侵略するための



山姥切は現在大学二年だが、大学生になった途端、なんでか知らないけれど彼氏ができて、それからなんとなく、それまでシャワーで済ませていたのを毎日風呂にお湯をはって、きちんと入浴をするようになった。入浴剤も普段はドラッグストアで売っている安いやつを使っているけれど、デートの前日は一回分で五百円する、駅のデパートに入っているブランドショップのバスボムを使うようになったし、基礎化粧品もしっかりしたものを使うようになった。別に学生の付き合いなんだから、と思わなくはないのだけれど、近頃の学生はそれなりにそれなりで、付き合うことになった男性、もとい大倶利伽羅はもう学部というより学内でわけがわからないくらいモテると聞いたので、自分もそれなりにしていないと、まあ大倶利伽羅に迷惑がかかると思ったのだ。学内では二人の関係は秘密ということになっているが、街中を出歩く時に、パーカーとダボダボのジーンズでは流石にいけないだろうと、色々な雑誌を生まれて初めて買い、それを参考に衣服を整えた。

その日は教職課程もなんとなく一年から履修している関係と、教授の都合で授業が振替になったおかげで五限までフルに授業が入り、さらにバイト先の塾で声が小さいだの先生には彼氏いるんですか、だの生徒に舐められるわ、受け持ちの生徒の成績が云々で正規の講師に小言をくらうわで、散々だったし、かなり疲れていた。だから大倶利伽羅が所属しているバスケ部の大会が近いから、という理由で次のデートがいつになるのかもわからなかったこともあり、疲れをとるためと、単純に楽しむために、買ってあった高いバスボムを浴槽にいれた。お湯を溜める前に入れておくとお風呂が泡風呂になるというとても楽しいお気に入りのやつだ。香りも甘くて、好きだった。それに浸かりながら、なんとはなしに雑誌で読んだリンパマッサージをしてみたら、胸のあたりで「ん?」と思った。今まで自分の胸なんて、ブラジャーに詰め込む時くらいしか気にしていなかったし、なんならそのブラジャーもスポブラだ。しかしいざ自分の胸に触ってみるとどうだろう、ふわふわしていて、もちもちしていて、なんだかとても柔らかい。とにかく柔らかいし、とにかく触り心地がいい。それに気が付いてから、はやる気持ちをおさえながら風呂からあがって化粧水やら美容液やら乳液を塗りこんで、ついでにボディクリームを塗りこんでから、少し片づけが必要になってきたリビングで、ツイッターに「やばい!さっき風呂で気づいたんだが、俺のおっぱいめちゃくちゃやわらかい!誰か触ってみてくれ!」と書き込んだ。山姥切的には、フォロワーは全員同じ学科か部活の女子だけで、さらに数も一桁だったので、他の女子もこんななのかと比較したい気持ちからだった。

そのツイートをしてから、一瞬でピコン、と、スマホの通知が鳴った。なんだろうとそれを見ると、ツイッターの通知で、大倶利伽羅からのダイレクトメッセージだった。内容は一言、「誰か?」だった。山姥切は、え、と思って、そういえばこのアカウントは大倶利伽羅もフォローしているんだったと青ざめ、すぐに「え、いや、このアカウントはあんた以外、学科の女子しかフォローしてないから……」とダイレクトメッセージを送った。するとすぐに「鍵垢じゃないよな」と送られてきて、山姥切がどうしようどうしょうと考えている間に、「プロフに大学名入ってるよな」、「検索で誰でも見つけられるな」、「学科の渾名そのまま使ってるな」、「お前の学科、男子の方が多いよな」と送られてきて、もう音を立てて山姥切は青くなった。風呂上りでまだ残暑が厳しい季節だったので、ノーブラで半そでのシャツと、やわらかい生地で薄手のショートパンツと、浮腫み取りのニーハイという恰好だったけれどとても寒くなった。どう弁明しよう、というか、いや正論ではあるのだけれど、自分的にはほんとうに学科の数少ない女子の友達に向けて発信したつもりだった、とどうにか弁明の文章を考えていたのだが、その文章が出来上がる前に、「今から行く」とだけ送られてきた。

山姥切は本格的に青ざめて、いやもうこれは弁明という段階ではなくなってしまっていて、絶対に何を言っても聞いてくれないし、絶対来る、この散らかった部屋に、と、とりあえず自分の恰好はさておき、ざかざかと散らばった書籍を本棚に押し込み、レジュメをまとめ、没にしたレポートをごみ箱につっこみ、洗濯ものはとりあえず洗濯機に突っ込み、悲鳴をあげながら高速でフローリングにはクイックルワイパーをかけたし、ラグやクッションにはすごい勢いでコロコロをかけた。その間十五分で、それから自分のひどい恰好に気が付いて、「ああああああああ」と悲鳴をあげながらまともな部屋着を探そうとした瞬間にピンポーンとドアベルが鳴った。モニター式インターホンを恐る恐る覗くと、たいへん不機嫌な顔(普段から不機嫌な顔ではあるが)をした大倶利伽羅が、今までどこにいたのかと疑問に思うくらいぴしっとした七分丈の黒いシャツという恰好のついた服でそこにいた。山姥切は「ちょ、ちょっと待ってくれ!今もう少し片づけて、あと着替えるから!」と言ったのだけれど、大倶利伽羅は『今開けないと今の五倍怒ることになるが』と、たいへん低い声でお返事されたので、山姥切はひえっとなって、思わずドアを少しあけてしまった。

「散らかっているし、あと着替えてないからほんとに部屋着だから絶対なんかもう幻滅すると思う……」
「俺は別にそういった基準であんたをみていない」
「……えっと……あ、はい……どうぞ……」
「邪魔する」

家の場所は送り迎えで知っていたとしても、大倶利伽羅を部屋に入れるのはこれが初めてで、もっとちゃんと綺麗にしてから入れたかったし、インテリアだってちゃんとしたかったのに、と山姥切は頭の片隅で思ったけれど、今はもうとにかく不機嫌すぎる大倶利伽羅にぶるぶる震えるしかなかった。なんでこいつと付き合ってるんだっけ、と思うけれどなんでか好きになってしまったからという返事しか脳内では返ってこなくって、嫌われたらどうしよう嫌われたらどうしよう幻滅される、絶対幻滅される、と繰り返し妄想が再生される。これで関係が終わりになってしまったらどうしよう、と山姥切は涙目になりながら大倶利伽羅にクッションをすすす、と差し出して、自分も向かい側に正座しようとした。

「……座る場所が違う。こっちにこい」
「え、」
「いいから」

大倶利伽羅は山姥切のベッドを背もたれにして座っていて、山姥切は自分がいつも使っている座椅子に正座しようとしたのだけれど、大倶利伽羅にそう言われたので、斜め向かいだろうか、と、少し近づいた。そしたら大倶利伽羅が「いや、こっち」と言うから、大倶利伽羅の隣におそるおそる正座したのだけれど、大倶利伽羅は不機嫌そうな視線を向けて山姥切の腕をひっぱり、自分の脚の間にすっぽりとおさめてしまった。山姥切は心臓が全力疾走をして、冷や汗なのか普通に暑いのかこんなに近いのは初めてだから照れているのかわからないけれどとにかくだらだらと汗が流れる心地がして、「え、え、な、なんで」とそこで膝を抱えて硬直した。そうして膝をかかえた時にむにっと胸がつぶれて、自分がノーブラであることに気が付き、さらに顔を真っ赤にして、「す、すまないが、本当に着替えさせてくれないか……?」と申し出たのだけれど、大倶利伽羅は「どうして」とだけ聞いてきた。

「い、いや、今浮腫み取りタイツとか……人に見せられる恰好ではないし、下にはいてるのも部屋着だし、上もほら、もうよれよれで……」
「俺だって部屋着のまま自転車こいでここまで来たんだが」
「それ部屋着なのか!?なんでそんなに恰好いいんだ!?おかしいだろう!」

大倶利伽羅は上のシャツはいいとして、下はコットンリブパンツだった。この恰好でも普通にキャンパスに行けるだろう。やわらかい素材ではあるけれど、部屋着にまでそんなこだわるのか、やっぱり大倶利伽羅に自分は釣り合っていないのだと山姥切は泣きそうになったが、そんなことより自分がノーブラなことの方が泣きそうな事実だ。そうして大倶利伽羅の長い脚の間で小さくなっていると、大倶利伽羅が「おい、それじゃ触れないだろ」と頭の上から言ってきた。

「え、」
「いや、誰かに触って欲しいんだろ?胸」
「え!?いや、その、そういう意味じゃなくて」
「ならどういう意味だったんだ」
「お、俺のアカウント……同じ学科の女子しかフォローしてないから……だから他の女の子のもこのくらい柔らかいのかなって……」
「学科の女子は触っていいのに、何故俺は駄目なんだ。俺だってお前のアカウントをフォローしているだろう」
「いや、だってあんたは……その……」
「俺は嫌なのか」
「……い、嫌……と、完全に言い切れるわけでは……ないのだけれど、その、常識的に考えて問題が起こると、俺は思うわけで……」
「その常識的に考えた場合の問題を詳しく教えろ」
「……いや……だから……あんたは男だから……」
「男だと何が問題なんだ」
「……だ、男性が、女性の胸を……触ると、ほら、倫理的に……あと警察沙汰になる可能性が……」
「なるほど。しかし俺とお前の関係はなんだ?」
「……えっと……」
「言いたくない関係だったか」
「いや……違くて……」
「まあ、ツイートには『誰か』としか書いていなかったから、男性も含まれるだろう。お前がいいと言ったんだから、俺にも権利があると主張する。とりあえず、少し隙間を開けろ」

大倶利伽羅はそう言うと、山姥切がどうこうするのを待たずに、無理矢理わきの下から手を捻じ込んできた。山姥切が「ちょっ!まっ!い、今ブラジャーしてない!」と白状するが、大倶利伽羅は「いや……そんなのはそんな薄手のシャツだったらはじめからわかるだろ……」と、そういうことではないと反論をしたくなるし実際しようとした返事を返してきた。山姥切がそれをできなかったのは、大倶利伽羅の大きな手が、むにっと山姥切の胸を触ったからだ。

「やっ……」
「……お前、着痩せするタイプだとは思っていたが、かなり着痩せするんだな……」
「おまっ……!それが、その、いや、もう、なんか、うん、死のう……」
「何故だ」
「……だって……あっ!おい!揉むな!揉むなっ……!」
「いや……揉まないと柔らかいかどうかわからない」
「この正論馬鹿!」

大倶利伽羅は山姥切の渾身の罵倒も耳に入っているのか入っていないのか、顎を山姥切の肩に乗せて、ゆっくり、焦らすように山姥切の胸を下から柔らかく揉んだ。山姥切は今まではもうなんだかわけがわからなくてわからなかったのだけれど、自分で触るのと、大倶利伽羅に触れられるのとで感覚が全然違って、なんだか変な心地になってきて、「なんか、なんか、変……」とぼんやりしてきた頭で呟いた。大倶利伽羅は「……まぁ、そうだろうな」と、いい声を山姥切の耳元で出すから、山姥切は息が上がってきて、身体から力が抜けるようだった。

「や、やめよう……変……変だから……っ」
「どういう風に変なんだ」
「やだ……っ、あ、……んっ」
「たしかにこれは柔らかい。とても触り心地がいい。俺的にはずっと触っていたいくらいだな」
「……っ……も、いい、だろ……!」

山姥切は大倶利伽羅の腕を掴んで、引きはがそうと試みるのだけれど、大倶利伽羅は男性であって、さらには大学のバスケ部のエースでもあって、つまりはかなり筋肉がついていて、運動部なんて中学でしか経験が無い、つまるところ現在まともに運動なんてしていない山姥切の腕力ではかなうわけがなかった。振り返って抗議しようにも、大倶利伽羅は山姥切の右肩に顎をのせていて、そちらを向くと大変なことになるとわかりきっていて、こうして考えている間にも脳みその芯みたいなのがぐらついて、身体から力が抜けて、大倶利伽羅から逃げたいのに、大倶利伽羅を背もたれにしているというあべこべな状態になっていた。

「で、お前はこれを他の奴にも触らせたいと」
「っ……もういい!俺が悪かった!……っ、だから離してください!」
「……いや、触り心地がな、ほんとによくてな、離してやりたいのはやまやまなんだが、手が離れてくれない。あとお前、いい匂いするな。髪の毛、微妙に湿ってる……ああ、そういえば風呂上りだったか」

大倶利伽羅は山姥切の肩のあたりに鼻をくっつけて、すうっと息を吸い込んで、それを口から、あろうことか山姥切の耳元で吐き出した。山姥切は「ひぁっ」とみょうちきりんな悲鳴を上げて、両手で耳をかばう。大倶利伽羅はその手の外側から「なんだ」とか「どうした?」とか、山姥切の胸を思う存分揉んでいるくせにやたらいい声で言うから、山姥切はもう泣きたくなった。それから、そうだこいつはこんなに恰好がいいんだから、今までにも彼女の一人や二人や百人は絶対にいたんだ、きっとその彼女たちにもこんなことして遊んでいたんだ、と、悲しい気持ちになった。そうしたらもうすんすんと泣き始めるしかなくて、そうしたら手は目元にやらなくてはいけなくて、「う、う、」と小さく嗚咽をこぼした。これにはさすがに大倶利伽羅も手を止める。

「……そんなに嫌だったなら、本気で謝るが」
「……ちが、……っあんた、恰好いいから……」
「……誉め言葉は受け取るが、それで何故泣く」
「今までの彼女……百人くらい、にも、おんなじこと、っ……したんだろうなって……」
「……大学二年生までに普通百人も彼女はできない。彼女ができるだろう年齢を、まあ、中学一年生、十二歳として、大学二年生時点でまあ俺はもう二十歳だから、二十歳とする。その八年間を閏年を考慮せず三百六十五日で計算し、その間彼女が途切れず存在したと仮定すると、約二十九日毎、別の彼女がいた計算になる。……案外いけそうな数字になってしまったが、現実にそんなに彼女をとっかえひっかえしている男に近づく女はまあ、いないだろう。俺に関しては……まぁ、いなかったわけではないが」
「やっぱりいるんじゃないか!案外いけそうなんだろ!?……どうせ俺ははじめての彼氏だ!たまたまできた彼氏で!でもものすごく恰好よくて!だから俺も見た目どうにかしようって!色々頑張ったけど……やっぱり、……やっぱり……釣り合ってないなって……ずっと……思ってて……うっ……ひっ……今日だってあんた怒らせたし……あんた俺といてもだいたい不機嫌そうだし……も……でも、すきだから……俺はあんたのことすきだからなんも言い出せなくて……こんな……こんな俺ばっか……うっ……すきで……でも、あんたは……そうじゃない……も、わかんな……っう……ううっ……ごめんなさ……も、……もう……諦める、から……すきだけど……も、すきじゃなくなるように、するから……うぇっ……ごめ……泣いて……困らせて……すま、ない……」

山姥切の話をそれまで天井を見上げながら聞いていた大倶利伽羅は、その天井に向かって、大きなため息をついた。山姥切はもうこれで終わりなんだとさらに悲しくなって、涙が止まらなくなって、大倶利伽羅の体温がすきだなあと思って、でもそれはもうだめなんだって考えて、さらにぐずぐずになった。そうしたら大倶利伽羅は、「いいか、これから強硬手段をとる。それだけは先に謝る。すまない」と言った。山姥切が「強硬手段」というセリフにはてなマークを出す前に、大倶利伽羅は山姥切の両手を、がっしりと胸のあたりで固定して、山姥切の頭に、頬を寄せ、それから顎を山姥切の頭の上に置いた。

「俺とあんたの馴れ初め、覚えてるか」

山姥切はその声がさっきまでよりずっと優しくって、それなりに近くて、やっぱり泣きそうになったけれど、頑張って記憶を呼び起こして、と、いうより、いつも思い出してはいるから、マイナス思考でいっぱいになった脳みそから掘り起こした。

「……一般教養科目……宇宙のしくみ……工学部と、農学部で一緒だったから……」
「そうだな。工学部のテクニカルホールって場所が俺にはわからなくてな。まあどうにか工学部の地図を見て、そこに行って、適当に座ったわけだ。で、第一回目だったからな。シラバスだけ見て、とりあえず受けて、一週間以内なら後で単位変更もできたから、満員だっただろ。宇宙とか星とか、だいたいのやつが興味を持つからな。で、出席だけで単位取れるって書いてあったこともある。しかしあの単位の教授、シラバスにだけいいこと書くから、結局期末試験はあるわ、レポートまで提出させられるわ……今はどうでもいい話だな。まあ、それで、俺の隣くらいしかもう席が空いていなくて、これ以上ないってくらい怯えたあんたが俺の隣に座ってきた」
「……いや……だってものすごい美形で恰好いいくせに……恐ろしく不機嫌な顔で……農学部だから知らない人だし……いや、工学部でも学科違えば知らないけど……友達と科目違って、ひとりだったし……というかその頃まだ友達とかいなかったし……たまたま寝坊して……ギリギリになって……」
「さらっと褒めたな。いや、まあ、それはまずどうでもいい。その時俺、消しゴム忘れてきてただろ。講義の途中で書き損じて長いこと筆入れ漁ってたら、あんた、無言で俺とあんたの真ん中に消しゴム置いた。あんな怯え切って、震えてたくせに、そんな相手に消しゴム使え、みたいに置いた」
「……だって、ないと困るだろ、消しゴム……」
「普通のやつはそういうことができない。しかもあれが一限だったからって、高校生みたいに消しゴムを定規で割って、なんにも言わずに机に置いていっただろ。それで、ああ、こいついい奴だな、と、ちゃんと顔をみたら女子で……いや、まあ最初見た時パーカーにだぼだぼのジーンズだったしフードかぶっててわからなかったんだけどな……。で、まぁ、講義終わって立ち上がったのをちゃんと見てみたら胸あったし、シルエットが女だったからやっと、あ、女子かって確信持って、フードかぶってても、あー絶対可愛いなって思ったな。いや、まあ、思っただけで、それで好きになったわけではないから、そこは間違えないで欲しい」
「は!?」
「二限でもその消しゴムにお世話になってな。農学部は工学部より女子が多いが、そんな奴知らないし、テクニカルホールから出た廊下で工学部の方に行ったから工学部かって特定して、工学部だったら昼には工学部食堂使うだろうと思って、中央購買で消しゴム買って工学部食堂で探してみたら、あの窓際の一人か二人用席でメシ食ってて、俺が隣いいかって聞いたら、『えっ』って言ったきり、動かなくなったな、あんた」
「だってあの席!何席も繋がってるけど!座るんなら一席空けて座るのがマナーだろ!?」
「そんなコミュ障用マナーは知らん。空いている席に座ればいい。で、俺が購買で買った消しゴムをあんたに渡そうとしたら、『俺がやったやつ、返してくれればいい』って。なんだったか……『俺の消しゴムは俺の消しゴムとしての価値しかないが、あんたが購買で買った消しゴムは、あんたが払っただけの金銭的価値があり、あんたの消しゴムになる資格がある』……とかなんとか、貴様は人文社会学部かってくらいわけのわからんことを言われたが、まぁとりあえず、善意でもなんでもなくやっただけなんだから、自分の消しゴム返すくらいでちょうどいいって言われたような気がしてな。なんだ、こいつって思った。コミュ障陰キャをことごとく拗らせているのにそういうとこはむしろ他の人間よりずっと真っ当なんだな、と。いい意味で興味を持った」
「……いや……そういう意味じゃ……」
「まぁ、そしたら、いつの間にか好きになってた」
「……ん!?」
「だから一回目で、なんだ、これガチガチの物理化学で、物理やってなきゃわからんな、シラバス詐欺かって思った一般教養の講義をわざわざとって、昼飯は徒歩三分の農学部食堂も、チャリ一分の中央食堂もあるのに農学部から自転車こいで人文社会学部と法学部と教育学部棟と信号のある国道をまたいだ工学部食堂行ってあんた探して……まあ探すと言っても、あんたはいつも一人用席だったから実際探してはいなかったな。で、はじめはちょっと話しかけたら変なことしか返ってこなかったが、何回か話しかけてたらだんだんちゃんと返すようになって、なんだ、こいつは猫かとか思いながら一緒にメシ食って、一般教養のレジュメ失くしたって嘘ついて、近いコンビニとか工学部のコピー機でなく、わざわざ工学部裏から道挟んだ国道沿いのコンビニに連れて行ってコピーとって、ここわからんから教えろ、と、中央食堂で一緒に勉強して……そうしていたらほんとにあんた可愛いなって。真面目で、合わせてはくれないがまっすぐな眼、してて、怖いくらい純粋で、俺のことやたら怖がってるくせに懐いてるの、可愛かった。顔も、スタイルも、なにより性格もいいのに、なんでそういうのを全部隠しているんだろうとは思ったが、隠してくれていてまぁよかったな、とも。で、期末レポート出来上がったあとの中央食堂からの帰り道、遅くなったから送ってくって、俺がわざと遅くまで引き留めたのに、それで家まで送ったよな。その時にあんた彼氏いないのかと聞いたら訳の分からん言語でいないと言うから、じゃあ俺と付き合えば、と言ったら、どうしてなのかは知らないが、まあ、ごちゃごちゃ言いながらもオーケーくれて。その、あんた送り終わった帰り道に俺、そういえば自分からこんなに手間暇をかけて言い寄ったのは、はじめてだったなって思った。家だって、あんたが上田通りで、俺は中央通りで、真逆ではないが、自転車でも十五分かかる。そんな時間をかけて人を家まで送ったのは初めてだった。今までのは普通に、告白されたから付き合って、求められたからキスして、誘われたから……まぁ、セックスしてた。でもあんたは、違う」
「……う、嘘だ……」
「嘘じゃあない」

大倶利伽羅は今まで山姥切の頭に顎をのせて喋っていたのだけれど、また右肩に顎をのせて、耳に刷り込むように、「俺は、あんたが、すきだ」と言った。

「……っ」
「すきだ。俺にこんなこと言わせたの、あんただけだ。すきだ。付き合い始めてから、何故なのか知らんが、最初から可愛かったのに、どんどん可愛くなってくのが、すきだ。でも、嫉妬もする。他のやつが見るから、少し嫌な気分になる。俺はあんたが思ってるほど、出来た男じゃない。でも可愛いあんたは見ていたい。いいにおいがするのもすきだ。でもその匂いを知っているのは俺だけでいい。デートの時はなおさらだ。こうするのが当たり前って、普通の奴ができないことできるとこが、すきだ。でもその相手は俺だけであってほしい。誰にでもそうするあんたがすきなはずなのに」
「……ん……や、やめてくれ……そんなこと思ってないくせに……!」
「あんたのすきなところ、全部あげないとあんた、わからないなら、全部言うが……まぁ、全部すきなんだから、全部もなにも、ないんだがな」
「み、耳は駄目だ!耳じゃないとこで!ていうか手を!はなせ!塞げない!」
「だから強硬手段だと言ったし、先に謝っただろう。俺はあんたがわかるまですきだって言うからな」
「……だって、俺とか……そんな……人に好かれるとか……わからない……」

山姥切がまたえぐえぐと泣きだすと、大倶利伽羅はそれをなだめるように両手を離して、かわりにぎゅっと背中から抱きしめた。そうして、「あんたの体温も、匂いも、こういう無防備なとこも、全部すきだ。ずっとすきだ。あんたがどれだけ俺のことを信頼していなくても、信用していなくとも、俺はあんたのことがすきなんだ。そばにいて欲しいんだ。あと、泣かれると、困る」と、今度は耳に直接吹き込むのではなく、肩のあたりに顔をうずめて、ぼそぼそ、そう言った。

「……普通に考えて、俺の方が不安になるだろう。あんた、フードとってから友達ができたし、学科は男だらけだし、二年の前期半ばあたりから、工学部にマジでヤバい天使レベルの天然美少女がいるって、バスケ部の工学部男子に聞いた。噂になってた。名前聞いたら普通にあんただったんだからな。勘弁しろ。サークルだって違うし……いや、まぁ二年になってから、あんたの入ってる天文部に俺も入ったが。しかし飲み会もあるし、服装もそれなりになったし、それで誰が見るかもわからないツイッターで誰か胸触ってみろとか、色々と自覚をしてくれ……。俺のすきなところでもあるが、無防備なのも大概にしてくれ」
「だ、だって俺はあんたに釣り合うようになんなきゃって……あんたが農学部やら文学部やらとにかく学内でなんて呼ばれてるか知ってるのか!?不機嫌王子だぞ!大倶利伽羅の名前知らないやつほぼいないんだからな!?美形で、服装も恰好よくて!それでバスケ部のエースとかなんなんだ!あとなんで天文部に入ったんだ!?あんたのせいで三十人だった部員が百人になったって先輩がすごく苦労してるんだからな!いや、まあ、あとは、えっと……工学部というか、基本的にこの大学の男子は、国際文化とかの女子しか見てないと思っていたが……いや、でもあんたが聞いた工学部のあれそれは多分作り話だ。胸の件は、ほんとに自分で感動して……学科の友達だけに言ったつもりだったんだ……そ、それに……他人に胸、触れるの、こんな変になるって、知らなかったから……」
「部員が百人になったのは俺だけのせいではないと思うが……まあ、それはさておき、……変って、どういった風に変なんだ」
「いや……こう、ぐらぐらする」
「……なにが?」
「……頭の芯みたいなものが……」
「……人体の脳という器官に、芯と呼ばれるようなものは存在しない。まぁ、強いてあげるとしたら脳幹である中脳、橋、延髄がそれにあたるかもしれん。ただ、それがぐらつくとなると傷病の可能性が一気に高まる。まあ、一般的に脳震盪というやつなのだけれど、脳震盪で意識を失うのは十パーセント程度の、重篤な症状だ。意識を失っていなくても脳震盪を起こしている場合にあげられる症状は、意識の混濁、記憶喪失、頭痛、めまい、ふらつき、おう吐、集中力の極度な低下、物が二重に見える、混乱して取り乱す、悲しい、不安等々様々だ。この場合あんたにはいくつかあてはまるだろう症状があるが、しかし、脳震盪を起こすには、頭部に深刻な衝撃を与えなくてはならない。俺があんたの頭や肩に顎をのせたくらいじゃ、九十九パーセント、その先小数点以下概念的無限に九が続く。……いいか、今あんたはおそらく循環十進少数における一に満たない小数点以下概念的無限数が九であった場合、それを十進整数一と証明する数式を頭に描いているだろうが、それはただちにやめておけ。俺が言いたいのはそこじゃない」
「なんで俺の考えていることがわかる!?」
「……すきだから」

その部分だけじりじりと耳に刷り込むようにそこで囁くのだから、たちが悪い。ついでに、「泣かれた理由がそんなしょうもないことなら、まあもうすこし俺の日頃の苦労を癒すために、ぐらぐらしていてくれ」といって、また山姥切の、ブラジャーをしていない胸をむにむにと揉みだして、さらには耳元でやはり「柔らかい」だとか「すきだ」とかいい声で言うから、山姥切は涙目で顔を真っ赤にして、どうしていいかわからずに「ひっ」とか「あっ」とか「んんっ」とか、言葉にならない声ばかりあげるしかなかった。けれどこういうのは多分駄目なことなんだとわかりすぎるほどわかるので、なんとかなんとか「こ、こういうのは、もっと大人になってからで……!」と反抗をするのだけれど、大倶利伽羅は「……大人の定義というのがどこにあるのか、明確に示してほしいところだ。日本の民法における成人という定義であるなら、それは俺もあんたも満たしているだろう」と、やはり正論でかかってきて、じゃあ人間はどこから大人と子供にわかれるのか論争は文系のアレコレで、まだなんにも決着がついていないということくらいは山姥切にもわかっていた。

「あ、あ、……なんで声、出るんだ……!っんん、変なんだ……変だから……概念的無限じゃなくって、いやこの世界に無限は存在などしないから、多分どっか確実に有限な……っ……どっかにある一のとこで、脳震盪起こしてるから!」
「……お前のことを思って、一応論理的な話にしていたし、実際手加減をしている。そこのところはわかってほしい。で、実際問題、俺が少しばかり不安になっていることを、まあ胸を揉みながらで悪いんだが、挙げていくと、俺たちは一年の前期、夏休み前から付き合いはじめたよな。あ、あとタイツも脱がすぞ。どうせ触れているならやわらかい方が好みでな。……このタイツ、結構きついな……女子はこんなものを穿いて寝なきゃいかんのか……。話を戻すぞ。で、今、二年の夏休みが終わろうとしている。その間、デートを何回かしているな。で、手を繋ぐのに三ヶ月かかっている。そしてこれは俺にとっても驚きの事実なのだが、そこから全く進展していない。あんたの部屋に入ったのはこれが初めてで、まぁ進展だろうし、遊びに近いとはいえ胸を揉んでいるというのも進展かもしれない。しかし俺にとって一年以上付き合っているというのは最長記録だ。普通一ヵ月くらいで別れる。で、その一ヵ月の間に、大体全部終わってしまう。最短記録は一日だな。その全部、というのを、こういったことに疎すぎるあんたにわかりやすく説明すると、手を繋ぐというのは、もはや当日に済ませる行為で、それ以上のことを表している。つまり、キス、ペッティング、セックスまでだ。まぁペッティングしたらだいたいセックスするから、そこらへんの段階はどうでもいいんだが。で、今俺があんたにやっているこれは、実際、まぁもしかしたらペッティングになるのかもしれないが、ただのセクハラ行為くらいの触り方でしかないということをまず頭にいれろ」
「ど、どんな爛れた高校生活を送っていたんだ!?破廉恥だ!ふざけるな!あ、あと、も、さわ、ないで……やだ……脚とか……くすぐったい……」
「俺としては、あんたはほんとうにすきだから、大事にしたい。別にセックスしたいとか、そういうことじゃない。いや、まあ、したくないと言えば嘘になるが。だがしかし、キスくらいしてくれたっていいだろとは思っている。だがな、世の中の男、全員が全員、あんたのこと大事にしてくれるかっていうと、そうじゃないってことを、ちょっとは考えろ。こないだの天文部の内輪飲みで、俺があんたの隣に行く前に座ってた奴、あいつは本気であんた酔わせてどうにかするつもりだったぞ。グラスの交換スピードがおかしかったから俺が止めた。その時点であんたはもうかなり酔っていて、大学では隠したいとかなんとか言ってたくせにテーブルの下で手を繋いできて、俺はあんたをアパートに送り届けるまで、理性を総動員しなければならなかった。おかげで俺は部内では上田通に住んでいることになっている」
「え、あ、あれは……だ、だって、これ弱いやつだからって……甘くて、おいしかったし……」
「そうやって全員の言うことをほいほい信じるくせになんで俺があんたのことをすきだって何回言っても信じないんだ!?どうなっているんだ、あんたの脳構造!CT検査してやろうか!?」
「だってあんたみたいな恰好いい奴が俺みたいなもさいコミュ障陰キャ女と真面目に付き合ってくれるわけないだろ!?ほんとはもっとすごい美女とか侍らせてるんだ!国際文化の高嶺の華とか言われてるめちゃくちゃ可愛い女子とか!法学部の絶対零度美女とか!農学部にだってハーフの天然グレーアイロシアン美人いるだろう!?つ、付き合ったのだって彼氏いないなら付き合ってやるよ、みたいな!そんなかんじだったから!」
「……お前は、本当に、なんで、そんなに、自己肯定意識が、薄いんだ!論理的に考えろ!理系だろ!?なんとも思ってない女のために何故俺はバスケ部と天文部を掛け持ちしている!?なんとも思ってない女を口説くのか!?なんとも思ってない女のちょっとしたSNSの言動に苛ついて大会前のハードな練習こなした日のこんな遅くに自転車こいでわざわざアパートまで行くのか!?明日朝練だってあるんだぞ!?俺はそんなに安い男じゃないんだからな!?」
「そ、そんな高い男がこんな安い女相手にするわけないだろ!!絶対いつかほんとにもうあんたしかいないって思わせて!いやもう思ってるけど!ぺって捨てるんだ!わかってるんだ!」

山姥切がそう言うと、大倶利伽羅の手がぴたりと止まって、やっと解放されるのかと山姥切が安心した矢先に、絶対零度の、過去これほどまでに冷たい温度の声を聴いたことがないというような声音で、大倶利伽羅がぶちぶちと宣言をはじめた。

「……お前、いい加減にしろよ……。マジで、いい加減にしろよ……。……いいか、今から、数十分、お前を大事にしないことにする。でもそれは実際俺がやりたいと思っていることで、普段ずっと我慢していることでもある。いいな、俺はこれから数十分、お前を、大事にしない」

山姥切がひゅっと息を呑むくらいそれはほんとうに恐ろしく地を這うような声で、震えるくらい恐ろしくって、大倶利伽羅の顔を見ないといけないとはわかっていたけれど、見る勇気がどこからも出てこなかった。硬直した山姥切の服の裾から、腹部と比べるとすこしひやっとした、大倶利伽羅の手が入ってきて、山姥切が「やっ」と悲鳴をあげると、その口は大倶利伽羅の左手によって塞がれてしまった。そして右手はあろうことかちょくせつ胸に触れて、それをさっきまでのように軽く揉んだあと、今まで全然触れもしなかった、胸の突起をつつ、と撫でた。

「っんん!……!……!」

山姥切がわけのわからない感覚と、怖いのとで泣き始めても、大倶利伽羅は黙ったまんま、その胸の突起のあたりをなでたり、つぶしたり、挙句の果てにはつまんだりして、山姥切の脳みそをぐちゃぐちゃにした。そうして、さらにはいつも声を吹き込むばかりの耳にちゅっと音を立ててキスをして、それからぬるい舌で、べろりと舐めた。舐めるだけならまだいい、いや、よくはないのだけれど、その舌を山姥切の耳に差し込んで、ぴちゃぴちゃ、じゅくじゅく、音を鳴らした。山姥切はひどく怖くて、でも脳みそは溶けてしまって、入りが少ない酸素を必死で吸って、それを悲鳴にあてがおうとするのだけれど、出てくるのはくぐもった喘ぎ声ばかりで、結局、首を動かして逃げようとするが、大倶利伽羅の腕は山姥切をがっちりと捕まえて離さない。それでいて甘い愛撫が続いて、山姥切は爪まで立てて必死で逃げようとしても全然ダメで、ふうふう言いながら、ぐずぐず泣くことしかできなかった。それから脚の付け根がなんだかおかしい感覚がしたので、こわくてぎゅっと閉じたのだけれど、その間に大倶利伽羅が片足を突っ込んできて、無理矢理拡げられてしまうし、なんなら内側の、脚の付け根ぎりぎりのあたりを撫でられるし、大倶利伽羅の脚が当たっているところが本当に恥ずかしくてやめてくれ、やめてくれと泣きながら大倶利伽羅をやっと見たけれど、その眼がもう絶対零度で、怒りの頂点にあって、ほんとうにほんとうに今の大倶利伽羅は自分のことをなんとも思っていないのだということだけがわかってしまった。

「……!……んん……っ……ん、ん、」

大倶利伽羅の指が胸の突起にかかるたんびにこわいものが押し寄せて、脳みそが変になって、大倶利伽羅の舌が動くたんびに、びくんと勝手に身体が動いた。そうすると脚の間に入っている大倶利伽羅の脚に変なところがこすれて、変な声が出そうになるのだけれど、がっちり口をふさがれていて、それが全部身体の中でぐるぐるして、身体からはどんどん力が抜けていって、息は苦しくなって、膝を立てていることもできなくなり、踵がずるずるとラグを擦って、でも持ち直そうとするからまたずるずるして、とにかく頭がおかしくなりそうで、怖かった。

「……まだ十分も経ってないが、実際俺はあんたにこういう無体を、何回働こうと思ったか、わからない。で、あんたは変だ変だ、としか言わないが、それは、気持ちいいってやつじゃ、ないのか。脳みそがぐらぐらするっていうのは、興奮して欲情しているってことだろう。あんたは、俺に胸を揉まれて、気持ちよくて、興奮して欲情していたんだ。……言わなかったのは、あんたが羞恥で死ぬとわかっていたからだが、俺は今、かなり怒っていてな。あんたが羞恥で死のうが、怖かろうが、実際どうでもいいと思っている」

大倶利伽羅は刷り込むようにそう言うと、今度はその唇を、山姥切の首に這わせた。そうして、はじめはちゅっちゅっと軽いリップ音をさせてキスをして、それから、痛く、吸った。山姥切はもう正体を無くして、ぐったりと大倶利伽羅に持たれて、えぐえぐと大倶利伽羅の左手を濡らした。そうしたら大倶利伽羅の手の甲が濡れて、山姥切ももう色んな感情でそれがわからなくて、ただひたすらに泣いた。怖いとか、変だとか、そういうことじゃなくて、大倶利伽羅にこういうことをされるのが、悲しくて悲しくて、しょうがなかった。そういう人だと思っていなかった、というわけではない。ただ、自分が大倶利伽羅をそういう人にしてしまったことが、悲しかった。そうしたら大倶利伽羅が、山姥切からは顔が見えないけれど、大きなため息を吐いた。多分もう怖い顔はしていないのかもしれないけれど、その息の温度で、大倶利伽羅もどうしてか、とても悲しいのだと、山姥切にはわかった。それから大倶利伽羅は、今まで働いていた無体を全部やめて、山姥切の身体を自分の方に向かせて、ぎゅっと痛いくらい、両腕で抱きしめた。

「……俺は、あんたと、ほんとうは合意の上でこういうことがしたい。男だからな。でもあんたが怖いくらい純粋だから、恋愛経験がすこぶるないものだから、あんたに合わせて、大事にしていたつもりだった。……それがあんたに全然届いてなかったという事実が、なんだろうな……もう、怒りとかではなくて、悲しい。正直、このまま犯して、付き合っているのだからと、俺のことを好きなあんたを脅して、俺に縛り付けておくのも、まあ、有りなんだとは思うが、さすがにそこまで冷血には、なれない。なんでかって、……あいして、いる……から……」

抱きしめられているからではなく、その言葉によって、山姥切はうごけなくなった。

「……あんたを泣かせたくない。泣かせた自分が嫌いだ。泣かせてしまう自分も嫌いだ。でもそうさせるのはあんたで、俺の中心みたいなところにあんたがいるのに、なんであんたは、それをわかってくれないんだ。告白の言葉が気に入らなかった……ではないな、不安を抱かせるような言葉だったということに関しては、謝る。もっとちゃんと、素直に言っておけばよかった。だが俺は、告白したことなんて、なかったんだから、勘弁してくれ……もう、ほんとうに、すきだ……すきで……ほんとうに、あいしている」

山姥切はほとんど放心状態でそれを聞いていたのだけれど、いつもよりずっと熱い息で、ずっと熱量を持った言葉を、震える声で言われたら、なんで、と思う前に、ああ、そうだったんだ、と、やっと納得した。山姥切はずっと大倶利伽羅に見合う女性になることばかりに気をとられていて、そして大倶利伽羅に迷惑をかけないようにと考えていて、そして、自分が大倶利伽羅のことをあんまりにも、好きだった。だから勝手に大倶利伽羅を神格化してしまって、結局、大倶利伽羅のほんとうの気遣いだとか、やさしさだとか、そういうことを、見落としてしまっていたのだ。そのことがずっと悲しくて、山姥切はまた泣いたのだけれど、大倶利伽羅は「すまなかった。やりすぎた。怖かったろう。俺のことを嫌いになってくれて、構わない」なんて言うから、もうなんにも言葉にならなくて、首を横に振るしかできなかった。涙が溢れて、溢れて、申し訳なさでいっぱいで、もっとずっと好きにしてくれてよかったのに、とさえ、思った。大倶利伽羅が教えてくれるならなんでも覚えるし、恥ずかしくっても、でも、大倶利伽羅だったら大丈夫だし、怖くなんかないし、それよりなにより、大倶利伽羅が好きで好きでたまらないのを言葉にしたいのに、涙が邪魔をして声が出ない。だからがんばって腕を伸ばして、大倶利伽羅の背中の布をぎゅっと掴んだ。

「……怖かったのか」
「……っ……そ、だけど……ちが……っ……」
「こんな、彼女ひとり大事にできない男で悪い……。あんたが俺を嫌いになったなら、俺はさっきあんたが言ったように、潔く身を引く。あんたを幸せにできる男は、もっと他にいると思う」
「そんな、そんな……こと、ない……ずっと、大事にして、くれてたのに、俺が……」
「……ひどいことをした。いくら怒っていようと、やっていいことと、悪いことがあった。そんな分別もつかない俺に、あんたはもったいない」
「っ……ちが、……ちがう……う、うう、違うんだ……!」
「……あんたに泣かれると、辛い。どうしていいかわからなくなる。どうしたら泣き止んでくれるんだ。俺にはそれがわからない。……だって、嫌だから、泣くんだろう。怖いから、泣くんだろう。なんであんたは、そんなにあんたを泣かせる男と一緒にいるんだ。あんたが言っていたように、俺だってあんたが俺のことを好きなのかどうなのか、わからない。あんた、泣いてる時しか好きだって言わないし、なんだかそれは、あんた自身に洗脳をかけているような気がして、それがとても怖い。俺からあんたを離してやりたいのに、幸福にしてやりたいのに、それができない自分が、情けない」

大倶利伽羅の腕に、さらに力がこもって、山姥切はずっとずっと痛かったけれど、それくらい大倶利伽羅も痛いんだな、と、わかって、必死に首を横に振った。なんでこんなに涙が出るかって、それはあんたがすきだからだって、ずっとずっと伝えたいのに、きっと大倶利伽羅の言葉を信用できなかったのと同じで、大倶利伽羅もきっと、山姥切の言葉だけじゃ、不安になるのだと、わかった。そして泣いているような声じゃ、どんなにすきだとかあいしてるとか、そういう言葉を使っても、どうにもならないんだということも、わかった。だから、「す、すこし……少しだけ、手、離して……」と、お願いをした。大倶利伽羅はとても悲しそうな眼になって、ゆるゆると山姥切を束縛していた腕を、離した。そうしてから、山姥切の目元の涙を指ですくって、もっとずっと、悲しい眼になった。それがとても悲しくて、だから山姥切は、まだうまく力の入らない脚に力を入れて、大倶利伽羅のシャツをつかんで、引き寄せて、自分の中のあらゆる勇気と、大倶利伽羅への気持ちを総動員して、ちょん、と自分の唇を大倶利伽羅の唇に、触れさせた。これはキスと呼んでいいのか、ほんとうにわからないくらい、ほんとうにほんとうに、唇の先が一瞬だけ、ほんとうの一瞬だけ、もはや一ミリ程度なのではないかという、子供の遊びでももっとくっつけるだろうというような、幼稚すぎる、ひどいキスをした。でも山姥切にとってはファーストキスで、それを、大倶利伽羅に差し出したのだ。それから真っ赤になって、目を高速で泳がせて、逃げ場がないから、大倶利伽羅の恰好いいシャツをぎゅっと握って、その胸のあたりに額を押し付けて、「……こ、これくらい、す、すき……」と、ぼそぼそ、言った。そうしたら大倶利伽羅はもうこれ以上ないってくらい力いっぱい山姥切を抱きしめて、大きく息を吐いた。

「……俺でいいのか」
「……あんたこそ、俺でいいのか」
「……あんた、俺の話聞いてなかったのか?」
「……あんたこそ、……その……あ、あんたは、何回も、キスしてるから、その……アレなんだろうが……俺は、はじめてなんだ……!はじめてを、あんたにやったんだ……!もう、もう勇気とかなんかもうすごく使って、必死こいてやったんだからな……!」
「……ああ、あんたは、そういう奴だったな。あんたがすごく、自分で言うのは自意識過剰なのだろうが、俺のことを想っていてくれたんだな、と、わかった。あんたがこういうことをしてくれるなんて、夢にも思わなかったからな。なんだろう、あんたといるとすごく、こう、あんたが可愛すぎて、どうにかしたくなる。……それで、ものは相談なんだが、俺からも、どれくらいあんたがすきなのか、キスして教えてもいいか」
「……え、いや、それは、なんというか、もう限界というか、お腹いっぱいというか、お腹だけでなくいっぱいいっぱいというか、その、あの、いや、精神が崩壊するので……」
「あんたからのキスはよくって、俺からは駄目というのは、公平ではないだろう。そして、……いや、うん、これは黙っておく。まあ、男としての沽券にかかわる問題だ。俺はずっとあんたのファーストキスを奪いたいと思っていたんだ。勿論俺からで、な。が、その小さな夢を今最高にうれしい状況でぶち壊されてしまって、その反面、かなり思う所がある」

大倶利伽羅はそれだけ言うと、ずっと抱きしめていた腕を離して、かわりに山姥切の耳の付け根に親指を添えて、バスケットボールを掴めるくらい長い指は頭の後ろに回した。そうして顔を上向かせて、とんでもなく整った顔をするりと近づけ、はじめ、目を閉じないでちゅっと軽くキスをした。山姥切も突然のことで目をあけたまんまだったので、ずっと近くで見つめ合うことになって、もとから真っ赤だった顔だったが、もはや耳まで赤くして、茫然とした。大倶利伽羅はそのまんま目を閉じないで、なんなら唇に息がかかるほど近くで、「眼は、閉じない方が俺は好きだ」と言って、また唇をつけた。山姥切の、あの稚拙なキスとはちがって、ちゃんと唇が重なって、山姥切は緊張で唇を真一文字に結んでいたのだけれど、大倶利伽羅はそれをなぞるように舌で舐めてから、角度を変えて、「口、開けろ」と言ってきた。山姥切はもう何をされているかわからなくなって、言われるがまんま、唖然とゆるく口を開けた。そうしたらそこから大倶利伽羅の熱みたいなものがはいってきて、その熱がじゅっじゅっと山姥切の縮こまった舌を絡めとって、根本を押して、深くまで入ってくるのにどうしてか歯があたらなくて、山姥切が怖いからぎゅっと目を閉じようとすると、大倶利伽羅が少し唇を離して、山姥切の下唇を噛みながら、「目は開けろ」と言うし、唇が重なるだけのキスが続いたかと思うとずっと深く舌を差し込まれて、そうなると息が続かないから「ん、ん、」とサインを出す。そうしたら大倶利伽羅は唇が触れるか触れないかの距離で「鼻で息をしろ」と言うけれど、うまくいかなくて、脳に酸素が回らないからぐちゃぐちゃになって、それでも大倶利伽羅が、とんでもなく深いのに、とんでもなく優しく、とんでもなく壊れやすいものを扱うようにキスしてくるから、山姥切はどうしていいかわからなくて、結局また涙目になった。山姥切がどうしようもなくなって逃げようとすると、もう片方の手で頭の後ろを押さえられて、逃げ道を塞がれる。そしてそれを大倶利伽羅がじっと観察してくるものだから、泣くわけにはいかなくって、でももうなんにもわからない状態だから目が溶けて、はふはふと苦しく息をし始めたら、大倶利伽羅がやっと、最後に「ん、」とキスをして、離れた。山姥切はその途端に、大倶利伽羅の胸に身体を預けて、やっぱりはふはふと整わない息をして、もうシャツを握っていることもできなくて、ぐったりと脱力した。

「……ファーストキスはまあ、あれでいいとして、俺の沽券的に、セカンドはこれくらいやっておかないと、あんた、絶対あとが大変だと思ったからなんだが、……その、頼みがあるんだが、聞いてくれないか」
「……もういやだ……死ぬ……」
「いや、その、まあ死ぬ前に、普通に、俺から少し離れてくれればいい」
「……?」
「……思った以上に、キた。可及的速やかに俺から離れることを推奨する」
「え、え……?」

山姥切は言われるがまま、どうにか身体を離そうとしたけれど、身体に力が全然入らないせいで、身体がぐらついて、背後のローテーブルに強かに背中をぶつけて、結局大倶利伽羅の胸のお世話になってしまう。「す、すまない、う、動けない……」と伝えると、大倶利伽羅が、「俺も動けない」と言ってきたので「……は?」と聞いたら、大倶利伽羅はあらぬ方向を見やりながら、「察してくれ」とだけ言った。山姥切はあまり男性の人体の構造について知らなかったばっかりに、普通に「どうしてだ?え、なんでだ?」と純粋すぎる質問をしてしまう。

「……あんた、保健体育の授業、受けなかったのか?」
「いや、受けていたが。……ほら、あるだろ、女子の……その、あれこれとか……。あとはバスケとか、バレーとか、スポーツのルール。あ、女性特有の病気についても学んだかもしれない」
「……今更だが、あんた、もしかして女子高出身か?」
「そう……だが……。中高一貫の女子高だ」
「ひとつ下世話な質問をする。コンドームの着脱方法を知っているか」
「コンコルドなら、カースト上位の女子が頭につけていたな」

それを聞くと、大倶利伽羅はああもうなんでこんなことになっているんだ、と言わんばかりに天を仰ぎ、これ以上ないくらいのため息をついた。

「いいか、あんたに選択肢を与える。論理的かつ医学的に男性の人体構造を説明されるのと、普通に今の俺の股間情報を報告されるの、どっちがいい」
「……ちょっと待ってくれ、今、聞いてはならない単語が、あんたの言葉の中に含まれていた気がする」
「いや、俺の股間情報」
「……え、」
「ああ、うん、論理的かつ医学的に説明しよう。男性には、男性と言うからには、股間に男性器がついている。女性に女性器があるようにな。男性器には様々な機能が備わっていて、排尿の他にも精液を排出する器官であるため、性行為にも使用される。そして、性行為に使用される時、と、いうか、これは男性の宿命であり、逃れられないさだめなのだが、性的な刺激によって大脳……脳と呼ばれる器官の中の大半を占めるのがこの大脳だ。そして、その大脳が興奮すると、その興奮が脊髄を通り、勃起中枢に伝わる。そしてその興奮は勃起中枢から男性器の陰茎海綿体の神経に到達する。そうなると海綿体の中で一酸化窒素が放出され、血管や筋肉に作用し、サイクリックGMPという物質が増えるわけだ。そしてその物質が増えることによって、海綿体の筋肉が緩み、血管が広がり、血液が大量に流れ込み、男性器は固く大きくなり、最終的に起ち上がる。膨張率には個人差もあるが、このメカニズムはどの男性でも、勃起不全という傷病の男性を除き、同じだ。勃起にも二種類あるが、今俺に起こっている問題はこの問題であるため、もう片方についての説明は割愛する。こうなってしまった場合の民間療法に、素数を数えるというものがあるので、俺は論理的解説をすることで脳をどうにか切り替え、ついでに並行して素数を数えるという器用な真似をしていたわけだが、あんたのふともものやわらかさだとか、当たっている胸のやわらかさだとかの感触がどうにもならなくて、その状態が保たれてしまっているというか、悪化していて、大変辛い思いをしている。そしてこの状態になると、男性の脳は基本的に男性器の言いなりになり、つまるところ性行為のことしか考えられなくなるので、正直、本当に、ヤバい」

山姥切は高校では生物でなく地学を専攻していたし、学科も物理寄りだったので、大倶利伽羅の説明の半分も理解はできなかったのだけれど、今自分と大倶利伽羅が大変危機的状況に置かれていて、大倶利伽羅の身体は筋肉がきっちりついているおかげでだいたい固いものだからこの太ももにあたっているなにかしらもそういった類のものであると思っていたのだけれど、どうにも違うらしいということは確実にわかった。

「ち、力を抜けないのか……?筋肉があるんだろう……?そうすれば……」
「だから、これは筋肉が緩んで、血流が股間に集まっているからこうなっているんだ」
「だから股間を連呼しないでくれ!」
「純粋無垢なあんたが股間という単語を口にするな!余計ひどくなる!」
「あんたは説明の中だけでも三回言ってるくせに!さらに男性器という単語は五回も言っているぞ!?」
「できるだけ理知的な表現を選んで説明したからだ!どちらも医療現場で使われる表現だしな!そしてあんたはなんでそんな単語を数える!?そんなもの数えるくらいなら俺がすきだと言った回数を数えていろ!それにあんたに他の表現で説明したら卒倒するだろう!とにかくどうにかして離れてくれ!」
「だ、誰のせいで身体に力が入らないと思ってるんだ!?」
「や、やめてくれ……ああ、もう、クソッ、一、三、五、七……」
「おい!一は素数じゃないだろう!」

大倶利伽羅は目元を手で覆って、「なんでこんなに苦労しているんだ、俺は……」とぶつぶつ恨み言を連ね挙げて、「なんで俺の彼女はこんなにかわいいんだ」だとか「なんでこんな馬鹿みたいに天然でなにも知らないんだ」だとか「もうだめだすきすぎる」だとか「今まで付き合ってきた女とかもう処女捨ててたから処女の抱き方とかわからん」だとか、「処女膜はあったりなかったりするらしいし、まず処女膜が生理やマスタベーションで喪失している場合もある」だとか「いや、山姥切はオナニーなんかしない」だとか、脳みそが完全に男性器に寝食されはじめたので山姥切もあ、これは駄目なやつだ、と、さすがに察して、身体を離そうと最善を尽くしたのだけれど、ずっと胸を揉まれ続けていたのと、なんなら本当の愛撫をされていたのと、さっきのキスで、もう脚の付け根がなにか漏らしたのではという状態になっていたし、それがなんなのかはわからないけれど、とにかくそのせいで動くと変なことになるし、かといって動かないわけにもいかなかったので、「ど、どうしよう……」と、泣きそうな顔で大倶利伽羅を見上げた。そうしたらなんでなのかは知らないのだけれど、大倶利伽羅の頭のあたりでぷつんと何かが切れる音がして、ポケットから財布を取りだした。それから中身を確認して、「……あるな」と一言言った。そして山姥切が「なにがあるんだ?財布に金銭とレシートとカード以外にこの状況を打破する何かがあるのか?」と尋ねる前に、大倶利伽羅はその逞しい腕でもって、山姥切を抱え上げ、あっという間に背後にあったベッドに押し倒した。動けなかったのではなかったのか。


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