待ち人
緑谷家で過ごしたその日。
出久が風呂に入っているときのことだ。出久の母は、先に入浴を済ませたガラスに冷たい麦茶の入ったコップを差し出しながらいたって朗らかに囁いた。
「ねえガラスちゃん。少しお話をしようか」
真剣な色を帯びている声音だった。
ガラスは、よく冷えたガラスのコップを握り締めたまま、わかったと頷く。
出久の母親と、テーブルを挟んで座る。奇妙な沈黙の中、口に含んだ液体の冷たさにガラスは驚いた。こんなにつんとした飲み物を彼女は知らないし、麦茶なるものだって飲むのは初めてだ。へんな味、と思いながらも不味くはないのでそのまま流し込む。
その様子をぬくもりのあるまなざしで見守っていた出久の母親は、目の前で組み合わせた両手を見つめ、それからまたのろのろとカラスの子を見直した。
「いくつか、訊いてもいい?」
「ん? なに?」
「ガラスちゃんは、その個性を、いつから持っているの?」
「コセイ、個性。ん。ん、ええと、この間よ。んー……それで、イズクと会う前に、三回くらい、お日様は沈んだ」
「――ほんの、最近」
ガラスからの告白に彼女は絶句する。本当に、ついこの間だ。そのときまで、ガラスはただのカラスに過ぎなかったのに。そのときから、この子は極めて異質な一人へと成り果てた。
さらに出久の母親はいくつか質問を重ねる。中には、先ほど聞いたばかりのことの再確認もあった。
家族のこと。ガラスは自分を生み育てた家族の行方なんて、もうとっくに見失っている。
家のこと。ガラスには住んでいる家はない。強いて言うならば、緑谷家も住むこの街は彼女のなわばりだ。
友達のこと。友達という言葉を聞いて、ガラスが真っ先に浮かんだのは出久だった。そして少しだけ、爆豪勝己。カラスの仲間はたまには群れることもあったし、協力も助力もしあう仲ではあるものの、友達ではない。
自分のこと。ガラスは自分が個性なる力を持つ生命体であることを自覚している。加えて、己のことをあくまで人間ではなく、カラスなのだということも受け止めている。それでも、この姿を得るようになってから、彼女は同じカラスの仲間たちとは距離を自然と置くようにもなっていた。自分は違うのだ、ということを、カラスらしく賢しくも理解しているからだ。
淡々となんでもないように話される特異なカラスの常識に、出久の母親は何度も何度も頷いた。
そして、
「……ガラスちゃん。人間の世界ではね、個性は、持つようになったら、同じ人間の偉い人たちにその個性のことを言わなければならないようになっているの」
「ん」
「ガラスちゃんは人間ではないけど、それでも人間みたいになれてしまうから、だから本当は人間と同じように、自分のことを教えたほうがいいのだわ」
「ん」
「私はね。ガラスちゃんのことを、あとで、人間の偉い人たちに教えようと思ってる」
そこまで聞いてもなお、ガラスの表情は変わらず。うんと首を縦に振ったカラスの少女は、首をかしげて初めて出久の母親にひとつ問うた。
「そしたら、ワタシはどうなる?」
わかっている。悟っている。
自分はもう、ただのカラスではないのだから。今までと同じように、そこらのカラスとしては過ごすことはできないのだろうと。出久と出会い触れ合い、ひととして動くことが多くなってからは尚更濃く思うようになった。そんなところにまで彼女の人間性は急激に育まれている。
ガラスはガラスなりに考えて理解して、納得して、そして待っていた。いつか自分が「カラスではないもの」として拾われてしまうそのときを。
――そのときが来たのだと。ガラスはひたすらに冷静だった。
「うん。大丈夫。悪いようにはされないと思う。あとでね、ガラスちゃんを迎えに来る人がいる。さらにそのあとは、きっと、ガラスちゃんは私や出久と同じように、人間として暮らしていくことになるのよ」
ん、と。ガラスは癇癪を起こすことも、何故と問い返すこともなく、告げられた現実を受け止めた。
ごめんね、と出久の母親が悲しそうに笑っている。どうして謝るのだろうとそれだけが不思議だった。
緑谷家で一晩を過ごした日から、数日後。
「あなたが、ガラスちゃん?」
出久と遊んだあとの夕方のこと。いつもの空き地に現れた女性がいた。
「ん。ワタシはガラスよ」
「そうですか。はじめまして、ガラスちゃん。わたしはミズ・ニードル。緑谷という方から連絡を貰って、あなたを迎えに来ました」
「ん。待ってた」
「……人になれる個性を持っている、カラスの子だと聞いているけれど」
「そうだよ。ワタシは、ん、ミズ・ニードルに、着いて行く。でも、ちょっと待ってくれないか」
訝しげに目を瞬かせるミズ・ニードルを見上げたまま、ガラスは続ける。
「お別れを、言いたい子どもがいる」
よく晴れたこの日、夕焼け空は遠くまで届いていて、はるか地平線にまで及んでいた。
遠くで、カラスが鳴いている。
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