02
「慧」
−−−低く柔らかい声は暗闇のなかに溶け込み、ゆっくりと私を蝕んでいく。
その毒は、指で、口で、目で、彼の全てを以てして私の中に注ぎ込まれ、器は毒が満たされる時を待つしかない。
黙って、ただその時を待つだけしか出来ないのだ。
「今日はお前に会わせる奴がいる」
「……はい」
「来い」
人と会うのは、いつぶりだろうか。
まだ見ぬ相手に胸が高鳴った。
最近は、この部屋から出ることはおろか、食べ物すらまともに食べていない。
そのせいか立ち上がった途端に眩暈が襲い、視界が揺れ、その場に座り込んだ。
「ああ、そういえば食事をやっていなかったな」
返事をしようとしたが、胃液が込み上げてくるような感覚に口を開けることも、頷くこともできなかった。
「この部屋で吐かれても面倒だ」
この男はどこまでも…と怒りを覚えたことも最初だけだった。
そう、彼は最初から何も変わっていない。変わったとするならば、自分…いや、そこに自分の意思など存在しなかったのだから、変えられた、というほうが正しいのかもしれない。
「いま手元にあるのはこれくらいだ」
「…がと、ございます…」
鈍く痛みはじめた頭を体全体で支えるようにして、吐かないように一口、一口と頬張っていく。
「次は202の研究室だ。結果次第では、食事の時間になる」
「・・・はい」
「なぜ三日も食事を与えられなかったか、分かるな?」
−−−三日前。
慧は初めての潜入捜査となる仮面パーティで組織の薬が横流しされているとの噂がある別組織の幹部の息子を会場のダンスホールから移動させ別室に確保しておくよう命令が下った。
別室とは、つまり幹部の個々にあてられた客間のような部屋であり、その命令の指すところは対象を自身から離れられないよう“穏便”に“確実”に遂行するということだった。
そんな方法は、たった一つしか思い浮かばない。
しかし、そうする為にはアポトキシンを飲み子どもの姿となっていた自身には到底無理な話であった。
そして慧に下された命令に、自らの意思で背いた。
−−−私が、この世界で生きていくためには目の前のジンの命令に従うしかない。
「二度と命令に背くな」
……怖かった、ただ目の前の男が。怖い、それだけのことだった。それだけであり、それしかなかった。
知らない男に体を許す、その行為に吐き気を。目の前の知らない男に恐怖を覚えたのだ。
「…はい…」
−−−すべては目的の為。間違いは、犯していない。
ジンも、私も。
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