Experience
あれからまた時が経った。
私は秘書の仕事にすっかり慣れ切り、かといってゆるむことはなく淡々と案件を片づける毎日を送っている。
オールマイトさんは、私の前にしばしば本当の姿で現れるようになった。秘書一年目はよほど気張って、私に元の姿を晒さなようにしていたらしい。頑張りどころがおかしい。
二度目三度目ともなると、虚実ではなかったかぁとげんなりすることはあっても、初めてのときよりは余裕が出る。
だからといって何度目かのときに「もしかしてお酒飲めないんですか」と緊張を紛らわせるために訊いたのは、ちょっとバカだったなと反省している。もっとこう違う話題あったろ、あの頃の私。
仕事を終えたら買い物を済ませて家に帰る、というのが出勤日のお約束だ。
しかし今日はあしたが休みということもあり、気持ち余裕があった。
久しぶりに映画でも観ようと思い至った私は、映画館へとクルマのハンドルを切る。
レイトショーを選べばいくらか安上がりだ。友達が話題にしていた映画の券を買い、近場で適当に夕飯を食べて劇場に臨んだ。
約二時間の映画は素直に面白かった。テレビでもしきりに取り上げられているだけのことはある。
駐車場まで歩きクルマのキーを手にしたそのとき、ふとケータイの電話が鳴った。仕事用の端末だ。
見てみれば画面には『八木さん』の文字が光っている。時計はもう日付変更線を越えていて、一体何事だと電話に出た。
「はい、渡です」
≪…………。こんばんは≫
「あ、はい。こんばんは」
やけに他人行儀だが、声は本人のものだ。
≪いま、時間は大丈夫かい?≫
「はい、大丈夫ですよ。いかがされましたか」
≪…………。申し訳ない……≫
とてもすまなさそうかつ、沈んだ声。もしかして緊急事態なのか。たしかにこの時間帯に電話だなんて、いささか非常識ではある。
≪……その、だね。終電を、逃してしまって……≫
次に沈黙するのは、私の番だった。
こ、これは……ちょっと、初めてだぞ。
詳しく話を聞いた。簡略、平和の象徴、買い物帰りにうっかり活動限界までヒーロー活動をしてしまい終電を逃す。
タクシーを呼ぼうにも、手元に電子マネーはあるが財布は持ち歩いていないとのことで、私にヘルプを求めたとのことだ。時間外労働になってしまうので相当渋ったようだが、背に腹は代えられなかったのだろう。
「分かりました。今どちらにいらっしゃるんですか? 迎えに参ります」
≪私から電話しておいてなんだが、いいのかい……?≫
「はい。私もいま帰るところでしたし」
≪帰る?≫
「仕事上がりに映画観てたので」
そう言うと「なるほど」と電話越しに上司は頷いた。納得いただけただろうか。
≪なんの映画だい? あ、もしかして今話題の?≫
話が曲がるところだったので、軌道を修正して現在地を聞き出した。そういえば映画好きだって言ってらしたっけ。
クルマを走らせ待ち合わせ場所に到着する。
八木さんは申し訳なさそうに助手席に乗り込んだ。
「今から家にお送りするとなると、それなりにかかってしまいますね」
八木さんの家は、ここからは近くはない。むしろ、私の家のほうがずっと近い。
「め、面目ない」
「ああいや。すみません、そういうつもりではなく。ホテルを取ろうにもこの辺は、うーん……」
適当なホテルが、ないんだよなぁ。結論、
「……うちでいいですか? あした自宅までお送りします」
「……………………。いろいろ不味いだろうそれは!?」
「ううん……ベランダから跳び立ちでもしない限りは、大丈夫だと思ったんですが」
仕事なんだからべつに警戒することもない。その点においては上司を心底信用している。間違いなんて起こらないと自信を張れる。
「そちらではなくてだね! コレだよ、コレ」
アワワ……といった顔をして、八木さんは片手の小指を立てた。意味を理解するのに二秒ほどを要した。表現が、古い。
「大学で自然消滅したっきりですね。大丈夫です」
「…………。したたかになったなぁ……」
「さすがにちょっと眠くて……」
「ごめんね……」
遠い目で項垂れながらシートベルトを着用した上司を横目に、私はクルマを発進させた。
20170623
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