3つのモーニング

 ベーコンの香ばしい香りが鼻腔をくすぐった。ジュワジュワと油の踊る音が聞こえリビングの扉に手をかける。

 20畳ほどのリビングがメインとなるこの分譲マンションは築3年の新築だ。正直、一人暮らしの身では随分と広すぎるような気もするが組織から与えられたものに文句をつけるほど大きく出るつもりなど到底ない。

 寝室とリビングを隔てる扉を開くとすぐにダイニングキッチンが目にはいる。死角になったキッチンの奥、冷蔵庫がある場所からは生活感のあふれる音がしたままだ。何かを探しているのだろうか、冷蔵庫を漁る音もする。ちなみ冷蔵庫にはミネラルウォーターと卵しか入っていないはず。

「ハァイ、バーボン。何をしているの?」
 死角から顔を覗かせると驚いた顔の男が立っていた。
「これはこれは……随分とお早いお目覚めですね」
 褐色の肌が黒地のエプロンでより映える。目覚めの景色にしては、いささか刺激的だった。

「その喋り方、まるで仕事中みたいね」
「貴方こそ、まるで夜の別件後のようにセクシーだ」

 いつもと何ら変わりのない蒼眼の垂れ目が微笑みを浮かべることでより一層甘く幼い表情へとつくり変えるが色は確かに女を知る男のそれだ。
 寝巻きの上から蛇のようにまとわりつく視線に身震いした。これがこの子の手腕だと知っていてなお、女の躰は期待をする。

「……よくまわる舌ね、ボウヤ」
「貴方よりは歳上ですが?」
「バーボン」
 年齢のことを言っているのではない。この世界は、少なくとも私たちのいる社会は実力主義だ。言外に言ってのければ、バーボンは肩を竦めてみせた。

「貴方には敵わない」
「"夜の別件"では負けるわ」
「……それは褒め言葉ととっても?」
「褒めてるじゃないの」

 複雑そうなバーボンの顔を横目にカウンターを離れる。
 この男の困惑した表情を見るのは癖になる。……困ったものだ。

「どこへ?」
「……貴方、いつもそんなことをレディに聞いているの?」
「いえ?貴方の口から聞いてみたい」
「それを望むにはまだ早いわ、ボウヤ」
「……貴方よりは歳上なんですがねぇ…」

 らしくない。不意にそう思った。
 バーボンは要領のいい男で、同じことを何度も言わせるような人間では決してない。
 そもそも、なぜ今朝に限ってギムレットの部屋に我が物顔でいるのか。
 そう、だって今日は初めての……。

「ギムレット」
「…………」

 お手洗いの扉にもうひとつの影が重なる。
 背中をみせたのがいけなかったのか。

「僕、貴方よりは歳上なんですよ」

 頭ひとつぶんほど高い男の胸板が背中にあたる。いや、あてられている。

「ねえ、ギムレット?」

 男の下肢が腰にピタリとくっついた。……とても、熱い。

「怖いでしょう?」

 男の熱い息が耳朶をくすぐった。怖くない。即答できるほどの鋼の心臓は持ち合わせていなかった。

「ギムレット」

 下腹部にするりと滑り込み回される腕は男の細い体躯に似つかわしくない筋肉質な褐色の腕。
 手のひらが下腹部の下、敏感な部分をゆっくりと撫でた。

「……ッん…」
「……貴方の実力は認めています」

 熱を孕んだ吐息が耳の最奥まで届く。徐々に脚の力が抜けていく。
 その度に、口からは意味をなさない声がこぼれそうになる。

「だけど」
「っあ?!」

 下肢に添えられた男の手に力がこめられた。用を足そうとしていた寝起きの体は突然の刺激におののいた。

「……ッ、バーボン!」
「っと」

 後ろ手に殴ってやろうと試みたが、いつの間にか完璧に固められていた。

「……バーボン、離しなさい」
「ええ、だから話してるじゃないですか」
「ふざけているのなら、脳天に風穴があくわよ」
「"ボウヤ"はいつだって本気なんですよ」
「……離してちょうだい」
「イヤです」

 堂々巡り。
 はたしてバーボンとはこんな男だっただろうか。考えてみるが、近づく尿意に思考がすみに追いやられる。

「バーボン」
「なんです?」
「元気なボウヤの相手をするほど暇じゃないの」

 貴方なら、歩くだけで適当に寄ってくるわよ。と続けると、締め付ける腕がより強くなった。

「……っ、ちょっと…!」
「貴方がいい」
「……バーボン、自分の言っていることが分かっているの?」
「ええ」
「だとすれば、いまの貴方は正常じゃないわ。ハイにでもなってるのかしら」
「いいえ」
「バーボ……」

「本気、なんです」

 男の声は震えていた。

「……ギムレット、僕は知ってるんです」
「……」

 何を、とは聞かない。バーボンが知っているということは自身も知っているということ。
 薄々は感じていた。バーボンのコードネームをもつこの男は……。
 けれど、それを口にするのはまだ早い。

「貴方が私の何を知っているっていうの?」
「………」
「私のことをすべて知っているのは、あのお方と…ジンだけよ」
「……ギムレット」

 不意に拘束が緩んだ。反射的にバーボンの腕から抜け出る。

 この男は何がしたいのか。
 この男は何を言いたいのか。
 この男は自身をどうしたいのか。

 まったく分かりもしないがただひとつだけ言えるとするならば。

「バーボン。確かに私にとって本番ありきの任務は初めてよ」
「ええ、知っています」
 それはどういう意味か。蒼眼がギムレットを見据えている。
 ギムレットは目を離さずに続けた。

「だけど、全てにおいて私が失敗することなんてないの」
「……それは、どういうことでしょう?」

 バーボンのシャツの金具部分が光の反射をうけてわずかにチカチカ光る。
 バーボンはそれに気が付かない。

「だからボウヤだって言ってるのよ」
「はい?」

「さっき言ったじゃない。脳天に風穴が“あく”わよ、って」
「……は、なっ!まさか…!?」

 バーボンが目を見開く先は窓。
 カーテンが開いたままの窓。
 その先の向こうにある高層ビル。

「……フッ、そういうことですか」
「そういうこと。ご理解いただけたようでなによりだわ」

 降参だと両手をあげたバーボンに肩の力をぬいた。
 どうやら知らないうちに体が強ばっていたようだ。

「さ、食べましょ」
「え?」
 テーブルのうえには二人分の朝食。ギムレットが好きなフレンチトーストと桃のヨーグルトが二人分置いてある。

「あら、まだ出来ていないのかしら」
「……いえ、食べてくれるのかと思いまして」
「……当たり前じゃない。こう見えて私、貴方のこと信用してるのよ」
「………」
「だって“仲間”でしょう」
「……!」
「ふふっ、そんなに驚かなくたって良いじゃない?一時休戦としましょう」

 垂れた蒼眼が見開かれたその顔は本物なのか。
 考えながらも、ギムレットはおもむろに寝間着のネグリジェを裾から捲り上げた。

「……っと、朝からストリップですか?」
「あらやだ、わかってるくせに」

 下着など穿いていない。それは目の前の男もわかっている、確認済みだろう。下生えも一応揃えてはいるが見えていたら……まあ、その時はその時だ。

 内腿のホルダーから一丁の拳銃をぬき食卓テーブルの上に置いた。


「あなたも、ほら」


 食卓テーブルの上には、フレンチトーストと桃のヨーグルト。
 二丁の拳銃と、一本のレーザー光が朝日とともに射していた。

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