平次の部屋イン大阪。
巷で超話題の高校生探偵――工藤新一は、自分を幼少期に戻したあの忌々しい組織との戦いに勝利を納め、元の姿に戻ったお祝いにと今朝からこの西の高校生探偵、服部平次の邸へ遊びに来ていた。遊びと言っても、ただ黙々と本を読み散らかすだけなのであるが。
「ふうっ、やっぱエアリー・クイーンやな……何べん読んでも飽きんわぁ…!」
平次は分厚い本を抱きしめ、まるで恋をした乙女のように恍惚として微笑んだ。その様子を見た新一が口を尖らせる。
「馬鹿言え、コナン・ドイルのが偉大に決まってんだろ」
「……」
今の仕草、かなり勇気要ったんやけど。少しは可愛いとか思わへんのかドアホ――
平次はじとりと恨めしげに新一を睨み付ける。
「な、なんだよ」
たじろぐ新一。
「お前なんも思わへんのか」
「は?」
何言ってんだコイツ、とでも言いたげな顔が平次を見つめる。平次は、数秒前までは確かに存在した『綺麗な新一』を脳内から抹消し、たった一時でも胸踊らせた自分を心から罵倒した。
ため息が聞こえ、それに同調するかのように重くなった部屋中の空気。しびれを切らした新一は声を荒げる。
「んだよ?オメーらしくもねえ」
「なんや、俺はしょっちゅうアホみたくゲラゲラ笑ってるっちゅーんか」
「ああ」
「…馬鹿にすんのもええ加減にせえよ……?」
震える拳を構えたところで、部屋の壁掛け時計が鳴った。
「もう昼か…」
呟いた新一が時計を見つめる。どこか寂しそうな彼の横顔を見つめてから、平次も時計の音に聞き入った。
「昼飯…はよ食わな…」
時の刻みに、唇の支配を奪われていく。ぼん、ぼんと緩やかかつ規則的に鳴り響くそれに今の自分達を重ね、二人は無意識に沈黙していた。
「なあ、工藤?」
視線はそのままに、平次が呼び掛けた。
「ん?」
時計から視線を離さずに、新一が応える。
「ホンマに…俺で良かったんか?」
「何だよ今さら。確かに蘭の事は好きだったけど、今はそんなんじゃねーって」
「ちゃうやろ」
「……服部?」
違和を感じた。とてつもない違和感。時計から目を逸らすと、こちらを向いていた平次と右肩越しに目が合った。膝に手をつき、俯きながら震わせている。――怒らせてしまったのだろうか。
「ちゃうやろ。な、工藤?」
突然聞こえてきた声はとても弱々しくて、時計の音で掻き消されそうだった。
「お前は、幸せになる権利があるんやで?何年もあないなことになって――。それでもようやく、ようやく取り戻したんや……、せやから遠慮せんと、早うあの姉ちゃん喜ばしたれや」
時計の音が止まる。――実際は鳴り響いているが。
平次が、泣いていた。
泣きながら、笑っていた。しかし虚弱な瞳で見つめ宣ったのはそれだけで、いつしかその言葉尻は霞んでいき、終いには嗚咽だけになった。
「服部……」
「ほら、早う行ってこいや」
何か言いかけた新一の肩を、もどかしく思った平次が叩いた。
「お前に好きやって言えたし、元に戻ったとき一番に電話してくれたしな……俺にはそれで十分――」
―――?
一瞬、何が起こったのか分からなかった。
否、気づけなかったのだ。
新一は平次の顔を自らの胸に押し付け、そのままがっちりと固定している。
「く……工藤?」
やっとそれだけを口にする。胸がこれでもかというほど高鳴り、顔が上気するのを感じた。
「お前、何し――」
「まだ分からねえか?」
平次は苛立ちのような声を聞いた。友情と愛情の狭間で足掻いていた、かつての自分のような声を。
「これだけ俺を掻き乱しておきながら……」
胸から離した平次の頬を片手で優しく撫でる。
「自覚なしかよ」
自嘲を含んだ笑みで潤んだ瞳を拭うと、拭いきれない潤いがその手を濡らした。
「お、おい……俺はお前を選んで――」
「分かっとる」
「じゃあなんで、」
「嬉しいわ。嬉しゅうてかなわん……けどな、」
そこまで言って、平次は先走った言葉を呑み込んだ。幾度か瞳を彷徨させ、茶化す言葉が見つからなかったのか、ため息を吐いた後に漸く口を開いた。
「あの姉ちゃんを泣かしてまう」
はっとした。それはまるで呪文のように新一のあらゆる意志を絡め取った。
忘れていたのだ、彼女の存在を。新一は、浮かれて冷静さを失った自分を不甲斐なく思い、同時に平次の半ば救いようのない優しさを恨んだ。
「けどっ」
不意に平次が新一の腕を払った。
「そんでも俺は……工藤が好きや」
消え入るような声だった。拳を強く握り締めて、うち震えるのを辛うじて堪えていた。
「だったらもういいじゃねぇか」
背を向ける平次の右腕を掴み、振り向くよう誘う。だが平次はそれを拒んだ。
「こっち向けよ、服部」
「……嫌や」
「服部」
「同情ならいらん!お前は姉ちゃんとこ行くのが一番や言うてるやろ!!」
「好きだ」
「せやからお前は!……、」
え?
平次が振り向く。その隙を見逃さず、彼の顎を導き口付けを落とした。
「っ、」
「これでもまだ……そんな減らず口叩けるかよ」
互いの顔は空の色に似合わず染まり、周囲は彼らだけを切り取ったかのような静けさだった。
「……ほんなら工藤」
右手側にある古時計を見つめながら、平次は口を開いた。
「どうした?」
新一も釣られて掛け時計を見上げる。
「後々…後悔するやないで!」
突然の微笑は、脳と心臓と手足と、新一の全てを絡めとった。
「ば、バーロー」
上手く言葉に出来ないまま、平次を強く抱き寄せる。
ごめんな、服部。
自分は酷く臆病で卑怯な人間だと知っていたから、都合良く相手に伝わることをそっと願いながら、震える腕に力を込めた。
END
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