君の傍に

01


もう、どれだけの時間が流れただろう?
最後に食事を取ったのは、水を飲んだのはいつだった?

……わからない。

目を開ける力でさえ、なくなってしまった。
意識を戻したくなくて半ば無理矢理に手放そうとする。が、それは唐突に自分の周りが慌しくなり始めた事で阻まれてしまった。

「……、……っ!?」

誰かが近くで何か言っているけれど、ちゃんと聞こえない。
突然に手足を縛られていた感覚がなくなったかと思うと、今度は温かく包まれる。随分と久しい温度だった。そして頬に温かさを感じると口の中に何か入れられる。本能的にそれを飲み込むものの、それが水だと気付くのに少し時間が必要だった。

やっとの思いで重い目蓋を押し上げる。

「生きてるな。よかった……」

男の声だった。霞む視界で懸命に目の前にある顔を認識しようとする。けれど叶わなかった。
瞬間、浮遊感に襲われる。一定の感覚で体が揺られて、自分が運ばれているのだと悟った。

「もう大丈夫だからな」

今度は何をされるんだろう、という不安が優しい声色で紡がれた言葉にかき消される。

ほとんど本能的に、もう大丈夫なのだと感じて気を失った。



見慣れない天井が視界いっぱいに広がる。

「目が覚めたみてぇだな」

聞き覚えがある声が耳に入って目をやると、そこには銀色の髪を持った褐色の肌の男が居た。

「とりあえず、なんか食え」

そう言われて起き上がろうとするが、腕に上手く力が入らない。男が背中に腕を回して手伝い、クッションを多めに置いて後ろに体重を預けても楽な姿勢で居られるようにしてくれた。柔らかくて小さな、丸いパンを手渡されてゆっくり口に運んでいく。

「(……美味しい)」

それはなんの変哲もない、ごく普通のパンなんだろう。けれど久しぶりの食事は酷く美味しかった。

全部食べ終わると、温まったミルクを渡されてひと口含む。じんわりと体が温まっていった。

「名前はなんていうんだ?」

答えようとする。が、唇からは漏れるのは吐息だけで音にはならない。どんなに頑張っても、それは変らない。声を失ってしまった……らしい。

「声が出ねぇのか。そんじゃ、字ぃ書いて教えてくれ」

そう言って男は右の手の平を差し出した。しかし、ベッドの真正面に置いてある本棚に並ぶ本の背表紙には、見た事のない文字ばかりがある。だからおそらく、彼の手に自分の知る字を書いても伝わらない。どうしてか申し訳なくて俯くと、頭に何か乗せられた。不思議に思って彼を見ると優しげに微笑まれて、それが男の手だと知る。

「口、ゆ〜っくり動かして教えてくれ」

彼の言う通り大袈裟にひと文字ずつ唇を動かした。彼はそれを、ひと文字毎に音にして復唱する。

「アイナか。いい名前だ。オレはナイレン・フェドロック。よろしくな」

親しみやすい雰囲気の笑みを見せる、ナイレンと名乗った男。彼はもう一度「アイナ」と呼んで表情を一変させ、真剣な眼差しを向けた。

「……何があったか、話してくれるか?」

ためらいながら小さく頷く。信じてもらえるかどうかは別にして、彼女はナイレンに全てを教える事にした。

それは、とても時間のかかる作業だった。名前を教えたのと同様、わかるように大きく口を動かすとナイレンがひと文字ずつに音にする。途中でミルクを口にしながらそれを続け、終わる頃には時計の針が一周していた。

ナイレンはずっと難しい顔をしており、けれど彼女が不安そうに視線を彷徨わせているのを見ると、また頭を撫でてやった。

アイナという少女がどれだけの不安と恐怖に襲われているのか、ナイレンに知る術はない。
ただ、守る術はあった。ナイレンがしようとしている選択は、まだ幼さの残るこの少女に酷な仕打ちかもしれない。

しかしこの子を守るには、この子がもうあのような目に遭わないためには、それが最良の選択だと思える。

「よーし、アイナ。これからコーレア・フェドロックって名乗れ。本名はなるべく伏せろ」

きょとんと目を丸くする彼女に、ナイレンは優しく笑いかけて続けた。

「お前は今から、オレの娘だ」

ためらいながら、少女が頷く。
今度こそは守り抜こうと、ナイレンは彼女を見ながら堅く心に誓った。



ガン、と大きな音が下町に響き渡る。果物の入った箱の中をひとつ、蹴り上げた音だ。見るからに柄の悪い男が三人。その内の箱を蹴り上げた男が、この場所で商売をしている男の襟を掴む。

「誰に断ってここで商売やってんだ!?」
「や、あ、で、でも……」

怯えきった彼に別の男が睨みをきかせた。

「あぁん?オレ達に楯突く気か?」
「まぁ、売り上げの半分寄こしゃぁ勘弁してやるぜ」
「そんな……」

もうひとりの放った言葉に、店主が目を泳がせる。
遠巻きに目撃したユーリ・ローウェルは眉間にシワを寄せると、その場所から声をかけようと口を開いた。

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