボタン、誰にもやらなくて良かったって思った」と高尾は私の目を見ながら言った。


私はゆっくりと息を吐いて、まぶたをそっと閉じた。

春の日差しの中、一輪のチューリップをたずさえて、2人の男女が笑っていた。
しあわせな砂絵は強い風に巻き上げられて、あっけなく消えていく。


「和成」


高尾は答えなかった。

私はもう一度、彼の名を呼んだ。




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