14/ 「あの、あのイチさん!」 引っぱってくれる腕を見ながら声をかけた。すぐに振り向いて「なに?」、小首を傾げる。 腕には大きな青黒い痣があるけど、それを気にした様子もなく素肌を晒している。 「ここって」 「私、此処に住んでるの。だからあの時会えたのね」 見上げた外階段。少し錆びていて、赤茶けた金属が手入れがされていないのだろうな、と思わせてくれる。 あの時も感じたチグハグな感覚。 彼女が此処に住んでいる? ホルマジオは給仕だって言っていたから、住み込み的な仕事ってこと? 覗き込むように真っ直ぐにこちらを見つめるイチさんの顔が曇ったのがわかった。 私が不安そうな顔をしていたからだろうか。 少しの膠着状態。 気まずさと何か言わなくては、という焦りで喉が渇いた気がした。 「チャオー」 直ぐに後ろからの声で沈黙は破られたのだけれど。 振り向けば紫のマスクをした男性が緩やかに手を振っていた。 「メローネ」 「なんでイチがその子を連れているんだい?そしてなんで隠すのさ」 イチさんが背中に私を隠すように前に立つ。そのまま彼女の背中に隠れたけれど、紫マスクさんは反対側から覗き込んでくる。 「ホルマジオ、いやプロシュートか?」 「どちらかと言えばホルマジオよ」 「アイツなんでも拾ってくるよな。厭きたら投げるくせに」 あれ?と思った。イチさんと紫マスクさんが話すのがわかるようになっている。文脈とか考えずにすんなりと自分に入ってくる。 「此処でなにしてるのさ」 「彼女の髪の毛、きっとホルマジオのせいよ!だからなんとかしてあげようと思って!」 いや、違うんです。自分でやったんです。 紫マスクさんの視線がこちらに向いて、何かに合点がいったように「あぁ」と呟いた。 そんなに酷い髪の毛をしているのか、と落ち込んだ私を再度引っ張ってイチさんは階段を登り始めた。 ********** なぜヘアサロンでなくこの部屋に連れて来られたのか、よくわからなかったけれど、たぶん彼女の厚意だったのだろう。 彼女の部屋に連れて来られた時、その部屋だけは彼女の部屋なのだとすんなりと受け取れた。それほど多くのモノはなく、しっくりと感じる机や椅子が並ぶのみだ。手際よく新聞紙を広げて、その上にスツールを置いた。 「座って!」 誘導されるままそこに腰掛け、彼女が髪を梳く。 首にタオルを巻かれた。シャキンと、金属の音が一回した。そして「動かないでね!」明るい声がする。 シャキシャキと細かくハサミを動かす音が響く中。 「イチさ」 「なに?」 「代わろうか」 ドアに寄りかかりながら腕組みをしていた紫マスクさんが言った。 フゥと長い息を吐いてから「必死で笑えるぜ」、イチさんに言った。 「メローネの方が上手だって思っていたのよ!」 「それ本人の前で言うか」 「え、ごめん!でもさっきよりマトモになってるわよ」 つい吹き出してしまった! 鏡もないからわからないけど、呆れたようなメローネと呼ばれる人とイチさんのやり取りが可笑しくて。声に出して笑ったのはイタリア来てから初めてじゃないかな、あぁ可笑しい! 暫く笑って、やっと息を整えて、手が止まっているのを確認して振り返った。 「あの、ありがとう。グラッツェ!」 きょとん、と目を丸めた2人が顔を見合わせていた。 ********** きれいに整えられた髪を見て、そしてそのまま部屋でコーヒーを頂いた。その頃には日も大分傾き、夕焼けが西側の窓から射し込んで来ていた。 暫くイチさんと話をした。 一方的に話された、というのが正しいのだけれど、それでも私はとても楽しかったからつい帰る時を逸してしまったんだ。 賑やかになるドアの向こう側、イチさんが立ち上がって「ちょっと待ってて!」、バタバタと走り出した。 フットワーク軽い、というのか。 ホルマジオがキャンキャン騒ぐ犬、と言ったのが当たらずとも遠からず、というのかな。 そんなことを考えていた時に「なぁんでこんな所に居るのかね」、舌打ちをしたホルマジオが頭を掻きながら入ってきた。 「イチだろ、連れてきたの。アイツ、言ってもきかねぇ所あるか、ら‥」 言葉を途中で失いながら私を見ている。 「なに、か?」 顔をマジマジと見て、そして眉を寄せた。 「なんだそりゃあ」 「え」 「どこやったんだよ、髪!」 「髪?さっき切ってもらって」 「なんで切るんだよ!もったいねぇだろ!早く戻せ、戻せるんだろ!?」 「も、戻せない、と思う、って、何故!?」 頭部を掴まれ揺すられながら、凄い剣幕で怒鳴られた! どうして?!何がいけないの!? 意味がわからず答えも出せず、揺すられるままに頭を動かされる。首がもげそうだ。 頭と一緒にぐるんぐるん回る視界。でも耳はちゃんと働いていた。 「クロネコみてぇだったのによォ〜‥」 少しだけ、頭に乗せられた手のひらが温かく感じられた。たぶんそれは気のせいじゃないはずだ。 |