頭上1メートルの花
※高校教師真琴×競泳選手にょた凛 ※橘先生に恋するモブ娘視点
先生に恋をするなんて、漫画の世界だけだと思っていた。 顔がかっこよくて、スタイルもよくて、声もすてき。優しいからみんなの人気者。教え方はわかりやすくて、保護者からの信頼も暑い。まるで、理想をキャンパスに描いたかのようなひと。そのひとこそ、私の担任教師兼すきなひと、橘真琴先生だ。
(X年/六月二十六日/金曜日)
教室全体がそわそわしていた。それもそのはず、これからテストの答案返却があるからだ。 私は基本的に勉強をしない人間なので、お世辞にも成績がいいとは言えない。だけど、そんな私もすきなひとのことになると別だ。 橘先生は古典の先生。だから、古典だけは必死の思いで勉強している。その成果はだんだんとあらわれてきていて、この前のテストでは、九割も丸がついていた。それを先生がほめてくれたときは、もう死んでもいいと、半分本気で思ったくらい。 今回もいっぱい丸がつくといいなと思いながら、授業開始のチャイムをきいた。
「みんな席に着いて」
朝のホームルームぶりに見る橘先生が、にこやかな表情で教壇へと立った(今は午後一番の授業)。クラスメートたちが、先生の抱えている答案と思われる紙の束を見て、よりいっそう落ち着きをなくしてひそひそ話をし始める。
「今日は号令は省略で、まず答案返すね」
先生が、重ねられたみんなの答案を掲げてそう言った。 出席番号一番の子から順番に名前が呼ばれて、返却されていく。私の番号が近づくにつれて、緊張が高まっていくのを全身で感じていた。
「××さん」
優しい声が私の名前を呼ぶ。毎回呼ばれるたびに私は、自分の名前が知らない文字の羅列にきこえる感覚を味わう。彼が発する音は、すべてが魔法みたいだ。そんなふうに考えるほど、私は恋に夢中なんだろう。 席を立って、先生のもとに小走りで向かう。立った1メートル程度の距離なのに、それすら時間が惜しくて急ぐ私は、周囲から見たら滑稽なのかもしれない。
「頑張ったね。おめでとう」
柔らかい笑顔。私のだいすきな笑顔で、先生が手渡してくれた裏返しの答案を慌ててひっくり返して、見た。
「ひゃく、てん…」
「うん。きみひとりだけ、満点」
確かに百と書いてある紙を持つ手が、うれしさで震えた。頑張ってよかった。ほんとうに。 じっと見ていると、百の数字の横に英語の筆記体で"great!"とあることに気づく。丸つけとは違うペンで書かれたそれは、とてもきれいな字だった。 繰り返しになるけれど、私は古典以外はできない。成績が悪い。つまり、英単語が読めなかった。もちろん読めないのだから、意味がわかるはずがない。
「先生、これってどういう意味ですか?」
質問を受けて、橘先生が私の答案を覗きこんだ。そのおかげで彼の端正な顔がぐんと近づく。どきどきして、顔面が熱い。
「…えっ」
先生の驚いた声がして、下げていた顔を上げる。 彼は困ったような、それでいてどこかうれしそうな顔をして、
「すごいって意味だよ。ほめ言葉かな」
「そうなんですか、勉強になりました。先生は筆記体上手ですね!」
紙面上のうつくしい文字を、ゆっくりと指先でなぞった。 先生は眉を下げて、曖昧に笑った。
* * *
先に帰宅したらしい姉が、リビングのソファーを陣取り、足を投げ出してテレビを見つめている。
「お姉ちゃんー、お姉ちゃんー」
「ちょっと静かにして」
姉の食い入るように画面に向けた視線を追って、私もテレビに視線をおく。古典の百点を自慢したかったけれど、ここは我慢。 画面の中には女子競泳界のエースとうたわれる、松岡凛選手が真剣な面持ちで映っていた。 姉は水泳部に所属してから、女子水泳関係の番組をたくさん見るようになった。それにつられて、妹の私も一緒に見るのが習慣化している。 何人もの競泳選手の中で、姉が最も応援しているのが松岡選手。昨年オリンピックで金メダルを獲得した彼女の泳ぎに魅せられたそうだ。 私は姉ほど女子競泳に詳しくないけれど、松岡選手の力強くてしなやかなうつくしいフォームがすきで、応援している。それに、彼女のきれいなビジュアルに憧れていた。
画面の彼女の右上には、松岡凛結婚会見と、表示がある。
「え!松岡選手結婚したの?」
「そうみたい」
「相手は?やっぱり七瀬選手?」
「一般人男性だって。もう、静かにしてってば!テレビきこえないから」
姉は怒ると怖いから仕方なく黙って、松岡選手の言葉に耳を傾けた。 インタビューにひとつひとつ丁寧に答えていく彼女は、泳ぐときの顔とはまるで違う。かわいらしい女のひとだった。
『七瀬選手。松岡選手のご結婚についてですが…』
画面が切り替わり、七瀬選手とインタビュアーが映しだされる。七瀬遙選手、男子競泳の選手で、松岡選手と仲が良く、彼らは男女関係にあるのではないかと噂があった人物だ。
『やっと結婚か、と思いました』
『"やっと"と言われますと?』
『付き合ってから、結婚まで長かったので』
『七瀬選手は、松岡選手の結婚相手をご存知なんですか?』
七瀬選手は応えずに、不敵に笑って、インタビュアーからマイクを奪いとる。
『凛、きいてるか?…一度しか言わないからな。……幸せになれよ』
松岡選手の旦那さん、一体どんなひとなんだろう。あんなにすごいひとの夫。おそらくすてきなひとだ。きっと、橘先生みたいにすてきなひとだ。
(X年/六月二十九日/月曜日)
いつもどうりの朝、いつもと同じ教室に、いつもと同じメンバー。変わったところは何もない。ひとつのことを除いて。
「おはよう」
橘先生がみんなと挨拶を交わす。 小さな変化に最初に気づいたのは、一番前の席に座る女の子だった。彼女がそのことを隣の席の子に伝えて、伝えられた子が、今度は別の子に。伝言ゲームのように、ある事柄が半数に伝わった頃、先生がみんなの様子に苦笑した。
「目敏いなあ」
彼が教室を見渡して、深呼吸を一度した。
「…結婚、しました」
普段の砕けた物言いではなく、緊張しているのか、妙にかしこまった口調だった。 私の頭はすぐに言われたことを理解できたけれど、こころがそれを受け入れない。認めない。 クラスメート達のざわめきも、先生のその後の言葉も耳に入らずに、ただただ彼の左手に現れた変化を凝視していた。 昨日までそこになかった、薬指に輝く結婚指輪。窓から射し込む光を受けて、きらりと反射するさまはきれいだった。
* * *
あれからぼんやりと過ごしてしまった。だいすきな橘先生の古典の授業さえも。はじめて彼に注意されたことすら、もうどうでもよかった。 放課後になった途端に、無我夢中で走って海までやってきた。昔は、嫌なことがあったら必ず訪れていたこの場所に。 はるか彼方の地平線から押し寄せる波が、私の沈んだ気持ちを拭い、連れ去ってくれればいいのに。 顔を手のひらで隠すように覆って、波打ち際にしゃがみこむ。裸足に一定感覚を開けて水が触れるのが心地よかった。 水に慰められるみたいな気分だ。
「大丈夫か?」
頭上からきいたことのある声が降り注いで、勢いよく立ち上がった。
「はい。…って…松岡選手!」
紫がかった赤い髪に、目鼻立ちの整った美人顔。間違いなく松岡選手だ。テレビでしかみなことのない彼女が目の前にいる。不思議な気分に包まれる。
「知っててくれたんだ」
「お姉ちゃんと、私、ファンなんです」
「そうだったのか。ありがとう」
「ところで、どうしてこんなところに?」
「ここ、地元なんだよ。少しだけ実家に帰ってきてた」
私が頷く。 そのとき涼しい潮風が吹いて、彼女の鮮やかな髪が靡いた。彼女は自分の髪を左手でおさえる。左手薬指で、ダイヤモンドがその存在を主張していた。 そこで、今まで松岡選手というイレギュラーな存在の登場で忘れていた、橘先生の結婚の事実を思い出す。
「あの、結婚おめでとうございました」
言いながら、目頭が熱くなるのを感じた。泣いてしまう、彼女を困らせてしまう。
「ありがとう」
松岡選手が私の頭を、あたたかい手で撫でる。その手がどこまでも優しくて、滴が頬を伝っていった。
「ごめんなさい。…ごめんなさい…。私…すきなひとがいたんです」
「うん」
「すきで、だいすきで。でも、今日失恋して…悲しくて」
「うん」
「気晴らしに海にきて、あなたと会って、結婚できていいなって…うらやましいなって思っちゃって…」
「うん」
「ごめんなさい。ごめんなさい。ほんとうに」
それは"おめでとう"と言いつつも羨んだお詫び。初対面のひとの前で泣きわめき、拙い言葉を紡いだお詫び。複数の意味が込められていた。 松岡選手は私の頭を撫でたままでいてくれている。
「叶わないってわかってました。…私のすきなひと、大人だったから…」
彼女は私の涙をハンカチで拭って、
「つらかったな、くるしかったな」
一瞬だけ彼女が私より苦い顔をしたように見えた。それはなぜだか、いつか見た橘先生の曖昧な笑みを思い出させた。
泣き止んだ私に、松岡選手はたくさんの話をきかせてくれた。家族のこと、競泳のこと、七瀬選手のこと。それらを話す彼女の声をきくうちに、いつしか私のこころは、落ち着きを取り戻していた。
「七瀬選手って、鯖が好物だったんですね」
意外なことを知って、ついつい笑ってしまう。
「元気出たみたいでよかった」
松岡選手もうれしそうに笑うと、短いメロディが響いた。私のケータイからではない音の発信源は、もちろん彼女のケータイだ。
「メールだ。そろそろ帰らなくちゃ」
松岡選手がおろしていたショルダーバッグを抱えて、名残惜しそうな顔をする。
「今日はありがとうございました。気持ちが軽くなりました」
話をきいてもらえて、楽になった。少しずつ橘先生への想いを違うものに変えていけたらいいと思えた。
彼女がかぶりを振って、
「あ!」
何か思い付いた様子で、鞄からいそいそと白のキャップを引っ張り出した。 そのキャップのつばに、同じく鞄から出した油性ペンで、さらさらと何かを書き込む。
「これで、よし」
彼女が私の頭にそれを被せて、じゃあなと手を振って駆け出していく。後ろ姿に、頭を下げて見送った。
家に帰って、キャップを手に取る。 そこには、あのきれいな筆記体で"Rin"と書かれていた。
(読まなくてもなんら問題のない捕捉はコチラ)
(20131117)
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